傘と魔女
鴇塚杏理は窓の外、灰色の淀んだ空をぼうっと眺めながら、時間が経つのを待っていた。
ざぁざぁと、雨が窓ガラスを叩く音が耳障りなくらい響いている。
今朝は晴れていたのだが、昼頃からどんどん天気が悪くなり一時間ほど前から降り始めた。天気予報通りではあったので、杏理を含む大半の生徒は傘を持ってきているが、そうでない者は帰りが大変だろう。
授業はもう全て終わっており、いまは終礼の途中である。
いつもはプリントなどの配布や行事などの連絡で終わるのだが、今日は少し様子が違っていた。
ここ数日、学校近辺で猫や鳩の死体が幾つも発見されているという内容だった。獣に食べられたような形跡があり、人間の仕業ではないだろうとのことだが、見かけたら通報するようにと、警察からのお達しがあったらしい。そういうことを担任が話している。
とはいえ、自分には関係のないことだろうと思い、杏理は話を半分聞き流していた。
窓の外から視線を戻し、右隣の席を見る。
烏城美麻。それが、隣の席の彼女の名前だ。
肩ほどまで伸ばされた髪は、濡れた烏羽のように艶やかな黒を湛えている。顔は小さくすらっとした曲線が輪郭をつくっており、あどけなさは残るが日本人らしからぬ目鼻立ちをしている。聞くところによると母方の祖母がヨーロッパの人だそうで、彼女はいわゆるクウォーターということになるらしい。髪の色からはそうだとは伺い知れないが、緑がかった褐色の瞳が彼女の血統を物語っている。
ここが女子校でさえなければ、異性からの好意を多く寄せられたことだろう。とはいえ、性別の壁を越えて恋慕する者も世の中には、特にこういう学校には多くいるため、美麻は高嶺の花のような存在として扱われている。
いや、高嶺の花というには、彼女は少し異様であるかもしれない。
杏理が美麻のことを知ったのは一年と少し前。ちょうど、この高校に入学したときのことだった。
中高一貫の女子校であるここは高校募集も行っており、杏理はそれで入学したひとりである。
一年生のときは美麻とは違うクラスだったが、入学してすぐに彼女の存在を知った。中学から内部進学してきた美麻は、学内では既に有名人だった。
ただ美人というだけで有名だったのではない。
彼女には常に、《魔女》という異名が付きまとっていた。
実際に彼女が魔女とか、そういう話ではない。
烏城美麻という人間は、どこか普通の人とは違う、近寄りがたい雰囲気を纏っていた。
杏理達と彼女の間には明らかな境界線がある気がするのだ。そのせいか、彼女は中学の頃から敬遠される傾向にあったようで、高校に入っても人と話しているところは殆ど見かけない。当然、杏理が美麻と言葉を交わしたことは一度もない。クラスが違ったこともあったが、彼女との間にある境界に触れるような勇気がなかったのだ。
けれど、杏理は美麻に密かな憧れを抱いていた。
中学までは人との付き合いをそれなりにうまくやれていた杏理だったが、この高校は内部進学グループが既に出来ており、その雰囲気にうまく馴染めなかった。部活に入らなかったこともありいまでも友達はそう多くなく、孤独なことの方が多い。
だから、誰とも関わりを持たずに生きている美麻に憧憬を抱いていた。
いつの間にか、美麻がこちらに顔を向けていた。彼女の色素の薄い瞳が杏理を見つめている。
杏理が慌てて視線を教壇へ戻すと、ちょうど終礼が終わったようで学級委員が号令を掛けていた。心臓をばくばくさせながら立ち上がり、号令に従い挨拶をする。
礼が終わると、生徒は少しずつ教室から出て行く。部活に急ぐ者もいれば、友達と駄弁りながら帰路につく者もいる。
帰宅部の美麻はすぐに教室を出る生徒のうちのひとりだ。杏理が隣の席を見たときには、
杏理は部活に所属する友人と少しばかり話してから、教室を出た。
杏理は下足で履き替えて、傘立てからお気に入りの臙脂色の傘を引き抜き外に出る。庇の下から空の様子を伺う。雨脚は先ほどよりも少し勢いを増しているようだ。
横を見ると、いつもの冷めた表情で外を見ている美麻がいた。忘れてきたのだろうか、その手に傘は握られていなかった。少しの間彼女のことを見ていたが、鞄から折り畳み傘を出す様子もない。
杏理は少しびっくりした。
杏理の中の美麻は何でも出来る完璧な人で、傘を忘れるなんてことはないと思っていた。
声を掛けようか、迷った。
杏理の鞄の中には折り畳み傘がある。いま手に持っている傘を美麻に差し出しても、雨に濡れずに帰ることは可能だ。
美麻に一歩歩み寄り、恐る恐る口を開く。
「あの……烏城さん」
杏理が美麻に掛けた、初めての言葉だった。
美麻が杏理を見る。杏理は思わずびくっと肩を強張らせた。睨みつけられているというわけではないのに、身動きがとれなくなる。
「鴇塚さん、だっけ」
彼女に名前を覚えられていたことにまず驚いて、杏理は頷くことすら忘れていた。
杏理の返事を待たずして、美麻は言葉を続ける。
「わたしに、なにか用?」
「あ、えっと、いや」
返答に困って、杏理は口ごもった。
「何もないの?」
そう言って、美麻が会話を打ち切ろうとするものだから、杏理は慌てて手に持った傘を差し出した。
「あの、もし傘ないんだったら、これ、どうぞっ」
美麻は目の前の傘と杏理の顔を交互に何度か見比べた。
「貸してくれるってこと?」
「えっと、迷惑だったらいいんだけど……」
やらかしたか、と杏理は不安に思った。
あれだけ他人を寄せ付けない彼女だ。傘を差し出すなんて、過干渉にも程がある。突っぱねられて終わりどころか、逆鱗に触れた可能性すらある。
「ありがとう」
返ってきた言葉は意外にもお礼だった。
「でも、いいわ。貸してもらいたいけれど、あなたの傘がなくなるでしょ」
「あ、いや、わたしは折り畳み傘があるから大丈夫……です」
思わず丁寧語を使ってしまう。年齢は同じはずなのに、大人の女性と話しているような感じだ。
「じゃあ、折り畳み傘の方を貸してもらっていい?」
「わたし駅から家近いし、こっち使って……ください」
杏理は押しつけるようにして美麻の手に傘の柄を握らせた。そう言うなら、と呟いて、美麻は渋々という感じでそれを受け取った。
「ありがとう、助かるわ。これは明日返すわね」
「あ……はい」
「同じ学年なんだし、畏まらなくていいわよ」
「あ、うん……」
美麻と会話をしているという夢のような現実に、杏理は緊張で心臓が破れそうだった。
「それじゃ、行きましょ」
そう言って、美麻は傘を開いて庇の下から出た。一瞬、自分が言われていると気付かず、杏理は我に返ったように鞄から折り畳み傘を取り出して後に続いた。
美麻の横に並んで歩く。背が高いぶん、彼女の歩調は杏理よりも少しばかり早くて、杏理はいつもよりも早足になる。
雨の中、会話もなく横を歩いているのに耐えられず、杏理は口を開いた。
「烏城さん、傘は忘れたの?」
「……盗られたのよ」
少しむすっとした表情を見せて、美麻が言う。
思いがけない反応だった。烏城美麻がこのように感情を表に出すところを初めて目にした。人間らしい、と言うと失礼かもしれないが、彼女もこんな表情をするのだという発見が、他の人は知らないであろう一面を知れたことが、杏理にはなんだか嬉しかった。
「どうかした?」
表情に出ていただろうか。美麻が怪訝そうな表情で杏理の顔を見つめていた。
「……っ、ううん、なんでもないの!」
ぶんぶんと首を横に振って誤魔化す。傘が盗られたと聞いて喜んでいると思われたらたまらない。しかし、美麻も同じ人間には違いないのだと思うと、杏理はなんだか少し肩の力が抜けた気がしていた。
「そういえば、終礼で言ってたあれ、怖いよね」
ふと思い出したことを話題に挙げてみる。猫や鳩が噛み殺されていたという事件の話だ。
「ああ、あれね。気をつけた方がいいわよ」
「……? なんで?」
美麻ならば「そうね」の一言くらいでさらっと流すと思っていたのだが、意外な反応だった。
「キツネとか、野良犬とかじゃないの? ほら、山近いし」
そう言って、杏理は北の方を指差した。この街はそれなりに栄えてはいるが、自然が身近だ。
「野生動物なんてどんな菌持ってるか分からないし、そもそも人間の仕業かも知れないわよ」
「あー、それは確かに怖いかも……」
殺人犯が動物虐待をしていたような話はよく聞く。二十年くらい前に殺人事件を起こした中学生も、猫を殺すのが始まりだったという。もしかしてこの街にも似たような殺人犯予備軍が潜んでいると思うと、ぞっとする。
「夜はひとりで出歩かない方が良いかもしれないわね」
「うん……そうする……」
そんな話をしているうちに、駅前のバス停まで来たところで美麻が立ち止まった。
「それじゃ、わたしはここで」
「あれ、烏城さんバスなの?」
「ええ」
バスそのものは学校の前からも出ているのだが、わざわざ駅前から乗るということは彼女の家は街中からは少し外れるのだろう。
「それじゃ、また明日」
そう言って、美麻が臙脂色の傘の下で手を振る。つい先日までの杏理には考えられなかった光景だ。
また明日も美麻と話せるのだと期待に胸を膨らませながら手を振り返して、杏理は駅の改札へ向かった。
***
顔の違和感と、僅かな吐き気を覚えて目が覚めた。
真っ先に認識できたのは、いつも見ている自室の白い天井。次に知覚したのは、口の中にじわりと広がる鉄の味と、腥い臭いだった。
ばっと飛び起きて口元を手で拭うと、赤い何かが剥がれ落ちた。それが乾いた血であることを杏理はすぐに理解した。
立ち上がろうとしたが、強い目眩がしてうまく身体を動かせない。ベッドから這い出すようにして手鏡のもとへ向かい、顔を見る。口と鼻の周りに、まるで紅いマスクを着けているかのように血がこびりついていた。
恐らく、寝ている間に鼻血が出たのだろう。ベッドを見ると、枕の周りにも幾らか血がついていた。
鼻血が出たことは何度かあるが、何かにぶつかったようなことが原因だ。切っ掛けもなく寝ている間に、それもこんな量が出ているのは初めてのことだ。
自分の顔を鏡越しに見た直後、杏理は胃袋からこみ上げてくるような強い吐き気を催した。ふらふらする足取りで、ゴミ箱に飛びついた。
「んグ……げェッ!」
吐いた。胃を裏返したのではないかというくらい盛大に吐いた。吐瀉物も紅色だった。知らず知らずのうちに鼻血を飲み込んでしまっていたのだろう。口の中が胃液の酸っぱさと血液の腥さでいっぱいで、それが余計に吐き気を誘った。
結局、吐き気が治まるまでの数分間、杏理はゴミ箱から離れることが出来なかった。
部屋中に、吐瀉物の饐えたような臭いと血生臭さが充満している。杏理はどうにか血のついたベッドに戻って、横になっていた。ゴミ箱の中のモノを自分で処理するだけの気力がない。全身が気怠くて、目眩も嘔吐する前より酷くなっている。正確には分からないが、体温も高そうだ。
(病気、かな……)
大量の鼻血に、原因不明の目眩と嘔吐。少なくとも身体が正常ではないことははっきりしている。
学校は休むしかない。杏理のこの体調では、そもそも学校に辿り着くことすらままならないであろう。
せっかく昨日、美麻と話が出来たのに。今日学校に行っていれば、彼女が貸した傘を持ってきてくれていて、また言葉を交わすことが出来ただろう。彼女が独りで昼食を食べていることは知っているから、誘えば一緒に食事が出来たかも知れない。
まるで恋する乙女だなあ、と杏理は自嘲気味に笑った。
しかし、これが恋愛感情ではないことを、杏理はよく理解していた。
顔についた血をティッシュペーパーで拭い取って、枕元のスマホを手に取る。階下にいるであろう母親に現状を伝えるメッセージを送り、既読がつくのを確認することもせず、杏理は目を閉じた。
***
月曜日。
杏理は依然、気怠さを感じながらも通学路を歩いていた。
先週末のどんよりとした天気とはうって変わって、気持ちのいい晴天だ。体調がそれに伴ってくれないのは憂鬱だが、天気も悪いよりはよっぽどいい。
結局、杏理はその後三日間熱を出して寝込んだ。
母親が病院にも連れて行ってくれたが、血液検査などをしても以上が見当たらず、風邪という診断を下されだ。処置といえば、解熱剤と吐き気止めの処方くらいのものだった。
とはいえ、吐き気そのものは初日で治まったし、鼻血もあれ以降一度も出なかったので、軽い目眩は残るものの、熱が下がったところで登校することにしたのだ。
学校を休んだのは鼻血を出した金曜日と、午前授業の土曜日だけなので、授業についていけないということもないだろう。
校門を抜けるときに、杏理は後ろから声を掛けられた。
「おはよう、鴇塚さん」
声音だけで、それが誰だか杏理には分かる。
立ち止まって振り返り、彼女の名前を呼ぶ。
「烏城さん、おはよう」
笑顔を作ったつもりだったが、体調の悪さのせいか、ぎこちないものになってしまった。美麻はそれを敏感に悟ったのか、眉間にしわを寄せた。
「あんまり具合良くなさそうだけど、大丈夫?」
「あ、うん。ちょっと目眩がするくらい。ただの風邪だし、もう平気だよ」
「そう……ならいいんだけど」
そう言って、美麻は校舎へ向かって歩いて行く。杏理も彼女の横に並んで歩き始める。
「そういえば傘、返せてないわね。明日は来れるの?」
「多分、大丈夫だと思う……」
確証はないので、歯切れの悪い返事になってしまう。
「じゃあ、明日改めて持ってくるわね」
「うん、お願いします」
それにしても、こうして美麻と共に登校できることがまるで夢のようで、杏理はふわふわした気持ちになる。美麻の方はまったく気にしてはいないのだろうけど、それでも嬉しかった。
朝からこんなに良いことがあるなんて、三日間寝込む不幸の反動だろうか。占いみたいなものはあまり信じてはいない杏理だが、今日は良いことがあるかもしれないと思ってしまう。
折角だから、少しだけ勇気を出してみようと、杏理は腹を決める。
「烏城さん、今日は放課後空いてる?」
「ええ、大丈夫だけど、どうして?」
美麻は不思議そうな顔をする。
「駅前にチーズケーキが美味しいカフェがあるんだけど、一緒に行かない?」
「いいわね。わたし、チーズケーキ好きなの」
「ほんと!?」
まさか二つ返事で誘いに応じてくれるとは思わなくて、杏理は思わず声を大きくしてしまった。断られるだろうと思っていたのに、了承してくれるなんて、やっぱり今日は良い日だと噛み締める。
「それじゃあ、放課後。約束ね」
「ええ」
そんな約束を交わしたのに、杏理は体調を崩して昼過ぎに早退した。
翌日、杏理は再び血塗れで目覚めた。
学校は、休んだ。
***
杏理は血の匂いとともに目覚める。
口の周りには、また乾いた血がついている。
起き上がって、手鏡で自分の顔を見る。酸化して赤黒くなった血液が顔の下半分を覆っている。
これで三日続けて。学校も休み続けている。もはや吐き気や目眩はなく、血腥さに心地良さすら見出していた。
杏理は気付いていた。この血が、鼻血ではないということに。それどころか、自分の血ですらないかもしれない。
先週、終礼で担任が話していたことを思い出す。
獣に喰われたとされる、猫や鳩の死骸。
そして、朝起きたら何かの血に塗れている自分。
それに気付いたとき、全身に悪寒が走った。しかしすぐに、思い至ったことを振り払い否定するように杏理は首を横に振る。
きっと勘違いだ。
そう自分に言い聞かせ、杏理は布団を深く被った。
暗闇の中に自分を閉じ込めていなくてはいけない気がした。
***
意識が裏返るような感覚。
四肢が徐々に実感を取り戻していき、杏理の自我は人の形を取り戻していく。
血の臭いだ。目覚めたときに、この甘い香りが漂っているのが当たり前となりつつある。口の中にも血と肉がいっぱいで、舌がとろりと蕩けるような極上の甘味が広がっている。それらを嚥下し、杏理はうっとりと呟く。
「ああ、美味しい」
自ずから出たその言葉に、杏理は驚いた。
血が、肉が、美味しい?
調理されたものではない、純粋な血液と肉塊を頬張って、それを美味しいと感じる。それではまるで、獣ではないか。
そもそも、この肉は何の肉だ?
そこに思い至ってようやく、視界が明瞭になる。
眠りについたはずの自分の部屋ではなかった。靴は履いておらず、砂を踏み締める感覚が足の裏にある。はっきりとした場所までは分からないが、どこか屋外だ。人気のない住宅地の中の、小さな児童公園らしかった。街灯も切れてしまっており、月明かりだけが唯一の光源だ。何故このようなところにいるのか、頭に靄がかかったように思い出すことができない。時間も、夜中ということくらいしか分からない。
目の前には猫がいる。血の臭いはソレから漂ってきていた。
猫は既に息絶えていた。腹は抉られ、中身が見えている。
杏理は悲鳴を上げるでもなく、ただただ納得した。いま、自分の口の中に入っているものは、あの猫の内臓なのだ。常識的に考えて、まず人間が口にするものではない。余程飢えていれば食べるかもしれないが、いまの杏理のようにそれを生のまま食べて美味と感じることはまずないだろう。
杏理は、自身が人間ではない何かに変質しつつあることに恐怖を感じた。
自身の知らないうちに、こうして血肉を求めて生き物を捕食している。いまはまだ意識は戻ってこられるが、いずれ完全に鴇塚杏理という人間は塗り潰されてなくなってしまうかもしれない。いや、もしかすると、自分が自分であることを自覚しながら、獲物を求めて彷徨う獣になってしまうかもしれない。
ぽつぽつと雨が降り始めたが、杏理の身体についた血を洗い流せるほどの勢いはない。
杏理はその場に留まることが恐ろしくなって、走り出した。
公園を出て、とにかく見知った場所を探して走る。血だらけの姿が誰かに見られることは意識のうちになかった。運が良いのか、誰にも見つからずに家の近くの道に出た。
ただ、物足りない。お腹が空いて仕方がない。空を飛ぶカラスすら、いまは美味しそうに見えてしまう。
どうしようもないひもじさを理性で必死に抑え込みながら、杏理は自宅へと辿り着いた。
乱暴に玄関のドアを開いて中へと駆け込む。荒くなった呼吸を落ち着かせながら、杏理は階段を上る。階段を踏み締めるたびに足の裏がじくじくと痛む。裸足で走っていたために、アスファルトで切ってしまったのだろう。
自室に入った杏理は、そのまま真っ直ぐベッドへと向かい、シーツや布団に血がつくことも厭わず倒れ込む。
横になっても、空腹感はいっこうに治まらない。食事の途中で席を立ったのだから、仕方のないことだ。
杏理の中に巣喰う獣は、物足りないと囁いている。
それに負けそうな自分が怖い。
この、肉を食べたいという衝動は、満たされない限りは永久に続くのだろう。
眠りにつくことで誤魔化そうとするが、脳が興奮状態にあるために眠ることができない。
ノックの音がして、杏理の返事を待たずドアが開いた。
父親と母親が部屋の中に入ってくる。
「杏理、どこに行ってたんだ」
父親の問い掛けに、杏理は布団の端を握り締めて口元を隠し、首を横に振ることしかできない。口を開けば、そのまま首筋に齧りついてしまいそうだ。
「何とか言いなさい」
歩み寄ってきた父親が、杏理の被る布団を引き剥がす。
「ひっ……」
露わになった杏理の血まみれの姿を見て、母親が引き攣ったような悲鳴を上げた。父親も驚きで目を見開いている。
空腹でたまらないのに、目の前に食事を据えられる。もはや、それに手をつけずにいられるほど、杏理の理性は残されていなかった。
そして、意識が暗転する。
***
次に杏理が目覚めたときには、空腹感はほとんど治まっていた。
しゃがみ込んで、獣のように何かを頬張っていたのだろうか。上体を起こして、満腹感を愉しむ。
嗅覚が敏感になっている。部屋中に充満した甘美な血の香りをいっぱいに吸い込んで、杏理は蕩けたような表情になる。
だが、この血は何の血だろう。さっきまで、この部屋には杏理と両親しかいなかった。
杏理はふと目下を見る。暗い部屋の中にふたつ、大きな物が転がっているのに気付いた。
父親と母親だ。糸が切れたように動かない彼らは、何によって捕食されたのか、肉体の所々が欠損している。失われたそれらがどこにいったのか、考える余地はなかった。
いま、杏理は両親の身体を食べていた。
「あ……ああ……」
その事実を認識して、少しの間杏理は現実を受け入れられずにいた。
自分の親すらも、食料として食べてしまった。既に杏理の理性では抑えきれないほどに、彼女の中の怪物は肥大化してしまっていた。
人を喰う。超えてはならない一線を越えてしまったような気がして、杏理は叫び出しそうになる。
そのときだった。
「やっぱり貴女だったのね、鴇塚さん」
その、笛の音のように澄んだ声を、杏理が聞き間違えるはずがない。
振り返るといつの間か窓が開いていて、黒い羽根が舞っていた。見慣れた制服ではなく夜の闇に溶け込むような黒いローブを羽織って、烏城美麻はそこに静かに腰掛けていた。
「烏城、さん……?」
杏理が困惑しながら名前を呼ぶと、美麻は微かに笑みを見せたような気がした。
何故彼女がここにいるのか。そもそもこの部屋は二階で、壁を伝って上ってくることは容易ではないはずだ。どうやって窓から入ってきたのか。
窓枠に座っていた美麻がすっと床に立つ。彼女は杏理と、杏理の足下に転がる死体に全く怯むことなく歩み寄ってきた。その所作のどれもが美しくて、杏理の視線は彼女には釘付けになってしまった。
雨の中、傘を差さずにやってきたのか、彼女の黒髪は雨に濡れて、ひと房は頬にはりついている。羽織った黒いローブもしっとりと濡れていて、その姿は杏理に、彼女がなんと呼ばれていたかを思い出させる。
「烏城さん、本当に魔女だったんだね」
「……ええ」
静かに頷いて、美麻が杏理を見据える。
「単刀直入に言うわね。鴇塚さん、あなたはもう人間じゃない」
杏理の中で渦巻いていたそれを、明確に美麻が言葉にした。
「……やっぱり、そうだよね」
杏理は自分がすんなりとそれを受け入れられたことに内心驚いた。事実を他人に突きつけられれば、もう少し混乱すると思っていたのに。それを告げたのが美麻だったからだろうか。
「わたしは、あなたを始末しないといけない」
悲痛な面持ちで、美麻は言った。彼女のその表情を見て、「始末」の内容を杏理は察した。
もしかしたら、まだ戻れるかもしれないと思っていた。しかし、この胸の内に湧き上がってくる本能的な欲求が、もう取り返しのつかないところまで来てしまったのだと教えてくれる。
いつの間にか、杏理の頬を涙が伝っていた。
「……わたしには、あなたがすごく美味しそうに見える」
嗚咽の漏れる喉から、震える声を絞り出す。
食欲は満たされたはずなのに、それでも美麻の白い首筋に齧りつきたくなる。その衝動がこみ上げてくるということが、なによりも辛かった。
「だから、殺して。烏城さんになら、殺されても良いよ」
涙を流したまま、杏理はくしゃくしゃの笑顔を作る。
いままで話すことはほとんどなかったけれど、この何日かは、美麻と話せて楽しかった。だからもう、いい。
自分が自分でなくなる前に。
「……ごめんなさい」
美麻は申し訳なさそうにそう言い、何か呪文のようなものを唱えた。
彼女の背後から、ぬるりと黒い影のようなものが伸びた。それは影なのだが、空間上に存在する物質で、先が刃物のように鋭く尖っていた。
常識の埒外の術を扱う美麻は、やっぱり普通の人間ではなかったのだなぁと杏理は今更ながら思った。
目を瞑り、その時を待つ。
今際の際、杏理は思う。
――そういえば、傘、返してもらうの忘れてたなぁ。
それが杏理にとって最期の思考だった。
***
烏城美麻は、近所のパン屋で買ったパン・オ・ショコラを齧りながら、窓の外を見る。
昨夜から降り続いている雨が、静かに地面を打っている。
美麻からしてみればどんな天気でも構わないのだが、先日学校で傘を盗まれたこともあって、少しばかり憂鬱な気持ちになる。
母親である麻夜はまだ起きて来ない。完全夜型人間の母親はいつも昼過ぎにならないと起きて来ないから、美麻はいつもひとりで朝食を摂る。
美麻の家は、郊外の住宅地の中にあるひときわ目立つ洋館だ。美麻の曽祖母が日本に来た際に建てたそうで、築六〇年近いと聞く。父親は早死にしており、姉は大学進学と共に家を出たため、この広い屋敷を美麻と麻夜の二人で使っているのだが、持て余しているというのが正直なところだ。寂しさなどは感じないが、なにせ管理が大変だ。かといって、現当主である麻夜は使用人などを雇うつもりもなく、娘二人に任せきりだった。そのうえ、彼女は魔女の家系としての研鑽を美麻たちに求めた。
母親がそんなだから、反発した美麻の姉は家出に近い形で烏城の家を飛び出し、その皺寄せが美麻に来ている。
烏城の跡継ぎとしての魔術の修得。美麻の魔術の才は姉に比べ乏しいにも関わらず、姉の代わりとしての務め――先日のような怪異事件の解決。美麻はこれらを中学生の頃から行っている。
先日の事件というのは、市内での屍喰鬼発生のことだ。
屍喰鬼は文字通り、屍肉を喰らう化け物だ。最初の一体がどのようにして生まれてくるのか美麻は知らないが、屍喰鬼に喰らわれた人間は屍喰鬼となる。感覚としては映画に登場するゾンビに近い。初期症状として小動物の生肉を食すようになり、完全に屍喰鬼になる頃には人間を捕食するようになる。
今回現れた屍喰鬼は二体。いずれも、今頃は行方不明扱いとなって報道されていることだろう。
先に現れた一体は、名も知らぬ会社員の男だった。こちらは、捕食対象が人間に移る前に美麻が始末した。
そして、後の一体。
クラスメートだった鴇塚杏理。どこにでもいるような、大人しめの少女だった。
彼女を殺すことに躊躇いがなかったと言えば、嘘になる。だが、両親を捕食した彼女は涙を流しながら、殺されることを願った。だから、殺した。
朝食を食べ終えた美麻はティーカップの紅茶を飲み干して、食器を流しに運んだ。
美麻と杏理との関わりは、彼女が屍喰鬼になる直前に少し会話を交わした程度だ。しかし、ただそれだけの関係であったとしても、《魔女》と呼ばれ、周囲から距離をおき、おかれ続けてきた。普通の人間ではない、けれど魔術師としては半端者である美麻には、普通に対してどこか憧れのようなものがあったのかもしれない。
美麻は思う。彼女が屍喰鬼にならなければ、きっと良い友人になることができただろう。
食器を洗い終えた美麻は、鞄を手に取り玄関へ向かう。
傘立てから傘を抜こうとして、盗まれたままだったことを思い出す。代わりに傘立てに立てられているのは、臙脂色の傘だった。
「……そういえば、返せてなかったわね」
いまとなっては、唯一の杏理との繋がり。美麻はそれを手に取り、ドアを開けて外へ出る。
傘を広げ、一歩を踏み出した。
そのうち加筆します。