九
仮想現実が、細胞間を満たした。
マコトの膚を走るのは、“神域”が見せる格子と行列であった。高次に構成された超分子の、擬似塩基配列が像を結ぶ。入り込む虚像は神経と連動し、触れるもの全てが伝達される。
また、海だった。
網膜が捉える、どこか知らない海岸が目の前にあった。ネイビーの水平線と、潮風の香り。それらは仮想に過ぎない、それなのに何故か懐かしい気がした。どこかで、これと同じ光景を見た事がある気がした。この国にある海なんて、どこに行っても砲金灰色な、汚染物質の溶けた色でしかない。廃棄物の不法投棄された海岸線や化学物質の臭い、埋め立てられたコンクリートの陸地。ここにある海辺など、記録でしか存在しない。
波を打つ音がした。波打ち際に立って沖を望む。陽光が海に反射して、白光が砕けたガラスめいて焼きついた。膚に絡み付く海水が凍えそうに冷たい。今は冬か、海水浴には向かないな――これが仮想である、ことなど忘れていた。あまりにも現実、あまりにも生々しい。感覚が、理解を超越していた。触れるもの、嗅ぐもの、聞くもの、全て。五感を刺激するものが、“神域”が造るものそれ自体をリアルにする。真か、虚か、正か、否か。ロジカルに構成された、人工のホログラムに過ぎないものに対して、共感めいたものすら感じるのは何故だろうか。
水平線の向こうに船があった。軍艦のようなシルエットをしていた。なびく雲が、筋のようになっている。
誰かが呼ぶ声がした。見知らぬ名前で、呼んでくるものがいた。女の声だ、マコトの直ぐ後ろ。
振り返る。
その瞬間、離脱した。
ベッドの上で、目を開けた。天井のシミが、虚像を取り払った眼に飛び込んで来た。
「また、仮想を見ていた?」
少女の胸が、すぐ脇にあった。全裸で横たわる、華奢で白い肢体に、アクセントみたいに真紅のスカーフが映えていた。薄明るい照明の下、身を起こした。マットレスから、微かに黴の匂いがした。
「まだ、“猫”は捕まらんか」
「落ち着きなよ、マコト。焦っても始まらないよ」
少女が体を密着させてくるが
「触んな」
マコトが乱暴に突き飛ばした。少女がバランスを崩して、ベッドからずり落ちた。少女は後頭部をしたたかに打ちつけて、
「何すんのさ」
「うるせえ、ちと黙っとけ」
「イラついてんなよ、全く」
マコトは起きあがった。上着を羽織って、タバコを咥えた。少女は頭をかいて言った。
「何を、見たんだい?」
少女が訊くに、マコトは紫煙を吐いて
「また、海だ」
「例の女が出てくるやつ?」
「なあ」
腕の皮膚に発疹みたいに赤い斑点が浮かんでいた。“神域”に長く接続すると、組織が疲弊して膚が荒れることがある。それも時間が経てば消える。
「仮想に入り浸ってると、現実に戻れないよ」
「何だそれ」
「バーミンガムの教授がさ――」
「はっ」
槽培養の煙草葉は、どこまでいっても味気ない。雑草に火を点けたものを食らってるみたいだった。
「ゲームやりすぎて、腐れ脳」
「阿呆みてえだ」
タバコの火を消した。
「阿呆みてえ、阿呆が」
憤然と仰け反って、凝り固まった筋を伸ばした。胸を開くと、胸骨が鳴った。
「変なトコ、鳴るんだね」
少女が茶化すようにいった。
「ほっとけ。関節の油が足りてねえ」
そうして、少女が立ち上がった。冷蔵庫からバドワイザーを取り、マコトに渡した。
「足取りはまだか」
「あたし、〈五〇〉じゃないし、分かんないよ。なんでそこまで、その爺さんにこだわるかねえ」
ややあって、マコトが応えた。
「恩を忘れるのは犬と朝鮮人だけでいい。おれは、あの人に救われたんだ」
「恩に報いるって? 似合わないねマコト」
また、茶化す。マコトが顔を上げて、睨みつけた。
「何を言ってんだ、てめえ」
「似合わないもん、だって。〈五〇〉の頭がさ、ジジイ一人のために必死になってさ。恩だ何だって、全然クールじゃない」
「てめえっ」
思わず、少女の首を掴んでいた。細い首を締めて、白い喉が上下した。
「それ以上、言ったら――」
「存在する、証明が必要かい? マコト」
首を締められているにも関わらず、少女は涼しい顔をしていた。茶色の瞳が、潤んだ眼が細くなって、唇から小さな八重歯がこぼれた。この女はよく、人を食ったような笑みをする。何を笑っているんだ、このまま力を加えればそんな頼りない首は直ぐにでも折れるんだぜ。そう思っても、指に力が入らない。少女が続けた。
「人って難儀なもんだね、自分が自分であるってこと、自分の価値ってものは、その人間単体で定義できない。周りの人間や共同体や、大事にしているもの、幼い頃に好きだったもの……何か自分以外の物、全てで自分を感覚しなければ不安なんだ。変化するから、肉体や記憶は。だから、変わらない何かに拠りどころを求める」
何を言っているのか分からない、いきなり饒舌になったかと思えばわけのわからないことをまくし立てた。
「“神域”が地表を覆う前からずっと、人間は自分以外の何物かに自分の心を託していた。人、物、国、概念。何かと繋がることで、自我を持っていたんだ」
「黙れ」
「けど、そんな繋がりも希薄になっちゃあ、自分が証明できないって。だから、たった一つの拠り所にこだわるんだろう? あんたは恩義を感じてるんじゃない、自分がカワイイだけなんだよ」
指に力を込めた。喉を圧迫する、膚に爪立てて。
黙れよ、クソアマっ……!
マコトは少女を突き飛ばした。
「あんたが殴るのも、自分のためだろう。結局、一人が嫌だから、誰かを殴るんだ」
少女の首に痣が残っていた。赤黒く内出血を起こしていた。スカーフと比べると、酷くくすんだ赤だ。
「暴力は繋がるための、コミュニケーションツールだ、マコト。痛みほど、本能に忠実なものはない」
それでも、少女は喋ることを止めなかった。
「寂しいのは、嫌いかい?」
マコトは何も言わなかった。黙したまま、服を着て部屋を出た。
少女のくすくす笑いが、後ろから聞こえてきた。