三
気づけば、黄昏時だった。
“神域”に接続するときに感じるのは、氷のような麻酔薬がゆっくりと効いてゆくときと同じくに、昂揚感だ。膚に導入した、分子が媒介となって、情報を取りこむ。視覚情報が網膜に焼きついて、神経ごと接続した。
網膜の裏にデータリンクを貼り付けて、“神域”に漂う信号を感知する。同時に眼は、せわしなく動く銀玉を追っていた。
ネット上の、パチンコ攻略サイトを見ながら右手を動かして、釘の林を抜ける玉を見据える。金属が擦れ合う音が鼓膜を衝くのもかまわず、玉をつぎ込んだ。緑色の3D、ビット文字がスクロールしていた。
網膜スクリーンの先、マコトの目の前には、違法改造のパチンコ台があった。画面いっぱいに、往年のロボットアニメをモチーフにした約物やらがごてごてと配置されている。さっきからリーチはかかるものの、ことごとく外していた。
『ちっとも来ない』
台を打ちながら、ウェブ掲示板に書きこんだ。意識すれば文字が打ち込まれる。
『今、なに打っているんだ』
『CMでやってるやつ』
暇つぶしにそんなことを書きこんで、すぐに返信がついた。
「パチンコってのは、出ないのが普通でしょ」
顔を横に向けると、少女が笑っていった。ちなみに足元にはドル箱が積まれて、もう四段目に達している。
『ありゃ糞だ、全然出ねえ』
掲示板に誰かが書きこんだが、そいつは違うみたいだぜ。同じ台なのにこいつは大放出だ――咥え煙草を灰皿に押し付けて、マコトは大きく伸びをした。
「そういう台詞は、自分が勝っているときに言うか」
だからよ、と女は言う。首に巻いた赤いスカーフ、左の人差し指で弄んで。
細い指先に、布が絡みついて、解けて。それの繰り返し。
「もう五万、飲まれた」
というマコトの顔を、女が覗きこむ。
すぐ目の前に、女の髪が揺れた。吐息がかかるほどに、近づけて。しばらくじっと見つめていた。
白梅が香った。感覚器官は特別鋭敏にはしていないはずなのに、この女の香だけはどれだけ離れていてもかぎ分けられそうだった。そんなにきついというわけではないのに、際立っている。
「“神域”に接続しながら打つなんて、余裕だねマコト」
そう言う少女の虹彩が、薄緑色をしていた。網膜にブラウザを立ち上げているとき、わずかに瞳が発光することがある。その時の、色だ。
「お前も入ってんじゃねえか」
「ケータイ小説。なかなか面白いよ、最後に男が死んじまうんだ。腹上死だって」
何が可笑しいか、少女が笑った。
「つまんね」
こいつとも長い付き合いだ――ガキの頃からだったか、マコトが思いを巡らせた。初めて会ったときのこととか、今じゃ思い出せない。いつの間にか傍にいて、近すぎず遠すぎず、一定の距離を保っている。空気みたいな女だ、とさえ思う。気づけばそこにいて、最初から「そう」であったかのように振舞うのだ、この女は。意識することなく、一緒にツルんでいる。
「分からないことがある」
マコトが言うと、少女が
「なにが」
「なんで、首にそんなもん巻いているんだ? いっつも、それだよなお前」
「そんなもん、って?」
「それ、そのスカーフ」
赤い布は触ってみると意外にも滑らかだった。するすると皮膚を流れる感触が、心地よい。女は「知りたい?」と訊いた。
「そんな、面白い理由じゃないよ。こいつはね、あたしが……」
薄紫の唇を耳に寄せた。小さく吐息を吹きかけて、囁きかけ、ようとした。
だが、女が何か言う前に
「よお、やっぱりいいや。あとで訊く」
マコトは身を起こした。女の背後を、じっと見て
「見てんなよ、朝鮮人」
と、女の後ろの台に座っていた少年に声をかけた。
「久しぶりだあな、チョッパリ。シブヤじゃ世話になったの」
「はあ、そんなこともあったか馬の糞。雑魚の顔はいちいち覚えてねえんだわ。誰だお前」
マイルドセブンを噛みながら、接続を切った。
「朴だ、覚えろや能無し」
少年が歯軋りした。
朴は十八だが、倍も老けて見える。眉間に刻まれた皺と貧相な頬がそう見せるのか、シンナーでぼろぼろになった歯をかちかち言わせて、唸った。
「おれんとこの奴クスリ漬けにしてくれたってホントかよ?」
威嚇するように歯茎を見せた。血の巡りが悪くなって、黄ばんだ歯を支えるのは赤黒い肉だった。生臭い息は、獣のそれと同値だった。
「やたら純度のいい印度大麻が入って、それをうちのチームのガキに売り捌いたそうじゃんか」
「悪いか? 商売は商売だ。それとも、足りない脳みそ縮むのがそんなに怖いか、半島ヒトモドキ」
「人間の半分しか詰まってないんだってねえ、脳」
隣にいた少女が茶化した。
「あんまはしゃいでんじゃねえよ、カスが。てめえがヤクばら撒くのは勝手だがよ。うちのチーム、ヤクはご法度なんだよぉ、分かる? ねえわかる? この意味」
朴の腕が、マコトの胸倉を掴んだ。そのまま締め上げ、鼻を突き合わせた。
「なにがご法度? あれが勃たなくなるから? そりゃあ悪かったな、お前の唯一の趣味を奪って」
「何を言って……」
「ナニを、って。中坊囲ってナニしてるかなんて分かるさあね。ケツの穴に突っこんでよがってんだなあこの変態が」
唾を、吐きかけた。額にかかり、それが鼻まで滴り落ちた。
瞬間、朴は切れた。
「なめんな、この野郎っ」
マコトの髪を掴んで、向かいに鎮座している台に顔を押し付けた。
ガラスに蜘蛛の巣状に亀裂が入り、膚をしたたかに傷つける。ガラスの割れる音、衝突の音。同時に、鳴った。
「なめんな、なめんなよぉマコト。おれが、おれが本気になりゃあ……てめえなんか」
「本気? いつになったら“本気”なんか出すのかねえ。支那人どもの、金魚の糞が」
もう一度、打ち据えた。台が大きく揺れた。破片が飛び散る。血の雫が床に二つ、三つ。マコトの額から、こぼれた。
「なんだよその目は。その目ぇは、なんだよ」
拳を振りかぶった。その手をマコトが捉えた。背中に回して、関節を締め上げる。
ぎりぎりと腕が鳴る。朴の喉から、細く声が洩れた。
「なあ、腹、減ってねえか? え、おい」
そう、耳もとで囁く。
「は、腹……」
唐突に、朴は開放された。マコトが手を離したのだ。
振り返って、殴る。拳が、マコトの髪に触れた。過ぎ行く拳を、睥睨して見送った。
「オゴるぜ、タマは好きだろう」
そういうと、朴が打っていた台から銀玉を一掴み取った。それを、口の中に無理やり押し込んだ。
いきなりのことで、狼狽していた。こけた頬が、一杯に詰め込まれて膨れ上がっていた。その口目がけて、マコトが拳を叩きつけた。
砕ける異音が、した。拳の痛みと連動して感覚した。
宙を舞い、朴の体が床に転がった。血まみれになった銀玉を、歯と一緒に吐き出した。もともと少ない歯が砕け散り、金の口が洞穴みたいになった。涎と血が混じって、薄赤い粘液が、ナメクジが這った跡のような筋をつくった。
「おーおー、不細工な面がいい感じに男前になったじゃねえか、クソ」
マコトが茶化すのに、朴は意味不明なことを叫びながら飛び掛った。マコトは難なく避け、金の髪を掴む。そして、それをパチンコの台に、朴がマコトにやった時よりも強く打ちつけた。
一回目、ガラスにヒビが入る。二回目、ガラスが完全に砕け散った。中の役物と釘が、外気に晒される。
「整形したらどうよ。いまなら手術代もお得だぜ? ホレ、お誂え向きにそこにあるのを使って」
ディスプレイが輝いた。リーチアクション。アニメキャラが描かれた絵柄が、高速で回っている。
「お、おぃちょっと……」
理解したようだった。
「や、やめてくれよ。おい、それは、それはシャレにならんぜ。なあ、聞いてんのか」
震える声で懇願した。眼は、脅えきっていた。
「んー? 何言ってっかわかんねえよ、お前。朝鮮語訛りは聞き取りづらくって」
ぐっと髪を引っ張り上げ
むき出しの釘の森に、顔を叩きつけた。
血が盛大に飛び散った。ガラスが膚を切り、釘が眼球をえぐった。顔を離してやると、水晶体の奥深く刺さった釘が透明な糸を引いていた。何だ、片目かよ。もう一度、叩きつけた。ディスプレイが赤く染まって、電光がチカチカと瞬き、赤いロボットが敵と戦っている。美少女キャラが何かを叫んでいた。
みたび、叩きつけた。台が大きく揺れる。絵柄が揃う。大当たり、銀の玉が吐き出された。アニメのオープニング曲が不釣合いなほど軽快に響いた。釘が膚を引っ掻いて、面の皮一枚が剥がれた。熟したトマトのような血肉が露になって、ピンク色の組織が流れ出た。フラーレンの人工塩基だ、これが“神域”にアクセスする媒介となる。張り巡らされた人工血管とか、チタン骨、膚の下には結構色々あるんだな、とか一瞬考えた。
糸の切れた人形みたいに、頽れた。血まみれの顔が床とキスをする。倒れる瞬間、ドル箱に頭をぶつけ中の銀玉をぶちまけた。
「あーあ……っともったいない」
とか言いながら、拾うことなく蹴散らす。玉に付着した血、転がると線上に広がる。朴を中心に、放射状に広がった。
唖然としている客、店員に
「邪魔したなあ」
といって、マコトは女を従えてその場を後にした。血の溜まりに足を踏み入れたため、足跡が赤く床に残った。
確率変動を伝えるファンファーレが、件の台から鳴っている。床にへばったまま、朴が小さく呻いている。
店を出たとき、呼び止められた。
「おい、クソガキ」
振り返る。髭面の男が、こっちを睨んでいた
「俺の店、壊しやがって。どうしてくれる」
と憤る。まんまるに肥えた顔を紅潮させて、禿げた頭から湯気をだして。茹蛸だぁな、ありゃ。マコトがそう呟くと、隣の女がくすりと笑った。
「でも不味そう」
確かに、とマコトも同意する。そんなこと、お構いなしといった風情で店主が
「どうオトシマエつけんだよ、てめえ」
といきまいた。右手にリヴォルバーを持っている。
「落とし前といっても、違法パチンコなんざ潰れたところでどうってことねえさな。警察もとりあわないぜ、法に触れてんのはあんただもん」
といって笑った。
「んのお……他人事と思って!」
「他人事だろお、そんなの。あんただって。それとも、クソ慈善団体の人? 見えねえ」
店主が物凄い形相で睨んできた。銃を構えて、狙いをつけた。撃鉄を起こす、よりも先にマコトが動いた。
マコトの袖の中から、黒い物体が飛び出た。
鎖だった。クローム仕立ての鎖の先端に、直径二ミリほどの分銅がついた万力鎖。鎖が彗星の尾のように引いて、分銅が放物線に飛ぶ。鎖が銃身に絡みつくまで、二秒とかからなかった。マコトが鎖を引き寄せると、店主が銃に引っ張られる形で前のめりに倒れた。
「シングルアクションなんざ、古いねえ」
うつぶせに倒れる店主の背中を踏みつけて、マコトが言った。
「な、てめっ」
起き上がろうとする店主の頭を蹴飛ばした。顎が跳ね上がって、歯が飛んだ。銃をもぎ取り、鎖で店主の首を締め上げた。
赤い顔が青くなり、徐々に白くなっていった。細く声が洩れて、力を加えるごとに店主の体が踊った。昔はこの瞬間が甘美だとさえ感じた。力をかけるごとに、徐々に死に近づける。生殺与奪を握って、自分が神みたいになった気がして、そのことに夢中になっていたこともあった――あったんだ。
くだらねえ
と言って、店主を開放した。首を絞めるときも、離すときも。そして
「ま、ちと黙っとけや」
殴るときも、特別に面白いことなどない。“神域”に接続するときと同じ、退屈な慣習に過ぎなかった。左拳が後頭部に埋り、拳の先でなにかが弾けたのを感じるのにも、何の感慨もわかなかった。
「なあこれいくらだ? この銃。五万以上する?」
女に訊くと、首をかしげながら
「さあ? あたし知らないけど」
と女は言う。
「あそう」
マコトはそれを懐に仕舞うと、
「じゃあこれ、もらっていく。あのクソ台に飲まれた分な」
そう、踵を返した。足元に転がっている、北京語で書かれた看板を蹴飛ばした。
「クソガキ、このクソ野郎」
店主が呻いた。
「お前なんか食われちまえばいい、“猫”に食われちまえばいいんだっ……」
“猫”に――それだけ、耳に残った。