僕に翼が生えたなら…
死に方は、以前から決めていた。
ベランダを目指して進む途中で、何となく冷静に周囲を見渡す自分がいる。
薄明かりでも、目を閉じていても、10年過ごした部屋の様子は鮮明に分かる。
6畳の狭い部屋にゴミなのかよく分からない、色んな物が散乱しているこの部屋は、お母さんの部屋。
隣の部屋は、タバコとアルコールと何かが混じった異臭の酷い、あの人の部屋。
僕には部屋という贅沢は許されず、この部屋の押し入れが唯一の居場所だった。
お母さんは、今夜も遅いのかな…
「あっ…」
何かにぶつかって思わず声が出てしまった。
ドクン…ドクン…ドクン…
汗がこめかみを通って落ちていき、心臓の音が大きく響く。
ドクン…ドクン…ドクン…
僕がまだ起きていることを知られたくない。
「ふう……ふう……」
静寂の中に、僕の息づかいと心臓の音が頭の中で木霊する。
落ち着け…隣の部屋から物音がしないか集中しよう。
「………ふう…」
大丈夫…気配は感じない、早く行こう。
ゴミのような物を掻き分けてベランダの窓を開けると、ヒヤッとした空気が入ってきて、体が震えた。
…いよいよか。
足元から水の跳ねる音が聞こえる。
「あ…め?」
物置と化したベランダの隅に、不自然に積み上げられた物たち。柵を乗り越えるために、植木鉢とかで足場を作っておいたけど、上手く登れるだろうか…
「…う…」
滑るけど…あともう少しで辿り着ける。
あと…もう少し…
───サァ───サァ───サァ───
シャワーを浴びているみたいで、気持ちがいい。
なんだかな…
死ぬ前なのに、何でこんなに冷静でいられるんだろう。
どこかで、ワクワクしている自分もいる。
でも、やっぱり怖い。
7階のベランダから落ちたら、僕の体はどんなふうになるの?
もしも…死ななかったら?
それでも…ここからって決めている。
柵を乗り越えて見下ろすと、急に足がガクガクと震えだした。
もう、後戻りできないんだな…
恐怖と緊張と期待があって、変な感じ。
「ふう………」
さあ…行こう。
…………………………………………
「何してるんだ?」
どうして………そこに居るの?
「…あ…あ…」
一瞬、時が止まった気がした。
頭が真っ白になったような…ここから飛ぶよりも恐ろしい現実が戻る。
「ガキ…何してる?まさかお前…」
……お父さん、そうだよ。
今日は僕にとって、特別な日なんだ。
以前、図書館で読んだ童話の一節が頭にこびりついて、今も離れない。
主人公は奴隷の少年、いつも辛い思いをしている。
ある日、決心するんだ。
─死んだら天国に行けるのかな?
神様は、僕のことをどんなふうに見ているの?
生き地獄の中にいる僕は、やっぱり地獄に堕ちるのかな?
今日は、僕に翼が生える日だ。
白く美しい大きな翼なのか、黒くて爪のある気味の悪い翼なのか。それは、飛んでみればわかるさ。─
童話の少年は、大天使ミカエルの加護を受けて助かるけど、僕にはそんなことが起きるわけがないことくらい、分かっている。
でも、もしも僕に翼が生えたなら…
どっちだろう。
「ガキ!こっちに来い!!」
それは、飛んでみればわかるさ。
「おい!!」
どこにこんな力が残っていたんだろう…
自分でも驚くくらい高く飛べたんだ!
両手を広げて羽ばたくように…
───サァ───サァ───サァ───
雨音が心地よい…地面に吸い込まれていくこの感じも…
やっぱり翼は生えなかったけど、でも…やっとこれで
…自由になれるんだ。