四
「“猫”って何さ」
ホテルのフロントからエレベータに乗り込む間、少女が訊いてきた。
「知らんのかよ、“神域”上でも噂になってんじゃねえか」
「そうだっけ?」
エレベータが二階で止まり、キャップを被った子供が乗りこんできた。目深に被ったキャップで顔は分からなかったが、東洋人ぽい骨格をしていた。左の耳に、十字架を模したピアスをつけていた。こんな所で何をしてんだか、と思ったときには、子供は次の階で降りた。
マコトたちも、エレベータを降りた。
時代遅れな裸電球のお陰で、廊下は薄暗かった。床が油っぽく、汚れていた。軋む骨格、狭い通路の先は暗がりだった。木製の、黒く塗られたドアは棺桶が並んでいるようだった。
饐えた臭いとヨウ素の香り、軋むドアを押して部屋に入る。
「猫は、人を喰うんだ」
薄明かりの中でブラを外している女を、ベッドに横たわりながら眺める。三つある部屋の明かりのうち、二つが点かない。壁紙は薄汚れて、もともと白かったのだろうが茶色く変色している。天井には、大きなシミがある。ベッドに横たわると目の前に広がり、なにやら四足の動物が地面をのた打ち回っている図に似ていた。
「歳をとるとよ、猫ってのは人を化かすんだ。普段は人に紛れているけどな。この新宿の、どこかに潜んでいる。んで、夜になると」
「人を襲う、って?」
少女が体をくねらせてマコトにすり寄る。
「年寄りなの? その“猫”」
細い指が首筋を撫で、胸を伝い、やがて下腹に伸びた。
「猫を見た奴ぁいねえ。だけど、実際に人を喰うわけじゃなくてな。バラバラに切り刻まれるんだ。噂じゃ頭がイカレたサイコパスだとか、政府が作ったバイオ兵器だとか……とにかく色々だ、色々」
少女が下半身を弄び、舌を這わせ、咥え込んだ。背筋が粟立った。
「やるか?」
女はマコトに覆いかぶさった。やや小ぶりな乳房が、目の前で揺れた。白い肌、黒髪。首筋に巻いた真紅のスカーフが、映える。
女が下腹に跨った。指先が鳩尾に這い、むず痒いようなくすぐったいような、そんな感覚が膚を駆けた。
膚に導入した分子が、“神域”を捉えた。感覚器官がリンクして、それは肉同士が溶けあうような感じがする。奮えと高揚と快の疼きが、膚の下からした。上になった少女が恍惚として、声を洩らした。しきりに腰を動かして、柳のように撓やかな肢体をくねらせていた。
膚が、一体となる。少女がぴったりと、体を密着させてきた。直に、体温を感じた。小さな胸に耳をつけて、鋭敏になった聴覚が鼓動を聞いた。
昂ぶる神経。神経系が直接繋いで、性感に作用する。“神域”を通じたセクシャルなプレイが、この街では流行りだった。ネット上で、見知らぬ誰かと繋がって、擬似セックスに興じる輩もいるが、マコトは繋がるのはこの女だけと決めていた。一途なわけじゃない、知らない誰かに神経を弄られるのが嫌なだけだった。自分の膚と誰かの膚がネットを介して合わさるなんて、怖気がする。
「何を考えているの、マコト」
少女が耳元で囁いた。
「何も」
考えることなんかねえさ――抱き寄せて、少女の胸に軽く口付けた。先端を甘噛みし、舌で転がした。
感覚のうねりが大きくなった。快の波が収束ゆき、少女が身を仰け反らした。マコトの感覚器官を興奮が貫いた。
そして、達した。
だが、満足感は得られなかった。
ハイネケンのビールを、少女が寄越した。
ビールを受け取るも、一口飲んだだけで脇へやってしまった。やたら凝ったデザインのベッドサイドテーブル。獅子かなにかの彫刻が施されている。
ぼんやりと、天井を見つめていた。何かを思うでもない、考える事などない。空白の時間は、“神域”に接続して埋める。それだけだ。特に思うことは、ない。
少女がベッドに腰掛けた。
「なんか面白い情報があった?」
「特には」
右手をかざした。獣みたいな天井のシミ、その頭の部分に親指があった。
「知ってるか、人間てのはよ。髪の毛掴まれると、とっさに動けなくなるんだ」
「へえ」
と少女が言った。
「んで、髪つかんだまま、よ。こう、バーンって壁とかにぶち当てるんだ、相手の顔を」
「さっきの?」
とは、パチンコ屋で朴をやったときのことだ。女はすでに、二本目に手を伸ばしている。
「喧嘩のやり方は、“神域”で覚えた。ほとんど。情報ってのは便利だよな、探すことなく向こうから飛び込んでくる」
「そういやマコトってば喧嘩弱かったもんね。昔は近所の悪ガキに、しょっちゅう泣かされてたっけね」
女がベッドに身を投げ出した。マットレスが跳ねて埃が舞い上がった。
「けど、慣れちまえば全部同じに見える。ネットの海、その波打ち際にいると流れてくるものは全部、似たり寄ったりに思えてよ。そうなると面白いもへったくれもないわな」
ネットで拾う情報なんてたかが知れてるし――少女が身を起こした。
「まだ時間があるよ」
と言って、女が下半身に手を伸ばした。
「こういうことも、かい? あんたにとってはマトリックスでヤる遊びも、同じなんかね」
“神域”を介して神経が繋がって、膚がざわめいた。首に巻いたスカーフの先端が、鼻をくすぐった。
「かもな」
“神域”で、繋がることに慣れて、どれもこれも同じように見える。コミュニケーションツールが溢れていて、飽和状態と化したオンライン上、誰かと繋がるのには一番刺激的な方法を執る。ネットのセクシャル・スワップと呼ばれる交感神経の融合、リアルでは暴力。この街の若者は、そういう方法でしか繋がることがない。
マコトは、この女としかスワップしない。だから、暴力に寄るんだろう、そんな風に呟いてから、急にマコトは思い出したように言った。
「そういや、なんでお前っていつもそれ巻いているの?」
少女の背中に手を回し、首筋に触れた。こういう時ぐらい外せばいいのに、コイツはシャワー浴びるとき意外はいつも巻いている。やっぱ気になる? っていうか何で知らないの幼馴染なのに。悪いかよ、いいから教えやがれ、と返すと女は口の端を歪めて
「別に大したことじゃないよ。こいつはね……」
「ねえよ」
という男の足に、キヨトはすがりついた。
「そんなこと、言わないでくれよぉ。なあ、ちょっとで。ちょっとでいいんだよぉ」
地面に這いつくばって、靴にキスせんばかりに迫った。襤褸を纏ったキヨトを、うるさそうに男が蹴飛ばした。
「なあ、頼むよ。金がねえと、オレ死んじまう。死んじまうんだ、旦那ぁ」
たかられている男は金髪のホスト風だった。かつて、〈五〇〉にいた頃には金を回してくれたってのに。
黒のスラックスにキヨトのよだれがついた。眉をひそめ、ホストヤクザはキヨトの顔に蹴りをいれる。
歯と血を吐き出して、キヨトは地面に転がった。
「この、ざけんな。金ぇ、金って。なんのつもりだ、貴様」
止めにもう一発、腹に蹴りを叩きこむ。キヨトの体がくの字に折れ曲がった。
男が下腹部を蹴る。胃がせりあがった。吐き出される胃液が喉を焼く。昨日食った餃子が出た。苦しさに、のた打ち回る。
蟲だ、蟲が這い回る。皮膚の上を、無数の蟻か百足がわさわさと。肌を噛み、ちくちくと刺す。手で払い、地面に背中を打ちつけて蟲をつぶした。
「薬にのまれたか、お前」
声が、彼方から聞こえる。エコーがかかったように、心なしか視界もフィルターがかかっている。
「頼む、金を……でねえと、ヤクが」
「何でてめえに金、回すんだよ」
「おれとお前の仲だろうがよぉ……」
「はあ、知るかよてめえなんざ」
言って、通りに放り出された。信じられない、そりゃおれは〈五〇〉じゃなくなったけどどうしてそこまで――言いかけた。でもやめた。そういう、所だここは。分かっているつもりだ。
分かっては、いた、はずだった。
「そこで寝てろよ、そのままさ。そこにいりゃあ、“猫”が片付けるさ。あ、屍肉は食わねえか」
下品な笑いたてんな、殺すぞ――クソッ、この体。
徐々に、声が遠くなった。
「金が、ねえと……」
いよいよ、やばい。蟲が膚を突き破る。このままでは――