五
新宿カブキ町の遊技場から、東に抜けた通りにその店はある。
夜ごと暇を持て余したガキ共が群がるゲーム場の、猥雑とした雰囲気とは程遠い、閑散とした通りにマコトがいた。
多層型の建築物が並ぶ、かつてはオフィス街だった。今は、人通りも少ない。数年前に中国人がカブキ町に流れてきてから、この界隈の人も企業も都市から逃げ出した。“神域”が提供する情報源によれば、そうらしい。
理由なんて、どうでも良い。ここに行けば、面倒な色々から逃れられる。外人、〈五〇〉、そうした諸々の煩わしさから抜け出して、一人になりたいときにここに来る。
古びた看板には、『篠森書店』と消えかけの文字が躍っていた。簡化字やハングルじゃない、久しく見ない日本語の字体だ。個人経営の書店だが、わりと気に入っている。ここには、“神域”じゃ絶対に手に入らないものがある。すぐに流れてしまう情報ではなく、蓄積される知識が、活字となっている。
書棚から本を取った。
「ネーゲルが好きなのか、マコト」
どてらを着た老人が奥の方から声をかけ、マコトは本から目を離した。トマス・ネーゲルの著作、邦題『コウモリであるとはどのようなことか』。それが、マコトの手の中にある。老人が眼鏡の奥で、しょぼくれた眼を瞬かせ、
「最近のモンは、そんなの読まないだろうに」
「興味深いよ。“神域”なんかじゃ、絶対手に入らない」
そうか、といって篠森老人が座りこんだ。このところ、老け込んだなと感じた。客なんて一人も来ないだろうに、いつまでもここで商売をやってる。
「まあ上がりなぁ」
篠森が店の奥に引っ込むのに、マコトも従った。篠森の家は店と続いている。靴を脱いで上がり込んだ。
「じいさん、この絵」
と、玄関に飾ってある絵を指した。下手糞な水彩画が、額縁に入れられて飾ってあった。
「ああそれな」
篠森が目を細めた。
「懐かしいなこれ、小学校の頃だったけ?」
「あ、ああ……そうだったかな」
絵は、何かの動物を描いたものだった。小学校二年の時、都のコンクールに入選したときのものだったと思う。絵は、中学までは描いていた。
六畳一間の居間に上がると、膏薬の匂いがした。北側に位置している居間は、日があまり差さず、薄暗い。雑然と書物の詰まれた部屋は、手狭だった。売り物にならなくなった本や、マコトが小さい頃に読んでいた絵本まであった。マコトが手を伸ばしてページをめくる。擬人化された狐が出ていて、裏表紙に「しのもりまこと」と、ミミズがのたくったような字で書いてあった。
掘り炬燵に足を入れると、篠森が湯呑みを置いた。
「血の、匂いがするな」
篠森が開口一番いって、マコトは本を置いた。
「年のせいで、嗅覚が鈍っただけだ」
「そうそう忘れはしないさ、その手の匂いは。20年前、嫌って程浴びたさね」
篠森は腕をさすった。遺伝子導入の施されない膚だ。それも、長い年月を経て深い皺が刻まれていた。
「血はいつまでも消えんぞ」
「この国を」
少し語気を強めて、言った。
「この国をこんな風にしたのは、外人のせいだってじいさん言ってたじゃんか。上の奴らが、外人どもに国売り渡したからって。そいつら、排除するん、何がいけないよ」
「不特定多数に暴力を振るうのは、好きじゃないな。どんな理由でも」
「けど」
「親のいないお前に、そういうことを教える人間がいなかった。だからお前さんのせいばかりじゃないさ。無秩序に振るう暴力ってのが、どういうことか。そいつはいつか、全部返ってくるんだ。何かの形で」
言われて、黙った。
篠森は、マコトの保護者のようなものだ。幼い頃、両親を失くしたマコトを育てた、マコトにとっては親代わりだった。中学までは、一緒に暮らしていた。
約一年振り、といったところだった。久々に会った篠森の体は、小さくなった印象があった。こんな所で、一人で流行らない書店なんかやってるから。篠森は、最近マコトと距離を置いている。〈五〇〉をつくって、外人狩りを始めてからか。外人を憎んでいるのは、篠森も同じだと思ったが、違ったみたいだった。
「その本、持ってきな。どうせ店仕舞いだ、この街も長くはない」
そう言って、篠森は奥に引っ込んだ。背中が、小さく見えた。
ストリートチルドレンになるしかなかったマコトを拾ったのは、篠森だった。子供がいない篠森にとって、マコトは子供同然だった。品行方正、誠実な人間になるよう育てたつもりだったが、どうやら順調にこの街の色に染まりつつある。
篠森は頭を振った。どうしても考える。自分の育て方が悪かったのだろうか、それともあのことがどこかで引っかかっているのだろうか。
丁度、8年前だった。マコトを引き取ったのは。その時のこと、マコトは多分、覚えていない。記憶を自ら封印している。この国で生まれてこの国で育ったと思いこんでいる。篠森も、マコトの記憶をそのままトレースした環境を作った。マコトが幼稚園の頃に気に入っていたものや、小学校の頃の絵、アルバムにいたるまで。多分、マコトはそれが真実だと思っているだろう。子供の頃からずっと、この新宿にいる気でいる。
本当のことをいうべきか、否か。でも言ったとして、それがマコトのためになるか。多分、平静を保ってられなくなる。自分を自分たらしめる基盤が、危うくなれば――人間てのは脆いものだ。
携帯端末からニュースを見ると、コリアンマフィアが摘発されたという。マフィアたちが、過去に仕入れた子供のリストが、ネット上に流出したらしい。そのリストは、篠森が見る事は叶わない。もう、殆どの人間が、膚に人工の高分子を埋め込んでいる。それは“神域”と呼ばれるネットへアクセスするためのデバイスだ。蛋白質のナノマシンが自己組織化し、細胞外の隙間に無形の素子を形成する。体中の神経を“神域”に繋いで、空間や物質と繋がるのだ。
篠森はそのデバイスを持たない。ネットに繋がるのは、手の中の携帯端末のみだ。もう十年前の機種で、そろそろサービスも終了するらしい。いつの世も、年寄りにゃ冷たい、この国は――腰を上げた。
ふと、障子の外に気配を感じた。立ち上がる。また、血の匂いが満ちてきた。壁に立てかけていた木刀を取った。押し入りか、と篠森は息を殺した。
障子が真っ二つに斬れた。錆びた鉈が、いきなり鼻先に伸びてきた。木刀を振り回すと、下手人の頭に剣先が当たった。
「何奴っ」
と篠森は怒鳴った。黒いパーカーに、身を包んでいた。顔は、良く見えない。鉈を振り下ろした。木刀で受け止めると、鉈が半ばまで食い込んだ。押し込む、この程度でやられるか。なめるなよ、年の功。
下手人が鉈を話した。腰からナイフを抜いて、突き刺す。
腹に衝撃。体内に刺し入れられた刃は、最初は冷たく、徐々に熱くなっていった。力が抜けて、篠森は跪いた。
不覚――
鉈が、目の前に迫ってくる。