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新宿の猫  作者: 俊衛門
13/14

十三

 どれだけの時間が経ったか、辺りは静寂が支配していた。体にかかる縛めは、すでにない。

 噎せ返るような腐臭が、鼻を衝いた。恐る恐る身を起こす。滑った液の感触が、体中にした。それを拭ってみる。赤黒い血が、指の間から零れ落ちた。

 何事か。立ち上がる。日が落ちて、辺りが群青の闇に染まっていた。

「おい」

 と声をかける。さっきまでマコトを押さえていた少年が倒れていた。血の色は、そいつから発せられているものだ。

 原型を留めていない。右手が、なかった。両足が、股関節から切り取られていて、血がまるで小便を漏らしたかのようにズボンを濡らしていた。

 腰をつけたまま後ずさる。と、手に何かを掴んだ。石鹸かなにかのように、やけに滑る。そして柔らかい。手をどけてみる。腸だ。少年の腹が裂かれて、腸が引きずり出されている。ピンク色に照り映えて、ひだの裏側までつぶさに観察できた。

 マコトは立ち上がった。胸倉に、別の誰かの手首があった。宿主から切り離された左手が、襟元を掴んだまま硬直していたのだ。乱暴にそれを引き剥がす。さっきまで、マコトを地面に押し付けていた奴のものだ。

 一体何が。わけが分からなかった。辺りを見回すと、少女を犯そうとしていた人間は全て、ケーキを切り分けるみたいに寸断されていた。

 足元に転がる、サッカーボール状の物に気づく。髑髏の眼帯を巻いて、苦悶の顔を貼りつかせていた。頭部だけになっても、相変わらず憎たらしい面だな、などと思う。朴はの目は、限界まで見開かれていた。

 鴉たちが跳び立った。

 翼がはためき、風が起こる。黒い羽毛がわっと舞い上がり、鴉はわめきながら一斉に飛んだ。

 舞い上がる黒い大群を眺めていると、その向こうに誰かが立っているのを認めた。

 黒い翼のカーテンが捲くられるとともにいきなり現れた。あまりに唐突だったので、最初は人間であるかどうかも分からなかった。

 長袖の、ナイロンのパーカーを着ていた。濃い緑、カラスの翼と殆ど変わらない暗色。黒いカーゴパンツと真っ白いスニーカーがアンバランスだ。両手は黒の皮手袋をはめている。

そ の顔、いや顔は見えなかった。フードを深く被り、口元はなにやらマスクのようなもので覆っている。遠くから見ると、顔の部分にぽっかりと穴が開いているようだった。見れば見るほどいような格好だった。外気に触れることを極端に恐れているかのようなそのいでたち、肌の露出が一切ない。そんなものだから、そいつが男か女かもわからない。

 何モンだ、と聞こうとしたが。途端、眼の中に光が飛び込んできた。集約された光、鏡やプリズムで反射されたのと同じものだ。眩しくて眼を細め、何事かと手のひらでさえぎる。

 すらり、とこすりあわせるような音。目の前の人間の手に白鞘の刀が握られていた。そいつを抜き放ち、刃に太陽光が反射したのだ。刀の柄にビニールテープが巻かれている。完全に抜くと、鞘を投げ捨てた。両手で持って、中段に構える。切っ先が、マコトの方を向いていた。

「なん……」

 声を上げる暇もない。そいつは間を詰め、ずいっと迫った。刀を振りかぶり、縦に切りつけた。

 前髪が飛んだ。しばらく間を置き、額が疼いた。鼻筋を血が通り、口のなかに入ったその液体は鉄の味がした。そこでようやく、自分が切られたということが分かった。そいつはもう一度、今度は腰だめに刀を構えた。腕を突き出す。おそろしく、速い。逃げようとする。足が、動かない。銀色の鋭角が、目の前まで迫ってきて――

 飛びすさび、刃を避けた。万力鎖を振り、分銅を投げた。

 刀に絡まった。

 マコトが鎖を引いた。刀さえ、封じてしまえば。だがその人間は、逆に鎖を掴んだ。刃を引くと、鎖がビニール紐を寸断するみたいに、簡単に斬れた。面食らう暇もなく、刀を振りかぶって斬りかかった。咄嗟に右手で防いだ。切っ先が手の腱を斬って、指の感覚がなくなる。更に下がるが、壁を背負った。パーカーのそいつは、刀を上段に振りかぶった。

 足元に何か触れた。柳葉刀だ。朴が落としたものだろう。拾い上げる。同時に、斬りつけてきた。

 鉄が、火を噴いた。

 頭上に柳葉刀をかざし、斬撃を防いだ。刃同士が十字にかみ合って、押しこんでくる力に必死に抗う。

 がら空きの胴に、マコトは前蹴りを放った。パーカーの人間は体を追って、多々良を踏んだ。その後頭部に柳葉刀を振り下ろした。刃が当たる瞬間、身を捻ってマコトの斬撃をかわした。

 それは、囮だった。

 間を詰めて、マコトは闇色の顔に、廻し蹴りを放った。何かが潰れる感触がして、そいつは二メートルほど吹っ飛んだ。思いのほか、軽い体をしていた。

「勢っ」

 柳葉刀を逆手に持ち、倒れ込んだそいつの、モスグリーンのパーカーに刀を突き立てた。一瞬、そいつは身を仰け反らした。

 剣先は腹に突き立ち、背中にまで達していた。体重をかけると、固い肋骨を刺し貫くのを掌に感じた。刀を引き抜くと、黒っぽい血が、溢れた。

 クソがっ

 こいつが、朴たちを()ったのだろうか? チンケな長ドスなんかで、しかもこの刀はどこかで見たことがある。この辺でのさばるヤクザの一人が、確かこんなものを持っていた。 

 しゃがみこんだ。こんなものを被って、一体何ものだろうか。フードを引っ掴み、そして取り払った。

 白髪が、零れた。そこにあった顔を見て、絶句した。

「じいさん?」

 死んだはずの篠森翁の、目を剥いて硬直した顔が、パーカー一枚隔てた先にあった。

「じいさん、なんであんたが……」

 言っても答えることはない。虚ろな、篠森の目は、宙を泳いでいる。死んだはずだ、というよりもなぜおれを襲ったりするんだ。

「“猫”は年寄りだって、あんたが言ったんじゃないかマコト」

 後ろから少女の声がして、振り返った。

「お前……」

 少女は、あれほど嬲られたにも関わらず、殴られた痕跡ひとつない。切り裂かれたはずの服は、なんでもなかったかのように身に纏われていた。そして、相変わらず存在を主張する赤いスカーフ。指先で、弄ぶ。

「年取った猫が、人を襲うって。その通りになったじゃないか、年寄り猫」

くすくす笑うのに、マコトは声を張り上げた。

「だからってなんでじいさんが」

「さあ、あんたにとっては“年寄り”ってそのじいさんだけだったんだろう。じいさん、色々知っていたみたいだけど」

「どういうことだよ」

「“猫”だよ、マコト。“神域”で噂になってるだろう。バイオ兵器とか、サイコパスとか。あんたが規定した“猫”の偶像は、偶々あたしに話した、年老いた化け猫の像だったんだよ」

老人の亡骸を見た。年老いた猫は人を襲う、確かに言ったがでも

「姿を、変えるっていうのか」

「あるものには獣、あるものには通り魔、イカレたヤク中。ネットワークの中で、“猫”は様々なものに変容する」

 言って、少女は老人の膚を撫でた。老人のざらついた舌が、口元から垂れていて、血の筋が顎と首まで伸びていた。

「お前、一体何を知っている」

 マコトが言うに、

「あんたは何を知りたい?」

「何なんだ、“猫”って。どういう存在なんだ」

「記号さ。あるいは情報のストック。ネットワークに偏在し、浮遊する媒体。それはどこにでもあるし、どこにでも現れる同位体」

 老人の亡骸が、ふとした時には消えていた。周りの少年たちの死体も。

「情報だと」

「“神域”や、共同体や、人の噂や――人や物や環境が繋がる(リンク)瞬間に、ネットワークが形成される。そこに存在する情報、風説、そういうのが蓄積されて、変容していって……その結果が具現化されないなんて保証はどこにある?」

「それが“猫”だっていうのかよ、出鱈目だ」

 マコトの頬に、少女の指が触れた。ぞっとするほど、冷たい指先だった。

「あんたも知っているはずだよ。あんた自身が、なにせ情報なんだから」

「どういう」

「自分で、確めな」

 網膜に、金色の格子と油膜めいた曼陀羅が広がった。“神域”に繋がるときの、膚のざわめき。そして、暗転。

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