第111話 狂った歯車
あれから数日が経ち、三月の最終日を迎えていた。。今日という日が終わるということは、すなわちこの異世界での生活も幕を閉じるということを意味する。
咲桜は相変わらず、部屋から出てこない。
咲桜と会わないこの数日は、心に大きな穴が空いたような虚無感が、常に俺を蝕んでいた。
終業式の日、俺ではなく矢野先生の口から、俺が四月からこの学校に居られなくなる事が、クラス全員に伝えられた。
クラス全員が唖然とし、帰りのHRの終了直後に質問攻めにあったり、別れを惜しむ声を聞いた。
ただ一人、俺の事情を知っている行飛は、「またな」と笑顔で送り出してくれたが。
本来なら、この大勢の惜別の言葉を、心の底から嬉しく思うのだろう。
しかし、その場に咲桜がいない。そのたった一つの事象が、俺に喜びという感情を与えてはくれなかった。
咲桜との亀裂が発生してからずっと、今後咲桜とどう接するべきか、いや、まず俺が帰るまでに部屋から出てきてくれるのか、その事が思考を支配している。
表情に出ていたのか、最初は別れの言葉を告げていたクラスメイトも、いつの間にかそれは、咲桜がいないことを心配する声に変わっていった──。
「サク〜、ここにお昼ご飯置いとくからね〜」
部屋の外から、美桜子さんの声が聞こえる。
最近では聞き慣れた、咲桜を呼ぶ声。
本来なら俺がしなければならないのだが、美桜子さんと健蔵さんが口を揃えて「やめておいた方がいい」と苦笑いを浮かべながら言った。
酷い罪悪感に胸を痛める。
まるで握りつぶされるように痛む心は、未だに咲桜を求めている。
もう残り少ない時間を、咲桜とともに費やしたい。
最後の日くらいは、咲桜と共にいたい。
俺の落ち度でこんなことになっているというのにこんなことを願うなど、俺はなんて強欲なのだろうか。
自嘲しつつ、自室のドアを開ける。
目の前には、閉じたままのドア。空の食器。
空の食器を美桜子さんに渡し、再び咲桜の部屋の前へ。
階段を上る足が、日に日に重くなっていることを実感しつつ、幾度となく繰り返した、咲桜への声掛けを、今日もする。
「──咲桜、本当に、ごめん」
「──。」
「──明日、カリステアに帰る」
「──。」
「──」
途切れ途切れに、咲桜へ一方的に話しかける。
ごめん、とは言ったものの、許してくれるとは思っていない。
ただ、十と数日聞いていない、あの細くて透明感のある、綺麗な声を。この世で最も愛しい声を、最後にもう一度だけでいいから、聞きたい。そのエゴに突き動かされて、無言の咲桜に言葉を紡ぐ。
「──まだ、出てこないか」
「──。」
「──本当に、悪かった」
「──。」
「許してもらえるとは、思ってない」
「──。」
「ごめんな。ただ、最後の日に、咲桜の声が、聞きたかっただけなんだ」
「──。」
これ以上は、もう、無駄だろうな──。
「じゃあな、咲桜。いつになるか分からないけど、また戻ってくるから」
「──。」
「あぁ、すまない。もう、会いたく、ない、か?──そう、だよな」
「──。」
「じゃあ、な。明日の朝に、出るから」
「──。」
「楽しかったよ。ありがとう」
「──。」
「これが最後だが──彼氏っぽいことできなくて、ごめんな」
「──。」
これで、咲桜たちとの繋がりも、もう──
「──ま、待って」「──え?」
背を向け、荷造りをするために自室へと足を向ける。
──その背、咲桜の部屋の扉が、ゆっくりと、音を立てて開いた。
「──中、入って」
そこには、昏く光る黒瞳が、艶やかな黒い長髪が、透き通るような白い肌が、触れれば壊れてしまいそうなほどに線が細く、儚げな雰囲気を灯した、愛しい人──咲桜が、扉を開いて、立っていた。