第113話 もう一度、君と
一度零れ出した涙は止まらず、咲桜の拳を濡らし続ける。
その痛々しい様子に、言葉も出ない。
咲桜の言葉を、待つ。
数分が数時間のように感じられた頃。ようやく落ち着いた様子の咲桜が、嗚咽交じりに呟く。
「わた、しが悪い、のに、何でベラが謝るの──。ベラは、わる、く、ない、のに──」
赤く腫れた眼を擦りながら、まるで子供が拗ねたように唇を尖らせる。
私が悪い、俺は悪くない、と。
咲桜の中では、そう結論付けたのだろう。
だが、その結論は正しくはない。
俺は、こんなにも泣いている人を宥めたことは無いし、そう出来る器量は持ち合わせていない。
だから、咲桜の間違いを、正す。俺が出来ることをする。
咲桜は何も気負う必要は無い、と。俺が責められるべきだ、と。
咲桜は少々、自分を卑下し過ぎだ。
「咲桜、あのな──」
「──?」
まだ少し潤んだ黒い双眸が、俺を映す。
何度見ても、綺麗な瞳だ。
一度深呼吸して、緊張を少しでも和らげる。
「──」
この言葉で、咲桜は立ち直ってくれるだろうか。こんな言葉で、咲桜に自分は悪くないのだと、思わせられるのだろうか。
そんな不安が胸中を渦巻き、言葉が詰まる。
勇気を振り絞り、再び目前の黒い瞳を見つめた。
「──悪いのは、俺だ。勘違いして、咲桜に帰宅が早まったことを知らせなかった、俺の責任だ」
咲桜には今、俺がどのように映っているのだろうか。
俺は綺麗事を並べるのが得意ではない。
それ故に、言いたいことははっきり言う。
今日だけ、目の前の咲桜が悲しまないように言葉を選ぶ。
そんな高等技術は、持っていないから。
「咲桜は、自分を下に見すぎている。少しは自分は正しいと思うんだ。あの人が悪い、自分は正しいって」
「そ、そんなの、傲慢じゃ──」
咲桜が、言葉を差し込み否定する。
が、動じない。俺の中ではもう、俺が悪いということが正しいと、決まっているから。
「ちょっとくらい神様も許してくれるだろ。というか──」
そこで一つ、深く息を吸う。
次の言葉を待ち、口を噤む咲桜。
全身に酸素を巡らせ、次の言葉を、紡ぐ。
「咲桜を笑顔にさせない神なんか、消滅しろって思うな」
頑張って微笑み、少しでも場の空気を和ませる。
その言葉を最後に、咲桜は俯き、喋らなくなった。
その身体に、どれほどの不安や不満があるかは分からないが、そんな時こそ俺を頼って欲しい。
その事は口には出さずに、咲桜の次の反応を待つ。
静寂が広がる。居心地が悪く、今すぐにでも部屋から出て、咲桜とどこかへ出掛けたい気分だ。
やがて、ぼそりと呟く一言で、俺は、俺たちは、静寂という鎖から解き放たれた。
「──そっ、か」
力のない、しかしどこか、安堵感の垣間見える声音。
その一言だけで、悟る。
俺の気持ちが、通じたのだと。
不意に立ち上がり、ベッド奥のカーテンを開く咲桜。
青空が白い雲を浮かべる、心地よい景色。そこから漏れる陽光が、暗い室内を眩しく照らし出す。
それを正面から浴びる咲桜の横顔は、何かが吹っ切れたように穏やかで、あの太陽にも負けない微笑みを浮かべていた。
「あ、言っとくけど、ネガティブ思考ならベラも人のこと言えないからね」
「せっかくいい感じに締まったんだからさぁ」