六
潮の香りがした。
まどろみから覚めると、マコトの耳に打ち寄せる波の音が聞こえた。
砂浜。気がつくと、掌はフジツボが生えた岩を掴んでいた。海に出てそのまま寝てしまったのか。首をもたげると、首筋がなにやら痒い。フナムシが三匹ほど、蠢いている。手で払うとそそくさと退散した。
頬に当たる風は、微かだった。手をつくと太陽に熱せられた砂が、じりじりと掌を焼く。潮騒が耳に届く、その方向に目を向けると海が広がっていた。
海が広がっていた。ネイビーブルーの深い色が砂浜の向こう、彼方に伸び。横一文字に切り裂いた水平線を境に、ライトな青に変わる。それは久しく見ない、空の色。浮かぶ雲は、白墨の粉をまぶしたようになっている。頭上で照る太陽が、存在感を主張して。伸びる陽光が、海原に刺さり、反射している。
どこだ、と一人つぶやくその声に、違和感があった。自分で発した筈なのに、自分のものではない。あ、っと言ってみると、喉が震える。確かに、マコト自身が言っている。けど、耳に届くのはもう少し高い声――
呼ぶ声がした。女の声が。声のする方を見ると、女が立っている。
白いワンピース、長い髪。陽光を背にしている、顔が見えない。
帰るわよ、と女が言った。マコトは、ああと応えて立ち上がった。起きてみると、また違和感があった。二本の足で立っているのに、どうも高さが足りない。目線が、女の腰の辺りにある。
女が背を向けて歩いていく。マコトはそれを追いかける。マコトが伸ばした手は女の腕をとるが、しかし掴むことは出来ない。霞。もしくはホログラムの映像であるかのように、マコトの手はすり抜ける。
ちょっと待ってよ、と呼びかけると女が振りむいた。太陽が雲に隠れ、今度こそ表情を垣間見る。
「マコト」
弾かれるように体を起こす。起きた衝動で机を蹴飛ばす。派手な音を立て、前に座っている人間の椅子にぶち当たった。
静かだった教室が、すこしざわめいた。ヒソヒソ話、笑いをかみ殺した女子生徒の声。マコトは半開きになった眼をこすった。
「……あれ」
黒板にはどこぞの武将が何年何月にくたばったんだとかなんとか書いてある。蚯蚓がのたくったような字で。老齢の教師がずり落ちた眼鏡を直しつつ凝視している。
「あっついね、マコト。夏場の寝汗は、体に毒だよ」
斜め後ろで、スカーフを弄びながら女が言う。女子生徒たちが笑っている。額にびっしり溜まった脂汗を拭いながら座ると、教師がぼそぼそとまた授業に戻る。定年間近のこの教師は棺おけに片足突っ込んでいるだろうという年齢で、念仏を唱えながら授業をするという器用な特技を持っている。おかげでこの授業は、夜遊びを生業とするここの生徒にとっては睡眠時間か、もしくは“神域”が見せる仮想現実で暇を潰すか、とにかくそういう時間だ。
妙な仮想を見た。放課後、少女に話すと
「“神域”に入り浸ってでも、女漁りたいもんかねえ男って」
と言ってマコトをからかった。
「そんなに飢えてんのかよ、マコト。いい寄る女なんて、死ぬほどいんじゃん」
「そんなんじゃねえって」
言うだけ無駄だったなと空を見上げる。濃い雲がうねって、重油が流れた海と同じ色をしている。スモッグが掛かった、煤けた空。
「そういやあよ」
マコトは夢の中を思い出していた。
「この街に、海ってあったっけかな……」
「はぁ、海ねえ。車を飛ばして二時間もすれば、政府の管轄している埋立地があるわな。クソと産廃で固めた人工島、そこなら海もあるじゃん」
ま、あんなとこで海水浴なんてする奴、自殺志願者と頭に蛆沸いたボケナス、なんてことを言う。違えねえな、とマコトも言った。
なら、あの夢に出てきたのはどこの海だろうか。前時代の遺物、あんなに澄んだ海は映画でしか見たことが無い。青い空、太陽。あんなのは初めてみたかもしれない。
いや、初めて、ではないかな――
「マコト」
女が呼ぶのへ、正気に戻る。
「んで、今日はどうするの」
「どうするもない」
胸のうちに違和感が沸き上がったものの、女の一言でそれもどうでもよくなった。
「いつもと同じさ」
いつも通り。ただ時間を食い潰すだけ、目的も無く。
網膜の裏が瞬いて、通信が入る。メール画面を開いた。
「どったの?」
女が覗きこんでくる。それを煙たく思いながらも、メール画面を見る。文面は、酷く簡素なものだった。
『今日、やるぜ』
ショウヘイからだった。飯、食おうぜ、みたいに気軽な文面。外人を狩りにいくときは、その一言で済む。マコトは袖の下の分銅に触れた。
少年の一人が中国人の顔面を砕いている、その場面がデジタル表示のモニターかなにかを見ているかのような、虚像じみた光景に写った。
周りを〈五〇〉が囲んで、転がっている中国人を鉄パイプで殴っていた。足元の奴は、顔の形が変わっていた。紫色に腫れ上がって、眼が塞がっている。膚が裂けていて、鈍い色の骨と黄色い脂肪の層が顔を覗かせていた。口から流れる血は、組織が混じってピンク色をしていて、歯がかけた口から空気が洩れるような音がしている。眼球が涙みたいに垂れ下がった者もいた。その様子を撮影している少年が、嬌声を上げて笑っていた。バールを執拗に突き立てて、口の中にねじ込んだ。
マコトの万力鎖が首を締め上げている。ギリギリと音を立てて骨を軋ませていた。散々に殴られて、男は抵抗する力を失っていた。このまま絞め殺してもいい――だが、結局手を離した。
「中国人て、猫食うんだろ」
とショウヘイが、中国人の女に突っ込みながら言った。女は泣きじゃくりながら、しかし後ろ手に縛られた女は抵抗する術を失っていた。女の太股は、血とどろりとした白濁液で濡れていた。セクシャル・スワップに飽きると、偶に生でヤりたくなるらしい。マコトには理解できないが。
「食うからなんだってんだよ」
マコトは万力鎖を収めて、少年達が輪姦されている女の顔を見た。洟と涙で濡れて、酷い面を晒していた。殴られて何倍にも膨れ上がっていて、助けを乞うかのように見上げてきた。
「あれだ、この界隈。また“猫”が出たってさ。こいつらに食わせたらいいんじゃね?」
「阿呆」
とマコトが言う。女と、目があった。
「同情かい? いまさら」
赤いスカーフを指で弄んで、白梅の香振りまいて少女が近寄ってきた。マコトの腰に手を回して、ぴったりと体を密着させてきた。
「別に」
ただ、昼間のことが気になっているだけだ。しかし、その言葉は呑み込んだ。言っても詮のないことだ、と。
いつか返ってくる――
「クソッ」
最後に蹴飛ばした。
「引き上げっぞ」
と声をかけた。〈五〇〉の面々、殴るに飽いたガキどもが適当な返事を寄越した。
「そおいや、マコト。またあの本屋行ってたぁな。随分、ご執心じゃんか」
ショウヘイが言って――例の女はもう泣いてなかった。呆けたように虚ろな目をして、ひょっとしたら壊れたか。
「てめえにゃ関係ねえだろ」
「あの本屋って、ジジイ一人でやってたな。お前、女犯らねえと思ってたらそういう趣味があるのけ?」
バンダナの少年が、横から口を出した。マコトが睨みつけるのも構わずに、笑いながら
「にしても範囲広いなあ、マコト。おれの、そっちのダチがいっから紹介してやろうか? これが結構……」
最後まで、言う事が無かった。マコトは万力鎖を振り回し、分銅を投げた。一直線に少年の顔面に伸び、頬骨に直撃した。
遠心力で勢いづいた先端が、膚を切り裂いた。頬肉がちぎれて、少年の歯茎が外気に晒された。一瞬のことだ。膚が剥がれて、粘液に濡れた口の裏が露になる。赤茶けた歯には全く傷つけず、頬肉だけを綺麗に削いだのだ。
絶叫は、空気の洩れる音となって響いた。頽れて、口を押さえて、悶えていた。
「もう一度言ってみろよ、言えるものなら」
少年が濡れた目で見上げてきた。何か言おうにも、孔から頼りなく空気が洩れるだけだった。滔々と溢れる血が、涎みたいに顎から首に流れて、それを止めることも出来ずに意味不明なことを呻いている。縋り付くなクソ、汚れるだろうが。
蹴飛ばして踏みつけた。ショウヘイが止めようとするが、それを振り払った。
「え? もう一回言えってば」
「やめーって、マコト。目がマジだぜ。死んじまうってば」
ショウヘイが言うと、やっと手を離した。
やはり、満たされることは、なかった。夜が、更ける。