郵便ポスト
母親の呼びかけに三度目で応じると、少年はようやく布団から身を起こした。そして、これから言いつけられるであろう用事を思って顔をしかめると、仏頂面のまま階下へ向かう。温み始めた風が、土の香りを纏って、子供部屋のカーテンと戯れていた。
階段を降りた所は、短い幅を挟んですぐ玄関になっている。そこでは、小柄な老人が靴を履いていた。上がり框には母親がいて、少年を見るなり、眉をひそめて、老人に目をやった。少年は、やっぱり、と呟く。
「お義父さんが、郵便ポストを探しに行くの。一緒に行って来なさいね」
「……郵便ポスト? 嫌だよ」
少年は危うく仏頂面を崩しかけた。老人に関する言いつけだろうとは思っていたが、何故郵便ポストなのか。だが、そんな動揺を感じられてはいけない。少年はすぐに反撃を試みる。
「じいちゃんが一人で行けばいいじゃん。絶対に嫌だね。なんで俺がついていかなきゃだめなのさ?」
早口でまくし立てたが、少年は、何故母親がそんな事を言いつけるのかという理由を知っていた。
一昨日、この小さな老人は行方不明になったのだった。昼前に欠かさず行っている近所の公園への散歩……。いつもなら小一時間で帰ってくる、老人の長年の習慣。それが夕飯時になっても帰らない。ついに翌朝まで待っても現れず、少年の父親が捜索願を出しに行こうとした時だった。警察から、老人を迎えに来るようにとの連絡が入った。
帰宅した老人は平生となんら変わりがない様子だった。ただ、自分が行方不明だったという事と、何故自分が息子に付き添われて帰宅しているのかという事を、理解していない様に見えた。張り詰めた雰囲気の家族を不思議そうに見渡すと、ただいま、と言った。そしていつも通り落語を観て、本を広げながら眉間に皺を寄せて碁を打った。
その日は休日だったにも関わらず、みんなびくびくしていた。昨日もそうだった。そして今日も。一昨日よりは大分和らいできてはいたが。少年はそんな家族の態度にはうんざりだった。
「なんでって、分かるでしょ?」
少年の母親は咎める様に声を落とした。少年は黙って彼女を睨む。それから老人を見た。
「じいちゃん、郵便ポストなんて探してどうするの?」
「お、ああ……それはな」
老人は、はっと顔を上げると、次の瞬間には悪巧みをするコソ泥の様な(と、少年の父親が昔言っていた)笑みを浮かべた。その笑い方は老人の癖で、少年は知らずホッとして、ホッとした自分に腹が立った。
「これを投函するためだ」
手に持った紙切れを、目の高さまで持ち上げた。近づいてよく見ると、黄色い花の絵が描かれている。老人からはぷんと香の匂いがした。
「わあ、手紙じゃないですか、懐かしい。花の描かれた封筒なんて素敵ですね。見たの何十年かぶりですよ」
母親が驚いた様に言う。
「でも、どなたに出すんですか?」
老人は母親から目を逸らし、ちょっとな、と歯を見せてニヤリとすると、少年を振り返った。
「郵便ポストを見せてやろう。近くに来てるらしいぞ。紙の手紙を投函するなんて初めてだろう?」
少年は数秒迷ったが、結局好奇心には勝てなかった。近くに来ているとはどういう事だろう、とは思ったが、うん、と返事をしてスニーカーに足をつっかけた。お義父さんをお願いね、と後を追いかけてきた母親の言葉は、聞こえないふりをした。