十四
潮の香りがした。
涼しげなソプラノが、耳朶をくすぐって、薄く目を開けた。誰かが、マコトを覗きこんでいた。白い顔、長い髪がマコトの顔にかかる。
顔を上げた。辺りをみる。ベッドの上で自分は寝ていた。六畳ほどの広さの部屋の真ん中に、自分がいた。ところどころ穴が開いた柱に支えられた、こげ茶色の天井がマコトを見下ろしている。
女が、大丈夫、と訊くのに大丈夫だよと返した。自分の声が高いのに違和感を感じたが、自分の年齢を思い出して納得した。自分は子供なのだ。小学校に上がったばかりの。だから声変わりしていないのは当然だ。
肌寒い風が吹き抜けた。
今日はお父さんが帰ってくるのよ。女が言うのを聞いた。本当? 本当に父さんが? そう言ってはしゃぎ回るのに、女は微笑んでいた。父は遠い異国に行っていた。どこか知らない土地で、戦っているのと聞かされていた。会えなくなって、もう三年だろうか。女は、織女の支度するね、と奥に引っ込んでいった。
「母さん」
己の口から、そう発せられる。
風が生温いものに変わった。
甘酸っぱい香りがして、肉が潰れる感触がした。舌先が、赤錆を舐めたように痺れて、目の前が赤く染まった。
女がうつぶせに倒れている。白いワンピースの布地に紅が滲んだ。
刀を持った男が、目の前にいた。刃は血で濡れていて、それが女の血であることは明白であるのに、現実感がまるでない。テレビジョンが造る虚像かなにかに見えた。
刀身に、影が写る。黒い影、顔のない影。
ひとり、呟く。
「新宿の猫……」
次のニュースです。人身売買を行っていた外国人グループを、一斉検挙しました。犯人グループは国籍を偽装して、未成年の少年を――
ウェブニュースの、ビット文字が浮かんだ。
お前の名前は今日からマコトだ、良い名前だろ。
老人の顔が写る。膏薬の匂い。
腐ってんだよ、奴ら。
〈五〇〉の少年たち、ショウヘイ、赤いスカーフ……
虚像の奔流が、膚を刺激した。張り巡らされた神経、多次元構造のフラーレン分子が繋ぐもの、それは封印していた記憶の残滓。
朽ちた骨格の褐色、水銀の色が、蘇った。
――猫ってのはよ、人を喰うんだ。
ベッドから半身を起こして、煙草をふかしながらマコトが言った。
薄暗い部屋の中、黴臭いマットレスに身を横たえていた。隣に、白い裸身が寄り添っていた。華奢な腰、小ぶりな胸。細い首に、真紅のスカーフが巻かれている。指で触れると、シルクの滑らかな感触が指を這った。
――歳を取ると、人を喰うんだ。
マコトが言うと、更に女が身を寄せてきた。乳房がマコトの腕に当たる。
――でも年寄りとも限らないんじゃない。
そうかな、とマコトが言う。
――あたしが猫に襲われたらどうする。
さあ、そん時はお前を囮にして逃げるかね。
――つめてーなー、十年来の幼馴染に向かって。
女がけらけらと、口を開けて笑った。もともと、喧嘩は得意じゃない。喧嘩のやり方は全部、“神域”で覚えたんだ。そう言うと少女は
――昔は近所の悪ガキに、しょっちゅう泣かされてたっけね
何でそんなこと、知ってる。
――だって、幼馴染じゃん。十年来のさ
マコトは急に起き上がり、女の上に馬乗りになった。左手を首に、スカーフが掛かったままの首にかける。女が悲鳴を上げた、その口を塞いだ。
おれの生まれは、朝鮮の済州島だ。この街じゃない。
女は手足をばたつかせて抵抗する。白目を剥いていた。
おれは十歳のころ、人買いに攫われてこの国に来た。家族みんな、殺されてな。それが八年前だ。
少女の体から、力が抜けていく。
おれを引き取ったのは篠森のじいさんだ。じいさんはマフィアの使いっ走りだった。
少女は泡を、吹いていた。
おれに幼馴染などいない。お前は誰だ? なぜ幼馴染と――
いつから、お前は、そこに?
シュッ、と空気の漏れる音がした。目の前に白い光が立つ。女の眉間に、湾曲した刃が突き刺さっていた。
血の飛沫が顔に掛かる。反射的にベッドから飛び上がる。刀を引き抜いたそいつがこっちを見ている。フードの奥の見えない眼、ぽっかり開いた洞穴。佇む姿は、彫像かなにかのようだった。
枕元のリヴォルバーを取った。撃鉄起こして、発砲。銃弾がパーカーに食い込む、直後に濃緑の布地が破裂した。やったか、と思った刹那に、そいつが刀を振りかぶった。効いていない。この化け物め、ともう一度撃つと、そいつは逆に間合いを詰めてきた。上段に振りかぶって、斬った。銃身で受け止める。距離をとる。発砲。しかし、撃った先にそいつはいない。振り向くと、真っ暗な顔が目の前に現れる。腕を振り払う、その腕が切られる。右腕の肘から先が切り離されて、転がった。地面を血の海が満たす。銃を左手に持ち替え、殴りつける。閃光が一つ裂くと、銃身が真っ二つに切れた。
「クソったれ」
呻くマコトに、白刃が襲った。
ベッドに横たわる、二人分の体の一つが起き上がった。身を乗り出すと、ベッドサイドテーブルの置かれたままの飲みかけのハイネケンに手が触れ落とした。乾いた音を立てて床に転がり、こぼれた液からアルコール臭が漂う。
やがて一つしかない照明が点けられると、薄暗闇にくびれた腰が浮かび上がった。女はブラをとって、控えめな双丘を隠し、ショーツを穿いた。下着姿のまま、マットレスの上のもうひとつの体を見下ろした。
その体は男――白目を剥いていた。口を半開きにしているため、唇の端からよだれが垂れてシーツに染みをつくっている。死んでいないと分かるのは、かすかに動く胸と時折痙攣する指先。顔は色を失い、体は固まっていた。
「ネットはどこにでもあるんだよ、あんたの中にも。“神域”は、あんたが思うよりも深く、濃い」
女がマコトに話し掛けた。指でそっと、マコトの瞼に触る。頬に爪立て、首筋をつねってみても目を醒ます気配はない。
女はブラウスを羽織り、黒のスカートを穿いた。鏡台に向かって化粧を直す。唇に紅が引かれる。鏡の中に、マコトの広い背中が写りこんでいる。女は固まったまま動かないマコトに覆いかぶさり、耳に口を近づけた。赤いスカーフの先端がマコトの頬を撫でるが、マコトはピクリとも動かない。何事か、呻いたような気がしたが何を言っているのか、それが言葉であることも分からない。土気色した肌は、屍を思わせる。
「歳を取ると、猫は人を喰う。でも、年寄りとは限らないでしょ? “猫”の記号はね、星の数ほどあるんよ」
そう囁く。最後に
「おやすみ、マコト。あんたはずっと、夢の中」
グレーの空と灰色のビル、黒いアスファルトに敷かれた石灰色の横断歩道。信号が変わる。音響装置から歌が流れると、群集がいっせいに動き出す。陽炎のように揺らめく人影、うなだれて歩く人形たちがいた。
裏路地から、アーケードゲームに興じる子供たちの声が洩れていた。中国語や朝鮮語が、主だ。
音響装置から流れるのは昔の歌。赤いスカーフを指で持て遊び、女は交差点の真ん中で立ち止まった。
雑踏の中、女は一人笑う。笑いながら、呟く。
「行きはよいよい帰りは怖い、ってね」
“神域”が繋ぐ像を、網膜の裏に張りつけた。ウェブニュースや掲示板、チャットルームの情報の欠片が飛び込んで来た。
また“猫”が出たってよ
死んだらしい
今日未明、新宿二丁目で男子高校生が殺されました
キヨトっていう名前だって
バラバラらしいぜ
警察では捜査を進めています――
怖えなあ
ああ、怖え怖え
接続を、切った。
〈完〉