友の残り香
蚊取り線香、妹、秋の三題で書いた話です。
夏が終わり残暑という言葉も聞かなくなった中秋の頃、俺はどこからともなくしてきた蚊取り線香の匂いに足を引っ張られていた。
匂いに連れられて着いたのは縁側だった。夕陽に照らされたその場所には一つの人影があった。
「もう蚊なんていないと思うぞ、舞花」
お兄ちゃんか、と妹の舞花はこちらをちらりとも見ずに、ただ庭をぼんやりと眺めながら呟いた。
「別に、最後一つだけ残ってたから使ってるだけだよ」
そうか、と返事をして俺も舞花の隣に座り込み、特に何かあるわけでもない庭に視線を向ける。
ついこの間まで夏の気配のあった庭は、今は随分と味気ない。向日葵を育てていた花壇には何もなく、ただ落ち葉だけが風と共に走り回っている。
「今年の夏も、もう終わったんだね」
「ああ、そうだな」
舞花のことばに俺はなだめるような、あるいは慰めるような声色で応えた。暑さも消え、長袖でも肌寒い日すらたまにある。夏はもう秋にバトンを渡したのだ。
「そっか、じゃあもう優君にも会えないんだ」
俺は何も言えなかった。
舞花が口にした優とは俺の親友であり、舞花にとっては彼氏であった人物の事だ。誰にでも優しく、人当たりも良く誠実で、そしてその優しさゆえに今年の春、命を落とした。「俺の事は全部忘れて構わない」と言い残して。
東京の高校に進学した優は離れ離れになった後でも毎年、夏休みだけはこっちに帰って来て三人で一緒に遊んでいた。一年のうちたった一ヶ月程度しか会えなくても、俺たちは変わることなく親友でいられた。
今年の春、優は見ず知らずの男が喧嘩をしているのを仲裁しようとして逆上した男に暴行を受け、帰らぬ人となってしまったその時までは。
「知らない人なんだから放っておけば良かったのに、馬鹿だよ、優君は」
ああ、まったくその通りだと自分でも思ってしまう。もし自分の中の視界に他の人が喧嘩している姿が映ったら、触らぬ神に祟りなしと思って避けるかも知れない。警察に連絡したかもしれない。
でも、
「優は、困ってる人を見捨てないよ」
静寂の中、そうだよね、と諦めと敬意の入り交じった息を漏らしたのが聞こえて会話は止まった。
二人が見ているオレンジ色の景色の中、細くたなびく一筋の煙は絶えず二人の間を漂っていた。
俺は優のことを思い出していた。よく絶え間ない蝉時雨の中、この庭で遊んだものだ。虫取りをして花火をして、一緒にスイカやかき氷を食べたりもした。
虫取りではカブトムシとクワガタどっちの方が格好いいかで論争になり、花火では誰が打ち上げ花火に火をつけるかで揉めた。スイカを食べるときには優が塩を付けると美味しいと言い、俺ら二人が全否定した。
どれも今となっては良い思い出だ。
だが、優は死ぬ間際に「全部忘れて構わない」と言ったらしい。そこにどんな意思が、意味が、想いが込められていたというのは誰にも分からない。
だが、一つだけ確かな事がある。
忘れることなんて、出来ない。
きっと舞花も同じなのだろうと、もう半分以上灰になった蚊取り線香を見て思う。最後の一つだったから、などと言うのは後付けの理由だ。
夏の匂いは俺たちにとって優の匂いだ。
いや、正確には匂いだけじゃなく夏そのものが優を連想させるのだ。忘れるなんて、出来るはずない。
「スイカ、ダメになる前に食べちゃえってお母さんが」
声に振り返ると舞花がスイカを二切れと塩を持ってきていた。
ありがとう、と礼を言うと舞花は頷いて先程いたところに座り直した。蚊取り線香にスイカ。
この世界で二人だけが夏に取り残されてしまっているようだった。
「甘いね」
しゃくっという音をたてて一口食べた舞花が言った。
食べてみると旬を過ぎているというのに赤い果実は皮肉なほどに甘かった。
ふと舞花の手が止まっているのに気づき見てみると、舞花は塩をじっと見つめていた。
「塩を付けると、甘くなるって、言ってたよね」
確かめるように、それでいて覚悟を決めるように呟くと、塩をばっと振りかけ、一口食べた。
しばらくの咀嚼の後、俯いて
「・・・っやっぱり、、しょっぱいよ、、優君」
俺は何て声をかけていいのか分からず、舞花の嗚咽を聞きながらも、ただ横に居続けることしか出来なかった。
蚊取り線香の煙は風に靡かれ、舞花の方へと流れていった。
部屋に戻る、と言い残して舞花はこの場を去っていった。
もう残り僅かしかない蚊取り線香と食べかけのスイカ、俺だけが寂しく取り残されている。
「なあ、優。お前は忘れて構わないなんて言うけど、そんなことたぶん出来ないんだよ。」
一人虚空に向かって言葉を投げ掛ける。返事など来るはずもないのだがどうしてだろう、俺の言葉が優に届く気がした。
「これは忘れたくないとか覚えていたいとかそういうことじゃなくて、お前はたぶん、今も夏にいるんだよ。俺と舞花の夏に。」
あの暑さの中に。蝉時雨の中に。かき氷の冷たさに。海の潮騒に。小陰の涼しさに。スイカの甘さや塩の塩辛さに。花火の綺麗さに。蚊取り線香の香りに。
「だから、さ。」
蚊取り線香はもうほとんど消えかけていた。もうじき、俺たちの今年の夏が終わる。
「また、来年の夏会おうな」
蚊取り線香の火がふっと消える。
その刹那、優が笑ったような気がした。