Ⅰ/蟹捕獲作戦
本編がようやく始まります。
東京府、墨田川のほとり。熊田カツヨシは迷っていた。友人である加藤マサヒロが川へ入るのを止めるべきか否か。マサヒロが言うには、墨田川には天然の蟹が居るらしい。この時代では、市場に流通する海産物の大半が養殖モノである。もちろん蟹も養殖以外は出回っていない。それならば自ら捕獲しに行けば良い、と加藤マサヒロは考えた。否、考えてしまったのだ。
「なあ、本当に行くのか?」
「当たり前だ。でなければここまで来てないぜ」
「やれやれ。お前のことだから止めても行くんだろうな。まあ骨くらいは拾っといてやるよ」
「それじゃあ蟹、楽しみにしてろよ!」
そう言い残すと、加藤マサヒロは冬の墨田川に消えていった。
さて、時は少し巻き戻る。それは十日ほど前、加藤マサヒロが商店街へ買い物に行った時のことである。マイタケ商店街、それは彼のマンションから最寄りの商店街だった。家からの距離が近いというのはやはり便利である。品揃えも悪くはない。
「天然の蟹って売ってないのか?」
「はぁ?そんなもん無いよ。そもそも市場に出回ってないからね。うちの店はもちろんだけど、他の店行っても無いだろうね」
「うーむそうか」
加藤マサヒロが魚屋を後にした時、彼に話しかける女性が一人。赤みがかった髪が特徴的な若い女性だ。背丈はマサヒロより高く、女性にしては高身長な部類に入るだろう。
「ねえ、天然の蟹を探してるの?」
「むむむ? お前は一体……って、三階の三日月さんじゃないか。こんなところで何してるのさ」
「仕事中よ。ここの花屋で働いてるって前にも言ったでしょ?」
なるほど、確かに花屋のエプロンをしている。
「そうだったっけ」
「きっとそうよ。それより天然モノの蟹を探しているんでしょう?」
「ああ、そうだぜ」
「実はねぇ、墨田川にいるらしいのよ、蟹」
「な、なんだとぅ? 本当なのか?」
「ええ本当よ。うふふ」
「こうしちゃいられねえ、今すぐにでも……いや待て、どうせなら新鮮なやつを鍋にぶち込みたい。やっぱり当日獲りに行くか」
「捕まえに行くのね、蟹」
「来週の日曜あたりにね。ところで三日月さんも鍋パーティー来るかい?」
「そうねぇ、気が向いたら行こうかしら」
三日月は笑顔でそう答えた。
加藤マサヒロは墨田川に消えた。一方、熊田カツヨシは通りすがりの音無サトコと遭遇した。
「うっへー、マサヒロのやつ川に入っていったよ。熊田、何がどうなってんの?」
「おう、さっちゃんか。あいつはな、蟹を捕まえに行ったんだよ」
「え? カニ?」
「そう。なんでもこの墨田川に天然の蟹がいるんだってさ」
「そうなのかー。で、マサヒロは大丈夫なのか?」
「さあな。特別な防寒着とか、ダイビング用のウェアーとか、そういうのは準備してなかったし、いつぞやの二の舞いになってるかも」
「そんなこともあったっけ」
かつて、加藤マサヒロはマンションを追い出された挙句、川に捨てられたことがあるのだ。
「さて、そろそろ戻ってきてもいい頃だが。俺の予想ではあまりの寒さにすぐ戻ってくると思う」
「もうくたばってるかも。やっぱり神様はあてにならないわね」
「あいつの命運なんか神様に祈ったところでどうにもならなさそうだがな。なにせ、あいつ自身が天性のトラブルメーカーなんだからよ。神様ごときがどうにか出来るとは思えん」
加藤マサヒロを中心に巻き起こされた数々の迷事件、熊田カツヨシは懐かしむようにそれらを回想していた。妙な本を拾ってしまったことがきっかけで【魔術】と呼ばれる地味な力を手に入れた事件、異世界に迷い込んだ事件などなど。まったく大変だったなぁ、と思う熊田カツヨシであった。
「うー、寒い…………」
一方、音無サトコは寒いので早く待ち合わせ場所に向かいたいと思っていた。今日は鍋パーティーをするということで、とある骨董品店が待ち合わせ場所であり会場でもある。もし蟹が手に入らなかったら鍋のグレードが落ちるわけだが、彼女は特に気にしてはいなかった。加藤マサヒロによると、今日はいろいろな人が来るらしい。賑やかな時間、それを音無サトコはひっそりと楽しみにしていた。