生還
息子は病院に緊急搬送された後、全身打撲と頭蓋骨骨折と診断され直ぐに手術が始まった。長時間の大掛かりな手術だったが、奇跡的に息子は生きている。ただ、何かしらの後遺症があるだろうということと、術後2週間が経つが、未だに意識が戻っていない。
「ただいま、賢斗。今日はね…Tシャツ買って来たよ!退院したら、これ着て遊びに行こうね!」
1年以上も、何も買っていなかったから…洋服も靴もみんな小さくなっていたのに、気づかなくてごめんね…
あれから、私の生活が一変した。
子供がベランダから飛び降りた事が報道されたことによる、世間からの冷たい視線や叱責。
母親なのに、何をしていたんだ。
原因は虐待? いじめ?
警察の事情聴取では、夫が保身のために虐待の真実をひた隠しにし、息子自身の精神が不安定だったことが原因だとした。
私は虐待があったことを述べようとしたが、思い留まった。息子が生きている以上、本人から真実を聞きたかったし、目覚めた時に母親として傍にいたいと思ったからだ。
身勝手なことは分かっている。
子供が自分の誕生日に自殺を試みるなんて、余程の覚悟があったに違いない。罰を受けるなら、賢斗の意向に任せなければ…
私はこれから先、母親として…この子に何ができるのか、一生をかけて償わなければいけない…
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「紗季子…話がある。」
部屋に入ってきたのが夫だと分かった瞬間、一気に嫌悪感が込み上げる。
「ロビーで話しましょ。」
席に着くなり、落ち着かない様子で貧乏揺すりを始める夫に対して、どうしても冷めた目で見てしまう。
いつも通りの皺だらけのシャツに、薄汚れたスーツ姿。服に染み込んだ煙草の匂いが鼻につく。病院に来る前に、車中でかなり吸ってきたのだろう。
こういうところが本当に嫌。
「話って、何ですか?」
あれ以来、この人とも会話をする機会が増えた。
以前は、極力顔を合わせないようにわざと帰宅時間を遅らせていたが、こうなった以上そうもいかない。しかし、生活を共にすることは不可能と判断し、夫には離婚をする前提として家から出て行ってもらった。
「要件は…医療費のことなんだが…」
「その話、メールにできないの?他人に聞かれたくないことは、メールでやり取りするって、決めたでしょ?」
── バンッ ──
「誰もいないんだからいいだろ?!面倒なんだよ!」
…こうやって怒鳴れば、誰もが言うことを聞くと思っている愚か者。ここが家だったら、机ではなく私が殴られていたわけね。
賢斗はずっと………
「まさか…飲酒してないわよね?それも、決めたことでしょ?」
「飲んでねーよ!飲酒運転になるだろ?馬鹿かお前?!」
僅かだけど、アルコールの匂いがする。
……救いようのない人。
夫はアルコール依存症と診断されている。家でこの人の視界に入ると暴力の対象になるので、被害に遭わないための対処として、飲酒をしてから会わないと決めたのだが…この人は重症だ。
「…で?お前、金どうするつもりだ?前もって言っておくが、俺には無理だからな!」
「無責任なこと、言わないで!」
「お前なぁ…このまま入院が続いてみろ、何百万かかると思ってんだ!そんな金どこにある!」
「ちょっと…大きな声出さないでよ!」
確かに…医療控除があるにしろ、纏まったお金がないと厳しい。でも…
「何とかするわ…」
それでも賢斗のために、何とかしないといけない。賢斗のために…
「そうか。なら頼んだわ!…けどお前、随分と人が変わったもんだな?…あいつのこと無視してたのに、なぁ… 今更だよな?」
「やめて、触らないで!」
気持ちが悪い…
本当に顔も見たくない、話もしたくない。
触られた所から、蛆が湧いてくるんじゃないかと思うほどに、震えが止まらない。
この人とのことも、早く決着つけないとダメだ。
「けっ…なんだよ…まぁ、任せたから。じゃあな!」
冷笑を浮かべながら立ち去る夫の姿を…ただ、横目で見送ることしかできない自分にも、嫌気がさす。
「…はぁ…… 」
本当にどうしたらいいんだろう…何もかも。
色んなことが重なりすぎて、手に負えない…
キ─────────ン…
「あ…」
まただ…最近、よく耳鳴りがする。
「う…」
目眩…ぐるぐると頭の中が回っているような、気持ちの悪さに身動きが取れない。
…なんだろう、寒気がする。
いつもと違う感じ……
『…………スグ。』
…え?
背後から女性の声がしたような……
『…アエル…』
──── ゾワッ ───
誰かいる…?
視界がよく分からない…砂嵐みたいなザラザラとしたモノが飛び交っている…
『オボエ…テル… 』
覚えてる? 何のこと……
「い…やっ」
一瞬、顔…が見えた。
どうして?
救急車に乗るように促した女性が、覗き込むように私を見ている。
『モゥスグ……フフ』
薄笑いを浮かべた顔が、だんだん骨張っていく…
骸骨のように陥没した目に光はなく、真っ黒な穴が…
「いやぁっ!!」
───────────
「…さん?」
「賢斗君のお母さん?」
「大丈夫ですか?」
………夢?
夢なのか、現実なのか…?
「…はい。」
「賢斗君の意識が、戻り始めています!」
「えっ!」
賢斗……意識が?
「急いで戻りましょう!」
「はい!」
…………………………………………………
「賢斗君、聞こえますか?」
右手の人差し指と中指が少し動いた。
反応しているんだ…
「け…賢斗?…」
お母さん…ね、やっと気がついたの。
「賢斗…聞こえる?」
あなたが…どれだけ大切な人なのか…
「賢斗?」
例え、許してもらえなくても…
「お…」
もう…離れないから。
あなたを守り続けるからね。
「…賢斗、ごめんなさい。」
本当に心の底から思っています。
「ごめんなさい…」
賢斗の体から心臓の鼓動と、息づかいを感じる。
「お……か…」
…賢斗?
「…あ…」
もしかして…私に何か、伝えようとしている?
「…さ」
「ん………」
お母さん…?
「ぼ…… 」
息が苦しそう…
「賢斗…無理しないで…」
───────フワッ───────
風?
窓… 開いていないのに…
「あ……………おか…ぁ…」
賢斗の声が… 変わった?
「……さん」
お母さん…
「ぼ… く… のぉ…… こ…と…」
僕のこと…
「……… す……… き?」
好き?
お母さん、僕のこと好き?
「あ……ああ…」
私は…それほどまでに…
……あなたを孤独にしていたのね?
────────フワッ────────
また風?
なんだろう…不思議。
今まで私を締め付けていた鎖が解けたように、軽く感じる。
私も伝えなきゃ…私の気持ち。
「賢斗… 大好きよ。」
どうして、この一言が言えなかったんだろう。
難しい言葉ではないのに…
「あり…が…と」
賢斗… それは私の言葉よ。
あなたが生きていてよかった…話せてよかった。
「…だ…い…すき」
愛おしい…
もう、絶対にあなたを不幸にしない。
あなたの気持ちを踏みにじらない。
約束します。
もう、私たちは大丈夫。