契約
冷たい掌を額に感じた瞬間、瞼に暖かな光を感じた。
「眩しい…」
「おかえりなさい。」
部屋に…戻れた?
誰だろう…知らない女性が居る。
でも、その声はさっきまでお母さんだと思っていた人の声だ。
「あ、あの…?」
あんなにぼんやりしていた顔が、今ははっきりと見える。やっぱり、お母さんではなかった。
「気づいたんですね…ということは、生きて行くと決めたのね?」
「そのようだが、まだ契約が成立していない。思いのほか時間が掛かってしまったんだ。あれ以上は危険だったので、一旦戻らせてもらった。」
「そうでしたか…」
何だろう…この空間は、自分の家なのに知らない人が居て、でも違和感を感じない。
夢を見ているような…
「私も…もう行かないといけないわ。時間がなくて……」
綺麗な人だな…
お母さんよりも年上に見えるけど、色白で外国の人みたいだ。瞳の色が変わってる…前に絵本で見た琥珀色?っていうのかな?明るい茶色に、光の加減で黄色を帯びたような印象的な色…
「私の名はミユキ。私の顔を忘れないで…戻ったら会いに来て欲しいの。」
瞳に…吸い込まれそう…だ。
「必ず、必ず…お願いよ。」
顔が煙みたいに……消えてしまうの?
そんなの嫌だ…
「待って行かないで!…お母さん!!」
お母さん?
どうして…?
この人は、お母さんじゃないのに…
でも…分からないけど…
あの琥珀色の瞳…優しい声…
そして、優しい手の温もり…
何故か…懐かしい?
「逢いたい…」
何でこんな気持ちになるの?
何で涙が止まらないの?
胸が苦しい…
逢いたくて…逢いたくて…逢いたくて…
苦しい………
───パンッ───
「さぁ…契約の話をしよう。時間がない。」
あれ?
僕…どうしてた?
誰かの記憶を観ていたような感覚…?
「これから先はとても難しい話になる。だから、よく聞くように…いいね?」
契約の話…
ああ…そうだった。
この鋭い眼の人は、僕と契約をする為に来た人だ。
「はい…」
「まず、君は自殺をした…が、実際はまだ生きている。」
僕は、生きている。
「はい。」
「それは…ミユキの寿命と引き換えに、私の力で生かされているからだ。」
………え?
「……生かされている?」
「そう、瀕死の状態だがな…とにかく今後君は、ミユキから引き継いだ命によって生き続け、力を貸している私の為に一生、働かなければならない。」
一生働く?
「それが、君と私の契約だ。」
「ちょっと…待って…どういうこと?」
「私が勝手にしていることではない。ミユキ自身が望んで私に依頼をしたことだ。」
頭の中がぐちゃぐちゃになる…
「一生働くって?」
「先程見た、魂の川を思い出して聞いて欲しい。」
魂の川…
命あるものが生涯を全うすると、必ず訪れる場所。
それ等は人間として生まれ、生きて行くことを目的として存在している。
「魂の川の住人は、ただそこに居ても人間にはなれないと言ったが覚えているかい?」
「はい…確か、位置付けがあって…生きていた時にどんな生き方をしたか、死に方はどうだったか、あと…ここに来て何をするか?だったような…」
「そう。位置付けとはつまり階級のこと。生き様、死に様によっては、人間とは程遠い階級から人間を目指して苦行を行う。」
「苦行…何か修行でもするんですか?」
「苦行だ。人間を目指して階級を上げるためには、人間の様々な負の力を体内に吸収して浄化する必要がある。」
「負の力って…悪い心みたいな?」
「そうだな…主に人間の感情に含まれる怒り、哀しみ、恨み、妬み、などが負の力と言えるだろう。それらを体内に吸収して、浄化する行いを善行という。」
「ぜんこう?」
難しい言葉が多くて、頭の中が整理できない。
「善行とは即ち善い行いのことだが、例えば……感謝、対話、祈り、勇気、慈愛などのことだ。」
えっと……待って、混乱する。
「すまない…混乱させてしまったようだ。理解できたところまで、言ってみなさい。」
理解できたところって、言われても…
「……えっと、善行をすると…悪い心をすっきりさせることができて…人間になるための階級が上がる?…善行とは、感謝とか対話?だったような…あと何だっけ…」
「ざっくりだが…まぁ、良いだろう。」
ざっくりで…すみません。まだ、10歳なんで…
「簡潔に言うと、主に君にしてもらいたい善行とは、対話だ。何故なら…他の善行は、対話の中に自然に身に付いていくことが多いからだ。」
「対話って、誰かと話すことですか?」
「ただ漠然と話すことではない。対話だ。相手のことを思い、気遣い、何を悩み言わんとしているのか聞く耳を持ち、意味を理解し解決に向けて共に考えること。」
え…難しい…
お互いに、相手のために何ができるかを考えることかな?
「特に人間は、複雑な感情を持つ生き物だ。従って、ほんの些細なことでも負の力が起きやすい。自身では解決できないことも、対話を通して負の力を軽減させることができれば救われるが、対話がなければ孤独になり、負の力が増殖し短命になりやすい。」
確かに、僕の今までの環境を思い起こすと、ほとんど誰とも話さずに生活していて、孤独そのものだった…
「ここまでは、理解できているかい?」
「はい…なんとか。」
「対話をすることにより、相手の情報や負の力を体内に吸収すると、理解して浄化された部分は体内に残るが、解決できなかった部分は、黒い霧となって体に纏うことになる。」
黒い霧…
「浄化されて体内に残った部分とは、即ち悟りに変えることができたということ。悟りが多ければ多いほど、人間としての価値が上がり、死後の魂の川での階級も、高い階級から人間を目指して進むことができる。」
ベランダから飛び降りた日…あの人の体に纏った黒い霧を思い出してしまった。
「体に纏った黒い霧はどうなるの?」
全身に纏った、どす黒い霧の塊。
まるで死神のような姿…
「通常の人間は善行を積むことが得意ではない。故に、いつまでも浄化されず、黒い霧を纏ったまま過ごしている者がいる。従って、魂の川の住人が時々こちらに現れては、善行の手助けをしているのだ。」
「善行の手助け?」
「そうだ。主に住人が手助けをする人間とは、以前に縁のあった者の所に行く場合が多い。そして、その者が纏った黒い霧を体内に吸収し浄化する。浄化できなかった黒い霧は、魂の川の下に吐き出される。先程まで、君が居た場所だ。」
あの重力があるのかないのか曖昧な、黒い霧で覆われた場所。あれは、負の力の吐き溜まりだったのか…
「住人が体内に吸収した黒い霧からは、浄化しても僅かな悟りしか得られない。大半は吐き出して終わりだ。だが、それを積まないと人間になるための階級が上がらない。だから、苦行なのだ。」
そうか…それだけ、人間として生まれてくるということは、苛酷で大変なことなんだ。自殺が重罪に値するという意味が理解できた。
「故に、人間として生きている間に、どれだけの善行を積めるかが重要なんだ。」
生きている間に、どれだけの善行を積めるか…
あの人ように、全身に纏った霧でも…浄化することができるのだろうか…
「私も…あの川の住人なのだよ。」
鋭い眼が僕に向けられて、何となく気がつく…
「あなたはミユキさんに依頼されて、僕に再び人間として生きて行くための力を貸してくれたんですよね?」
「ああ…気がついたようだね。私は、ミユキに縁のある者。今はそれ以上を話すことはできない。今後は、君の守護と善行の手助けをする代わりに、君にも私に従って、善行を積むという重要な任務を請け負ってもらう。それが、私の為に一生働くという意味だ。」
一生働く…
何故、ミユキさんが僕のために命を譲ってくれたのか…
会いに行く約束をしたけど、ミユキさんはまだ生きているの?
難しいこと、分からないことが沢山ある。
でも、意味があって生かされたんだ。
後戻りはできない。
「…分かりました。」
生きなきゃいけないんだ!
「では同意した証として、君の名前を全て述べ給え。」
────ドクンッ────
「斎藤 賢斗」
──ドクンッ──ドクンッ──
「契約成立です。」