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新宿の猫  作者: 俊衛門
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 キヨトは約束の場所に着いた。

 カブキ町の、元風俗店だったビルの一角に入った。違法建築の繰り返しで、馬鹿みたいな伽藍がらんになるまで増築された、蟻塚型の多層構造物、あるいは共同住宅の類だった。この辺一帯がスラムと化していて、ここが歓楽街だったなんて誰も信じない。タイ語の看板が、裏路地で青緑(ターコイズ)のネオンを放っているだけだ。

 懐には、約束の金が入っている。そして左のポケットには、ナイフがあった。

 仕方が無かったんだ――ああするより他なかった。まだ、手に血がこびりついているような気がして、思わずパーカーの袖で拭った。ぬるついた感触、鉄錆びのような腐臭すら漂っていた。ナイフを介して伝わったのは、意外にも固い人体の感触。膚を突く瞬間、手の中で何かが潰れるような気がした。

 殺すつもりなどなかったんだ。ただ、金さえあれば良かった。アーケードから離れていて、人も少ないゴーストタウンだったから騒ぎにもならないと思って、留守を狙って偲び込んだ。かたっぱしから家の金を盗って、そんな最悪のタイミングで家人が帰ってくるなんて。

 ナイフをねじ込む瞬間が、頭から離れない。

 仕方ない、仕方ない……顔を見られたんだ、騒がれたんだ、あの時ああしなければ自分も終わりだった。だから()るしかなかったんだ。

 人を殺したのは初めてだった。〈五〇〉にいた頃だって、やってことはない。あんな簡単に死ぬなんて。脅しつけて大人しくさせるつもり、本当にそれだけだったのに。

 頭を振った。雑音が響いた。ざらざらとした感覚が脳神経を侵し、平衡感覚が狂いそうになる。そうしてまた、膚がざわつくんだ。あの蟲どもが。MDMAの錠剤を無造作に口に放り込んで噛み砕いた。

 何をびびっている、キヨト。おれは泣く子も黙る〈五〇〉の切り込み隊長だぜ。人一人ぶっ殺したくらいで、動揺してるなよ。おれは金がなければいけない、黙って見てれば良かったものをあのジジイは抵抗しようとした。だから殺したんだ。

 おれは悪くない。だろ?

 自分に言い聞かせた。とにかく、薬を切らすわけにはいかなかった。一番、確実な方法をとったまでだ。この金がないと、フラッシュバックに取り殺されるか、あるいは腐れヤクザに斬り殺されるしかなかったのだから。

 網膜の時刻表示は、丁度零時になるところ。もう、いるだろうかあの男。階段を、昇った。水溜りに白い月が写っていた。満月には程遠い下弦の月が、白色矮星のような弱い光を放っている。儚げといえば聞こえが良い、どちらかというと死に損ないといった感じだ。頼りなさげ、いつ消えてもおかしくない。そんな印象を受ける。

 懐の金を、服の上から握り締めた。

 階段を昇った先で、ヤクザがいた。コンクリート打ちっぱなしの部屋の、片隅で。

「旦那」

 と声をかけるも、返事がない。薄暗闇で、姿が見えない。

 ふと、血の匂いがした。

 またフラッシュバックか――そう思ったが、違った。明らかに部屋の、ヤクザのいるところから漂っていた。金属入りの水を飲み下したように喉がひりついて、噎せ返る腐臭が、した。こんなところで(バラ)したのか、と言おうとしたが、そこで足を止めた。

 何だろうか、血の臭いとともに獣独特の、腐りきった臭いがした。生臭く、屍が溶けだしていくときに発する臭いで、強烈な腐臭だった。

目を凝らした。

 白いスーツがあって、それが良く見れば血に汚れていた。ヤクザの男は壁に寄り掛かるようにして、座っていた。いや、座っているように見えたのは目の錯覚だった。

 男は小さかった。体は、半分ほどしかなかった。キヨトが目にしたのは下半身部分で、それが座っているように見えたのだ。上半身は既に無く、断面から赤黒い肉と背骨とあばらが突き出ていた。

 息を止めた。

 やがて、男だった物体の横になにかがいるのを見た。暗がりで良く分からないが、四足の生き物が、男の肉を貪っていた。獣臭はこれか、と思い当たった瞬間、獣がこちらを――

 見た。

 銀色に光る眼が、あった。男の腕を喰らい、チタン骨を噛み砕いている。大きさはシェパードほどあった。暗闇の中で、獣らしきそれは小さく、唸った。

 急速に口の中が乾いていくのを感じた。その獣に睨まれて、背筋が凍った。暗闇の中で爛々と輝いて、肉のこびり付いた牙を見せて威嚇する。のそりと動いて腕を吐き捨て、獣が向き直った。

 野犬か? しかし、いくらなんでもこの男が犬ごときに喰われたり……。

 そこで、“神域”での噂を思い出した。

「“猫”……」

 政府の造ったバイオ兵器とかいう話が、どこかの掲示板にあった。故事の“猫又”になぞらえて猫を改造したとか、あるいは遺伝子導入(トランスジェニック)されたキメラだとか、なんかそんな話――

 獣が飛びかかってきた。

 啼き声は、猫というよりも獅子といった、野太いものだ。俊敏な身のこなしで、部屋の奥から一足飛びで跳躍した。のしかかられて尻餅をついた。

爪が、食い込んでいる。獣の体毛に顔をうずめるに、猪みたいな剛毛が膚を刺す。咄嗟に振り払うも、で離れる気配がない。尖った牙が膚を貫く恐怖を感じつつ、手を振り回した。

 手に何かが当たった。見ると、銀の刃があった。乱れた刃紋、黒いビニールテープの柄。長ドスだ。

 掴んだ。獣が口を開けた。粘ついた唾液が顔にかかり、生臭い息を吐きかけた。

 刀を突き出した。夢中だった。刃筋とか握りとか、そんな事は後回し。とにかく獣を遠ざけたい一心だった。

 目の前で、ずっ、と肉に沈む刃があった。柄に生暖かい血が滴り落ちてきて、指の股を濡らしていく。成るほど、このテープって滑り止めの意味もあったのか。さらに刃を押し込んだ。獣が苦しそうに仰け反って、断末魔にも似た咆哮を上げた。

「かっ、この」

 獣を思いきり蹴飛ばすと同時に、刃を引き抜いた。獣の体が三メートルほど飛んで、右の耳をきっちり下にして地面に叩きつけられた。

 立ち上がって、長ドスを構えた。別に剣を習っていたわけじゃないから、適当に。獣がよたよたと立ち上がった。

 月明かりを背景に、その獣が唸った。黒っぽい体毛をしていて、体長とほぼ同じ長さの尾をなびかせていた。銀の眼と白い牙が、闇の中で浮かんでいるようだった。

 しばらく、対峙した。両手で掴んで腰を落として、切っ先をつける。奮えが、止まらない。

 低く唸って、獣が近づいた。手負いの獣が一番怖いんだぜ――次こそ、喰われるかもしれない、と思った。“猫”を見た者はいない。つまり、見た者は全て、喰われている。

 唾を飲んだ。

 入り口の方で、足音がした。誰かいる、のだろうか。獣はそちらの方を見た、と思うと跳躍して窓辺に降り立った。

 月光が、差してくる。獣は月に向かって、一度吼えた。次には窓の外へ、飛び降りた。

 一瞬の、ことだった。助かった、と知るとキヨトは腰砕けた。

「大変なとこ、見ちゃったねえ」

 入り口から女の声がした。

「あんた、いつ入ってきた」

 キヨトは少女に言った。確か、マコトの幼馴染とかいう女だ。いつもマコトの影みたいに、ぴったりと寄り添っている。マコトたちと外人狩っているときも、血生臭い現場に涼しい顔で立っていたから肝は太いんだなとか思っていた。意識せず、気がつけばそこにいる女だった。

 なんで、こんな所にも現れやがる。

「出入りなんて、ただ乗り(フリーライダー)さね。蟻塚に遠慮する奴がいて?」

「まあ、そうだが」

 キヨトは刀にこびり付いた血を拭った。獣の血は、少女の首にあるスカーフとは色合いがまるで違った。くすんだ、黒に近い赤。少女が歩み寄り、部屋の奥で文字通り小さくなっているヤクザと、キヨトの手にある長ドスを見比べて

「まさか人、(バラ)すトコに出くわすなんて」

「何言ってやがる、おれは被害者だろ。どう見ても。あれは、今逃げたのが……」

「そんな話、誰が信じるかねえ。血塗れた刀持ってる、ヤク中の話なんざ」

 少女の足元で、血が跳ねた。天井から滴る水滴が、血の溜まりに落ちた。重金属の色をした水が、朱に混ざる。

「ヤクに手ぇ出して、おまけにヤクザ殺して。警察に捕まるまえに、組の奴らに消されるかもねえ」

 バカな、言いかけて、しかしそれも真理だ、と思う。現に、こいつは死んでるんだ。こいつの刀はキヨトが持っていて、あれが“猫”だったとしても、“猫”の姿を見た奴なんていないわけだし。そうなると――

「もしくはマコトに、〈五〇〉に消されるかもねえ」

「はあ? 何で〈五〇〉が」

 少女はいたずらっぽく笑った。唇を舐める舌が、艶かしい。

「ここに来る前、オイボレを()っただろ?」

 心臓を射抜かれたように感じた。なぜ、それを知っているのか。この女。

「どこで――」

 それを。口が渇いて、次の言葉が出て来ない。少女がヤクザの死体に近づいて、しゃがみこんだ。はみ出た肋骨を指でなぞって、どこか恍惚とした表情で――この変態が。

「“神域”ってのは、奥が深いんだよね、キヨト。ぼうっとしていると取りこまれそうになるほど、情報が濃い」

「ネットにおれの一部始終なんか乗るかよ」

「あんたの膚から、神経に介入(アクセス)したんだ。極度の興奮状態だったしねえ」

 この女は、いつの間に。頭に血が昇って、柄を握り締めて、こいつもこのまま突っ殺してやろうか……

「この近くで、マコトたちがいるよ? あたしがコールしたら、こんな蟻塚すぐに包囲されるし。どうする? キヨト」

 少女は指についた血をこすりあわせていた。キヨトは

「マコトたち、犯人探してんだよ。あんたが殺したジジイの」

「何で、また」

「すぐに分かるよ」

 刀を持つキヨトを恐れるでもなく、背を向けた。ぶっ殺してやろう、という気も失せて、キヨトは気づけば、黙って見送っていた。

「あんた、死ぬかもね」

 最後に、そう言い残す。

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