第11話『おっさん、緊急措置をとる』
「あら祐輔、おかえり」
優子は膝をつき、包丁を手にしたまま、祐輔に顔を向けた。
「あ、大下くんいらっしゃい。ごめんね、散らかってて」
祐輔の後ろにいた敏樹に気づいた優子はそう言ったが、その目は虚ろで、焦点が定まっていないように思われた。
そして敏樹のあとに入ってきたロロアのことには何も言及しなかった。
視界には収まっているものの、意識にのぼっていないとでも言えばいいのだろうか。
優子はロロアの姿を見ながらも、その存在に気づいていなかった。
「ロロア」
静かに名を呼ぶ敏樹の視線を受け、ロロアは無言でうなずくと、倒れている男へ静かに近づいた。
「うぅ……」
うつ伏せの男を静かに引きずって優子から離す。
幸いというべきか、優子は相変わらずロロアの存在に気づいておらず、祐輔と敏樹を見ていることで倒れた男のことも意識から外れているようだった。
ある程度距離をとったところで男をひっくり返して仰向けにし、血まみれの服をまくり上げて傷口を露わにする。
ぱっくりと裂けた傷からは、ドクドクと血が流れ出していた。
「母さん……、なにやってんだよ?」
「ん、なにって?」
祐輔のほうも母親のことで頭がいっぱいなのか、ロロアと血まみれの男のことなど気にすることもなく優子に話しかけていた。
敏樹が様子を見守る中、ロロアは腰のポーチから小瓶を取り出し、中身を男の傷口にふりかけた。
それは異世界産の外傷用ポーションであり、多少の傷ならたちどころに治してしまう、かなり効果の高いものだった。
(……だめか)
しばらく傷口の様子を見ていたロロア顔を上げて首を振り、それを見て敏樹は軽く肩を落とした。
製造時に魔力を込めて完成するそのポーションは、こちらの世界では十全に効果を発揮できないらしい。
出血は多少ましになったようだが、傷口を塞いだり完全に止血したりとまではいかないようだ。
「うぁ……!」
ロロアがポーチから布を取り出して傷口を押さえると、男はわずかにうめき声を上げたが、谷村親子が気づく様子はなかった。
「母さん! なんで……なんでこんなことに……!」
「なんで……? こんなことって、なにが?」
相変わらず虚ろな目のまま、優子は首を傾げ、ふと手元に視線を落とす。
「ああ……」
血まみれの包丁、返り血を浴びた手や身体を見て、祐輔の言わんとしていることろ理解したのだろうか。
優子はゆっくりと顔を上げ、我が子を見て儚げに微笑み、目尻から涙を流した。
「ごめんね、祐輔……。駄目な母親でごめんね……」
「母さん……?」
そこでふと、優子は敏樹に視線を向けた。
「大下くん、祐輔のことお願いしてもいいかな?」
「何言ってんだよ母さん!?」
そんな馬鹿げたことを言う優子の目は相変わらず虚ろで、その精神状態がまともでないことは一見してあきらかだった。
まともに取り合う必要はないだろうが、さてどうこの場を収めたものかと敏樹は思案する。
「だって、私には頼れる人が……」
「馬鹿なこと言ってないで、それをこっちに!」
とにかく包丁を手放させようと祐輔は手を伸ばしたが、優子は薄く微笑んだまま小さく頭を振る。
その様子を目の端に収めながら、敏樹は血まみれの男に視線を落とし、続けてロロアを見た。
敏樹の視線と表情から何かを察したロロアは、力強く無言で頷いた。
「もうダメ……手遅れよ……。悪いけど大下くん、祐輔のこと……大下くん……?」
優子が顔をあげると、そこに敏樹の姿は見えなかった。
部屋を見回してもさきほどまでいたはずの同級生はどこにもいない。
「あれ、おかしいなぁ……?」
母親の言動と行動に、祐輔も思わず部屋を見回す。
自分のすぐ近くで、敏樹の連れてきた女性が男の傷口を押さえていた。
しかし、部屋のどこにも敏樹の姿は見えなかった。
「そっか、これは夢ね……」
ふっと安堵したように表情を崩した優子は、自分の喉元に包丁の切っ先を向けた。
「夢なら、早く起きないと……」
「な!? 母さん!! 違うっ! 夢じゃない……!!」
「……いいわよ、どっちでも。もう、疲れちゃった」
優子が動く。
祐輔は慌てて踏み込んだが間に合わない。
切っ先が首の皮1枚を傷つけたところで、優子の動きが止まった。
瞬時に現われた敏樹が後ろから優子をガッチリと抱え、手首を掴んでいた。
「ロロア!」
「はいっ!!」
敏樹が声を発するよりも早く動いていたロロアは、片腕でスウェットの男を抱えあげながらもう片方の腕で祐輔を抱き込んだ。
「ぐぇっ……」
「うわっ!!」
「えっ!?」
そしてふたりの男を軽々と抱えたまま、素早く敏樹らの背後に回る。
できるだけ衝撃を与えないよう注意しながらも、迅速に自身の身体を敏樹に預け、スウェットの男と祐輔を抱き寄せる。
次の瞬間、5人の男女は薄暗いテントの中にいた。
「えっ? えっ?」
「っ……!?」
状況を飲み込めずにうろたえる祐輔と、言葉もなく固まる優子、そしてぐったりとしたスウェットの男。
次の瞬間には優子の手から包丁が消えていたが、彼女はそのことにすら気づいていないようだった。
「トシキさん!」
「おう」
ロロアは戸惑う祐輔を抱き寄せたまま、スウェットの男を離してその場に転がした。
優子の手にあった包丁を〈格納庫〉に収めた敏樹の手には、小枝のような杖があった。
これは古霊木から作られた杖であり、わずかながら魔力消費量を抑えられ、魔術効果があがるものである。
魔力成長関連のスキルを習得しているにもかかわらず、保有魔力量がなかなか増えない敏樹が、少しでも効率よく魔術を使えるようにと購入したものだった。
異世界人であることが原因で基礎値が低いせいもあるのだろう。
保有魔力量に関して、敏樹は半ば諦めていた。
ただ、自前の魔力は少ないが、いざというときに必要な魔術が使えるよう、〈魔力吸収〉によって魔石から魔力を吸収し、〈保有魔力限界突破〉により使い切りの魔力を普段から貯めておくようにしている。
「ぎゃああああああっ!!」
古霊木の杖で触れた直後、スウェットの男は悲鳴をあげた。
「事情は知らんが、我慢してくれよ」
敏樹のかけた【癒やしの光】という回復魔術の効果で、男の傷がみるみる塞がっていく。
いまやこの世界でも失われつつある高度な魔術であり、傷を治すだけでなく失われた部位や血液まで再生してしまう効果がある。
しかし、無理やり傷を治すせいか、治療には相当な苦痛を伴うのだった。
「うがぁ……、うぅ……痛ぇ……」
傷は致命傷といっていいほど深かったが、刺されてあまり時間が経っていなかったのと、さきほどロロアがかけたポーションがこちらの世界にきたことで効果を発揮したのもあり、スウェットの男の傷は1分ほどで完治した。
痛みで完全に意識を取り戻し、傷が治ったことで動けるようになった男は、傷のあった腹を押さえながら身を起こした。
「いったいなにが……? そうだ、俺はあの女に刺されて――」
あたりを見回そうとした男の頭を、コツンと敏樹が杖で叩いた。
すると男は、白目をむいて意識を失い、再びバタンと倒れた。
「とりあえず事情がわかるまで寝とけ」
【昏倒】という、その名の通り相手を瞬時に昏倒させる魔術で、敏樹は男の意識を刈り取った。
「お、おっさん……、いったいなにが?」
「あれ、なんで? 包丁は……?」
いきなりわけのわからないところに連れてこられたかと思うと、さきほどまで大人しかった男が急にわめき出し、そして意識を取り戻したかと思うとバタンと倒れた。
何が起こったのか理解するのは不可能だろう。
谷村親子はそれぞれ困惑していたが、そこへ外からドタドタと足音が近づいてきた。
「おい、誰かいるのか!? なにがあった!?」
大声でそう言いながらテント内に顔を覗かせたのは、ロロアの伯父であるゲレウだった。
「う、うああああああ!?」
「いやああああああああ!!」
混乱の極みにあったところへ突然現れたトカゲ頭に、谷村親子の恐怖が限界を超えて振り切ったらしい。
ふたりはゲレウを見て顔をひきつらせ、悲鳴をあげた。
「……悪いけどおやすみ」
そんなふたりの頭を、敏樹はコツンコツンと杖で叩いた。
すいません、しばらく更新が滞るかもしれません。
溜まりに溜まった書籍化作業と次から次へと指示される取材に執筆時間がゴリゴリ削られておりまして……。
暇を見つけて少しでも書いていこうとは思っておりますので、もしかすると不定期に更新するかもしれません。