継承
窓辺から見る、外の景色…
サワサワと木々が揺れて、風の流れを感じる。
とても穏やかな日常…
これが…ずっと、続いたらいいのに……
「……ふぅ。」
そういえば…
今、何時なんだろう…
壁掛けの時計を見ると、17時を過ぎている。
「もう…そんな時間?」
外の景色が、昼間のように明るいから…
そんなに経っているとは、思わなかった。
昨日、目覚めた時間に近いかもしれない。
そろそろ…病室に戻ろう。
看護師さんを呼ばなきゃ……
「わぁ………!」
振り返ると、小さなおじいさんが立っている。
「あぁ…ごめんね。驚かせてしまったね。」
びっくりした…
「いえ…大丈夫です。」
車椅子に乗っている僕より、少し背が高いくらいだろうか…
それにしても…痩せている。
顔は、骸骨のように骨張っていて、頭髪は…ほとんど無い。
襟元から見える首筋や、袖口からの手首がとても痩せていて、背中が前のめりに曲がっている。
きっと…かなりの高齢者なのだろう。
あと……なんだろう。
この、重圧的な感じ…気持ちが悪い。
ここから、早く立ち去りたいという気持ちから、わざと…看護師を探す素振りをした。
「君、ちょっと待って…」
「え…?」
おじいさんが首を傾げながら、僕の顔を覗き込んで大きく目を見開いている。
「その眼…変わった色をしているね?生まれつきなの?」
怖い…
「いえ…じ、事故で…」
咄嗟に…目を逸らした。
威圧感というのか…体が震え出す。
「あぁ…そうなの?…どんな事故?」
素直に…言うべきだろうか…
「す、少し高い所から…落ちたんです。」
「あぁ…そう…大変だったね?」
このおじいさんは、生きている人…だよね?
「いえ…僕、そろそろ戻らないと…」
近くを通りかかった看護師を呼び止めようと、手を挙げた時だった……
「あぁ…ちょっと待って…」
「まだ…何か?」
── ドクンッ…
僕の様子に気がついた看護師が、方向を変えて一歩踏み出した瞬間、時間が止まったようにピタリと動かなくなった。
キ ─────────────── ンッ
耳鳴り?
キ ─────────────── ンッ
「う…ああぁ…」
鼓膜が…破れそう…
辺りの景色が歪んで見える。
同じ空間なのに、別の世界にスライドしたみたいに…
いつの間にか天井から黒い霧が現れて、今まで居た場所に、黒い段幕が下りて行くように、薄暗く淀んでいく…
あの世界に似た景色のような…
あの…死後の世界に…
「その眼を…儂にくれ!」
キ ─────────────── ンッ
「あぁ……」
か…体が動かない……
怖い…
「…たす…けて…」
「誰も、助けには来んよ。」
充血した目を更に大きく見開いた瞬間…
それは…僕の体を車椅子から引きずり下ろした。
何が…起きているのか分からない…
ただ…恐怖で声も出せない。
「はぁ……はぁ…」
自分の呼吸音だけが、やたら大きく聞こえる。
こんな時に、あの人は何処にいるの?
僕を守護するって、言ってくれたじゃないか…
─── ガンッ!
一瞬、後方から車椅子を足で蹴るように、退かしたのが見えた。
「ほぅ…」
しゃがんで、僕のことを覗き込んでいる。
まるで、鬼がいるかのような…凄まじい威圧感。
「不思議な眼じゃのう…どんなふうに見えるんかね?」
その指が…左眼の周りをゆっくりとなぞっている。
「…ぁ…ぁ…」
駄目だ…声にならない。
金縛りのように動かなくなった体は…微動だにしない。
強い…
「ぃっ……!」
「この眼を…左から貰う。」
爪を立てた指が、眼球の溝へ…抉るように入ってくる。
「う…ぁぁ……!」
痛い…痛い…
このまま…抉り取られる?
まさか…そんなこと…
「貰うよ?」
嫌だ…怖い…
「ぁ…あぁ!…」
せめて…もっと、声が出せれば…
「ほらほら…どうする?」
ドクンッ ─ ドクンッ ─ ドクンッ ──
── ドクンッ ─ ドクンッ ───
心臓の音が、体内で木霊すように…
体中を震わしている……
何も……聞こえない。
── ドクンッ …… ドクンッ ………
何も…感じない。
──── ドクンッ
でも…あの日々のことが…
頭の中で…フラッシュバックしてくる………
声も出せず…
体は、痩せて思うように動かせず…
記憶が失われるまで、殴られた日々…
抵抗できないまま、諦め続けた日々…
──── ドクンッ
「どうした?血が出てきたよ?…諦めるのかい?」
……諦める?
諦めても…いいんじゃないのか?
こんな…オレンジ色した気味の悪い瞳なんか…
いっそ、無い方がいいんじゃないか?
─── ズキッ ─────
「ぅ…ぁぁ…!」
瞳の奥の…脳髄まで響くような痛み…
あの世界でのことが…蘇る。
人の形をした住人の…黒い穴の中に吸い込まれた…
あの時のことを…
全てを諦めかけたあの時……
赤黒く蠢くモノたちが…僕の全てを覆って…
体が段々…溶けて蝕まれていくような…あの感じ…
絶望という……無の世界。
諦めてしまったら…
全て、無くなってしまうんだ…
「…ぃ…ゃ…」
嫌だ……
「さあ、どうする?」
嫌…だ……
「…ゃ………め…」
メキメキと…
左眼から…音がする。
口の中に広がる…血の味…
……………お父さん。
「さあ!!」
……………や…
「……やめろっ!!」
全身を縛っていた何か…
見えない鎖が…弾け飛んだような解放感と、全身に電流が走ったような刺激。
「……おや?」
その刺激に弾かれたように、おじいさんの指が離れた。
体が動く…
「ふざけんな!!」
骨折していることなんて、どうでもいい。
体が動く限り……
この怪物に…抗ってやる!
「ほう…なるほどね…まぁ、悪くないんじゃない?」
悪くない…?
「はぁ〜あっ…」
鼻息混じりのため息をつきながら、降参したように、両手を上げている。
さっきまでの…あの鬼のような威圧感と殺気は、嘘のように感じられない。
「ば…馬鹿にするな!」
「まだまだ弱いね…でも、こんなもんでしょ?…ねっ?お侍様?」
────── フワッ ────────
『御仁の仰る通りです。』
聞き覚えのある滑らかな声が…
黒い霧の中から、風のように現れた。
「おじさん?…どういうこと?」
もしかして…
また、仕組まれていたこと…なの?
「ちょっと待って!おじさんなんて…呼び方してんの?このお侍様に?……無知は怖いのぉ。」
『御仁…それは構いません。痛み入ります。』
イライラする…
このやり取りに、苛立ちが止まらない。
胃のあたりのモヤモヤしたものが、心臓まで圧迫するように…苦しくなってきた。
「あの…僕…何が何だか……説明して下さい。」
『有無…』
僕の苛立ちとは反対に…静かに胡座をかきながら、いつものように…鋭い眼を僕に向けている。
『御仁が、君に…命を譲ってくださるそうだ。』
「…………。」
予測していた言葉だった…
おじいさんを見ると、まるで別人みたいな優しい眼差しになっていて、目が合うと…バツが悪そうな表情をして頷いた。
「そうなの…もう儂は長くないからのぉ。死ぬのが分かっているから。なら、残り少ない時間を有効に使ってもらった方が、ええんじゃ…」
「待って下さい。何でそうなるの?…おじいさんの家族は……?」
あやちゃんのお母さんのことを…思い出す。
余命3ヶ月と分かっていながら、死期が早まったことに対して、どんなに辛い思いを………
僕のせいで…
「僕は、大丈夫ですから。少しでも大切な人のために、長く生きてほしいです。」
「ほぉ…優しいんじゃの。…ええの、ええの。奥さん、だいぶ前に亡くなってるし。子は、知らん。天涯孤独!気にせんでええよ!」
どうして…そうなるんだろう。
「でも…命ですから。そう簡単には、僕が納得できません!」
命は、一度失ったら…取り戻すことができないんだ。
単純な問題ではない。
「はぁ……頑固だねぇ…お侍様、どうする?」
困り果てた表情で懇願するおじいさんとは対照に、その人は…全く表情を変えずに、静かに僕を見ている。
『賢斗、君が納得できない気持ちは十分承知している。だから御仁ともよく話し合い、全て納得した上で、交渉が成立したことを理解してほしい。』
「それは、分かっています。おじさんを信頼しているから。でも…それは、全て僕たち側のこと。相手の残された家族や、大切な人の気持ちを無視することはできない。」
『無視はしていない…少女の母親に、会わなかったかい?』
「…会いました。やっぱり、あれもあなたが仕組んだの?」
『無論。それも間違いではないが、正確には…少女から受け継いだ能力によって、君が引き寄せた力だ。』
「…能力?」
『命を譲って頂くということは、ただ、延命するだけではない。譲る側の高い能力を受け継ぐことによって、繋がるということ。』
「繋がる…」
『君が、少女から受け継いだ能力とは? 何が考えられる?』
あやちゃんから受け継いだもの…?
あやちゃんは、ずっと…優しい笑顔をしていた。
その笑顔に…とても気持ちが楽になって、癒されたんだ…
「優しさ…でしょうか?」
『そう感じたなら、そうだろう。…その答えは、君にしか理解できないことだ。』
難しい…
あやちゃんから受け継いだ能力が…
あやちゃんのお母さんを…引き寄せたのだとしたら…
あの悲しみを…
我が子を早くに失った、絶望という深い悲しみを…
僕は…無意識に抱きしめていた。
あの時の感情…
あれは…
慈しむ…ということ?
それが…あやちゃんの感情…
その感情が…僕を通して繋がったとしたら?
僕の言動で、あやちゃんのお母さんは…
………救われた。
人の心を救う能力………
「…慈愛……ですか?」
『さあ…それも、君にしか理解できないことだ。』
教えては…くれないこと…
自分で、感じて…理解しなければいけない。
「さて、儂はそろそろ限界なんじゃが…もう逝ってもよいのかの?」
「待って…おじいさんは、本当に…伝えたい大切な人、いないの?」
あやちゃんの時のように…
「僕に…できることは、ないですか?」
おじいさんの顔が、一瞬…曇ったように見えた。
「おらんし…ないわ。それより…もう、眠い。早よ〜逝かせて!」
本当は、大切な人がいるのに…
「…教えて下さい。僕に…命を譲るって、どんな気持ちですか?」
「…さっきも言ったでしょ?残りの時間を有効に、使ってもらいたいって…」
「…でも………本当に、僕で…いいんですか?」
大切な命を…僕が使ってもいいの?
「だから、見に来たんでしょ?相応しいかどうか…正直に不安だよ!こんな、軟弱者に…って。」
「…ごめんなさい。」
「ほら!…それ!簡単に謝るな。さっきの勢いはどうした?…君は、儂に勝ったんだから…気にせんでええの!」
勝った……?
「…この儂に、立ち向かえたんじゃから…もっと、自信を持ちなさい。あれが無ければ…この交渉は無し。目ん玉貰って、終わり!」
「立ち向かえなかったら…成立しなかった?」
「当たり前でしょ?命なんだから…簡単に上げる訳ないでしょ?…試したの!」
…勝負…していた?
僕が………立ち向かった…?
「僕は…おじいさんに…勝った?」
「そお!…儂に勝ったんじゃよ!」
勝ったんだ………
「もう…いいかね?儂はね…楽しみなんじゃ!来世は、お侍様のように背が高くて、超イケメンになって戻ってくるぞ!」
そうか…と、
妙に…納得している自分がいる。
「それには、しんどい苦行があるらしいが…なぁに、のんびりやるさ…なんせ90年も生きたんじゃから!」
あやちゃん…
おじいさん…
それぞれの、命に対する価値観があって…
「おじいさん……」
納得しているのなら…それに答えたい。
「…有り難うございます。」
おじいさんの曲がった背中から…
黒い霧が立ち上がって…
細い廊下の向こうへと、流れて行った。
「…はいよ。頑張んなさい。」
おじいさんの表情が、とても晴れやかな笑顔になっている。
「さて……どっこいしょっと……やれやれ、年は取りたくないのお〜。」
でも…
笑顔で皺だらけになった顔に、流れた一筋の涙は…
「お侍様にね…最期に、体を動かせる力を残してもらえたんよ。これで、部屋に戻ったら…よく眠れそうじゃ…」
きっと…深い意味があったんですよね?
「おじいさん……」
声をかけずには…いられなかった。
「…儂のぉ。会いたい人、思い出したら…」
一瞬、立ち止まって…
でも、振り返らずに…
「…お前さんところ出てくるから。…そん時は、よろしくなぁ…」
小さく痩せた背中が、震えているのが分かる…
「うん…待ってるよ。」
…そのまま、一度も振り返らなかった。
…………………………………………
──── バンッ…
「動けよ……この!…」
体さえ動けば…
こんな思いをしなくてすむのに……
「くそ……っ!」
叩いても…
叩いても、どうにもならない。
『賢斗…止めなさい。』
「はあ……はぁ……」
分かってるよ…
でも…この憤りをどうしたらいいんだ。
「くそ……」
──── バンッ…
『賢斗………御仁が、川に入られた。』
魂の川…
薄暗い無音の世界に、白く浮かぶ川…
そこには…あらゆるものが、長い時間をかけて流れ…流れて、人間として生まれてくる。
善行という、苦行を乗り越えて…
「おじいさん…」
手を合わせながら…頭をよぎったのは…
僕は、おじいさんから…
……何を受け継いだのだろう……と。
そして…
気になり始めていることが…ある。
この…鋭い眼の人に起きている、明らかな変化と…
僕の身に起きている、緩やかな変化。
「ねえ…どうしたの?」
それらは…
僕に…止めようのない、睡魔が訪れる時に…
起きているということ。
「おじさん…髪の毛が……真っ白だよ?」
あとの記憶は…覚えていない…




