最終話 エイプリルフール
夜が明けた。
この世界に来てからというもの、学校へ行く日々を繰り返していた為か、起きる時間が決まってきた。
朝六時半ピッタリに目覚め、ゆっくりと上体を起こす。
左隣には、未だ可愛い寝息を立てる咲桜の姿があった。
その長く艶やかな黒髪に指を通し、頭を撫でる。
くすぐったそうにするその姿を目に焼き付けて、起こさないようにベッドから退場、一階にあるリビングへ向かった。
自分では早く起きたつもりなのだが、美桜子さんと健蔵さんはいつも定位置にいる。
美桜子さんは朝食の準備をしていて、健蔵さんは新聞に目を通している。
いつも通りの日常。
そして、今日で最後の日常だ。
父さんたちは、午前中に迎えに来るらしい。
でも、あの父さんたちのことだ。午前中ギリギリまでは、俺にこの世界を楽しませてくれるだろう。
だから俺も、最後まで、目一杯日本を楽しむつもりだ。
朝食の準備ができると、タイミングよく咲桜が起床してくる。
「おはよう」と挨拶を交し、四人全員が席に着いて、手を合わせる。
「いただきます」
朝食を済ませて、歯を磨く。
今日の予定は、約一年間世話になったこの家でダラダラと過ごすつもりだ。
自室へ戻り、辺りを見渡す。
来た当初から比べると、物が多くなった。
それは、咲桜から借りた本だったり、家族旅行の時に買った咲桜とお揃いのストラップだったり、修学旅行のお土産だったりと、様々だ。
そんな数多くの思い出が溢れる室内で、一番のお気に入りの物を眺める。
「写真、結構撮ってるな──」
それは、思い出のアルバムだ。
学校での体育祭や文化祭の時の写真はもちろん、日々過ごしていく中での何気ない風景を撮ったりしている。
時計の秒針の音が響く中、その音より数倍遅く、ページを捲っていく。
と、そこへ。
「ベラ、いるの?着替えて!」
ドア越しから聞こえる咲桜の声。
ドアを開けて話せばいいものを、律儀に勝手には開けないのだ。プライバシーがどうとか。
アルバムを閉じて、本棚へそっと入れる。
そして着替えると、廊下へ出た。
そこには外行きの服装をした咲桜が立っている。桜色をした服を纏って、両手には小さめのカバンを持っていた。
「どこか出掛けるのか?」
言いながら、玄関で靴を履く。
「いつものところ!」
靴紐を結ぶ頭上から、快活な声がした。
見上げるとそこには、普段通りの、天使が顕現したかのような、この世で最も可愛い顔をした咲桜が満面の笑みで立っていた。
広場に来た。相変わらず誰もいない。
今日はベンチには座らず、奥の方にある小さな遊具エリアで、童心に返って遊ぶらしい。
カリステアにもあったら子供が喜びそうだな、と思うものがいくつもある。
滑り台にブランコ、シーソー、鉄棒、etc──。
「ベラ、次シーソーしよっ!」
無邪気な笑顔に、俺は咲桜に合わせてシーソーにのる。
上下にカクンカクンと揺れながら、思い出したように咲桜が言う。
「そういえば今日、エイプリルフールだよ!午前中だけはいくらでも嘘ついて良いんだって!」
「なんだそれ」
嘘をつく日とは、どうなんだろう。と思いつつも、まだこの世界について知らないことが多すぎることを、改めて気付かされた。
「だからね、今日一日通して、一回だけ嘘つこうよ!」
「俺、午後には居ないんだが──」
苦笑いしつつ、しかし、その話に乗る。
嬉しそうに「じゃあ、嘘がバレた方が負けね!」とはしゃぐ咲桜。
嘘をつく勝負、とは何とも人聞きが悪いが、咲桜が楽しそうならいいか。
時計が十の数字を示し、家へ戻る。
その帰り道、咲桜が俺の名を呼び、突然告げる。
「私実は、ベラのこと嫌いだから」
「嘘だな」
下手くそに睨んで、分かりやすくそう言った。
前から分かっていた事だが、咲桜は嘘をつくとき、右手を忙しなく動かす。
それは、今回も同じ。今回は右手で自分の服を摘んだり、自分の長い髪を指に巻き付けたりと、それはそれは動いていた。
間髪入れずに嘘を見破られた咲桜は、驚嘆を露わにして、頭を抱える。
「完璧だったのにー!」
「具体的にどの辺が完璧だったのか知りたい」
そう叫ぶ咲桜に間髪入れずツッコミを入れた。
すると咲桜は、思い出したように「あ」と声を漏らす。
「ベラの嘘が見破れたら引き分け?」
「あー、まぁそれでいいんじゃないか?」
名案と言わんばかりにドヤ顔を決める咲桜にとりあえず同調して、帰宅した。
無事に帰宅すると、既に父さんたちが高峰家の敷地に入っていた。
帰宅して目が合うと、「早めに来たよ。正午まであと少しだから、まだ満喫してていいからね」とコーヒーを優雅に嗜みながら言った。
言われずともそうする、と口に出すより、手を洗って咲桜と隣同士、ソファに座ってアニメを見る。
「ベラはもう嘘言ったの?」
アニメが一旦、いつもは飛ばすはずのCMに入った。
今日は飛ばさずに、咲桜が話しかけてきた。
咲桜との距離はソファの大きさの関係で殆どないにひとしく、微笑みながら言う咲桜と顔が近くて、心臓の音が早くなる。
こればかりは、どれだけ一緒にいても慣れない。
一度心を落ち着かせて、咲桜の質問に答えた。
「いや、どんな嘘つこうか悩んでる」
「だろうね、今すっごく悪そうな顔してる」
ふふ、と笑いながら俺の顔を指さす。大分失礼だし、どんな顔なのか気になる。
さて、咲桜に嘘をつくという事だが、なんの面白味もない嘘はつきたくない。
咲桜をあっと驚かせるような、そんな嘘をつこう。
何があるか、考えて、考えて、考えて──
「あ、ベラ始まった!」
「集中力がぁ〜」
思考を強制的にシャットダウンさせられて、アニメを見ることに集中した。
そして、いつの間にか時は過ぎて、もうすぐ正午になろうとしていた。約束の時間である。
帰りの準備を済ませて、玄関でそれぞれが別れの言葉を告げる。
結局、咲桜へ嘘はついていない。
どう嘘をつくのか──。
「いやぁ、うちのイュタベラがお世話になりました」
「いえいえ、こちらこそ、サクラを貰ってくれてありがとうございます」
帰りの見送りで、父さんと健蔵さんがお互い楽しそうにそう話す。
「美桜子さん、ありがとうございましたぁ。また料理教えてくださいねぇ?」
「教えることがもうあるのかどうか…。毎日料理すると腕は自然と上がりますよ」
すっかり仲良くなった母さんと美桜子さんが、笑顔で料理について話している。
そして──
「もう、行っちゃうんだね。長いような、短いような──」
「そうだな。あの日、森の中で彷徨って、咲桜にあって──。それから色々あったよな。全部鮮明に思い出せる」
あの日のことを懐かしみ、少し目頭が熱くなる。だが、涙は零さない。
これは、永遠の別れではないから。
だから、だからこそ、普段通りに話すのだ。
お互いが、お互いのことを忘れないように。
忘れたくても忘れられない存在を、その目に焼き付ける。記憶に残し続ける。
──ずっと、愛し続ける。
だから、この別れは悲しくない。
「ベラもすっかり日本に馴染んでるから、向こうで何かやらかさないようにね。あと、私の事、時々でいいから──いや、毎日思い出してね」
「時々で止めた方がロマンチックだったぞ」
いつものようにツッコミを入れて、二人で笑い合う。
あぁ、この時間が、ずっと続けばいいのに。
しかし、無情にも時は、絶えず流れ続ける。
その貴重な時間は、咲桜と共に過ごしていたくて。
ひとしきり笑い合って、そして、
「そ、それとね、えっとね、向こうでも頑張ってね。あと、あとね、あと、ね、」
何か話題を見つけようと、頭に浮かんだ言葉を言い続ける咲桜。
その声は徐々に震え、そして遂には、その黒く大きな双眸から、大粒の涙が溢れはじめる。
「あ、れ、いけない、私、今日は、泣かないって、きめて、た、のに──。あはは、だめだ、止まらない」
必死に涙を拭いながら、無理やりに笑みを浮かべようとしている。
その姿が痛々しくて、最後に見る姿が、その姿なんてとても嫌で。
気づけば俺は咲桜を抱きしめ、咲桜のその餅のように柔らかい頬に自分の唇が触れていた。
「ふぇ」と間近で咲桜の漏れ出た声を聞いて、我に返り、咲桜を抱きしめる腕をほどく。
父さんと母さん、健蔵さんに美桜子さん、四人全員に目撃され、流石に恥ずかしさで顔から火が出そうだ。
当の咲桜も、驚きで呆然と立ち尽くしている。
そんな中、時間となり──
「時間だね。帰ろう。僕たちの世界に。高峰家の皆さん、本当にありがとうございました」
そう言って、呪文を詠唱。玄関を開くのではなく、玄関前でゲートを開いた。
父さん、母さんが、お礼を言ってその中へ入る。
俺もそれに続こうとして、足が動かなくて──
その時、背中に柔らかな、暖かい感触が触れた。
見なくてもわかる。咲桜が後ろから抱きしめてくれたのだ。
「恋する乙女は強いって言ったけど、ベラも大胆になってたよ」
少し声をふるわせて言って、首筋に咲桜の唇が触れた。
「──ありがとな、咲桜」
その感謝が、咲桜の耳にも、高峰家の心にも届いたらいいなと思いながら、ゲートに片足を踏み入れる。
「今まで本当に、ありがとうございました。いつか、必ず、ここに帰ってきます。なので──」
昂る感情を抑えるために、ゆっくりと深呼吸する。
吸って、吐いて。気持ちを落ち着かせて、今自分に出来る最高の笑みで、言った。
「なので、その時まで待っててください。ここは、高峰家のみんなは、俺にとってもう、かけがえのない家族なので」
そう言って、もう一方の足をゲートの奥へ。
それが合図だったかのように閉じ行くゲート。
その合間に、「そうだ」と咲桜へ向けて──
「さっきのキスは、カリステアでさよならって意味だぞ!」
そう言って、無事にカリステアへ帰還した。
収束したゲートの跡を見つめながら、咲桜がぼそりと呟いた。
「──ダウト。嘘って分かるよ、そんなこと」
再び溢れ出した涙を床に零しながら、笑顔を絶やさずにそう呟いた。
そして、膝の力が抜け、へたりとその場に座り込み──
「引き分けに、なっちゃったなぁ」
震える声が、室内に木霊した。
十二時の鐘が鳴ったのは、その直後の事だった。
かくして、俺の異世界冒険譚──もとい、俺と咲桜の馴れ初めの物語は幕を閉じた。
その数年後、ゲートが日本中に置かれ日本は『カリステア及び日本連合国』として、世界各国から注目されることとなる。
その世界の小さな国の中で、イュタベラ・カリステアと、サクラ・カリステアが永遠の愛を誓ったのは、言うまでもない。
ただ、風に吹かれる桜の花びらだけが、二人の愛を祝福していた。