二話
「お兄ちゃん、起きてよ!」
小鳥がチュンチュンと囀る声が静かな町に響き渡る。
朝日はすでに顔を出しており、暗かった町が薄暗く、そして明るくなっていく。
そんな長閑な朝、一軒の家から少女の甲高い声が聞こえる。
一軒家の一室、少女はそこで困ったように顔を顰め、ムスッと両手を腰に当て仁王立ちしていた。
少女は文句なく、美少女に分類される。
日本人の象徴たる黒髪黒眼。
少女は腰まである長い黒髪を揺らしながら、目の前のベッドに近付く。
目的はただ一つ。寝起きの悪い兄を起こすこと。
色白で細長い腕で布団をはがそうとする。
すると、布団の中からガシッと掴まれ、それは阻まれた。
「まだだ。まだ俺は寝れる! いや、むしろもう少し寝たい!」
「お兄ちゃんの意思に関係なく時間は過ぎてるの! ほら、早く起きないと学校に遅れるよ!」
少女の大きすぎず、かといって小さくもないちょどいい大きさの胸が、未だ布団の中から抜け出そうとしない少年の頭近くで軽く揺れる。
思春期の、少年の年頃であればその所作に興奮を覚えるだろうが、少年はそれに見向きもせずに再び布団にもぐる。
そして、その中からくぐもった声で少女に言う。
「妹よ。今何時だ」
「七時だよ」
「そうか。ならまだ寝れるな。おやす――」
突如、少年の耳元でけたたましいアラームの音が鳴り始めた。
「何で俺のスマホからアラームが鳴るんだ! しかもこんな大音量で!」
少年にとっては予想だにしない出来事。
少年が自分からアラームをかけることなど、一度もない。
にもかかわらず、枕元に置いていた自身のスマホのアラームが大音量で起動した。
突然起きたことに反応できず、もろにそれを受けてしまった少年は一気に目が覚める。
「ふっふーん」
見ると、少女が得意げに微笑んでいた。
「まさか結衣……お前」
少年は結衣のその仕草を見て、全てを察した。
ジト目で睨みつける。
だが、結衣はそれを受けてさらに得意げに笑う。
「お兄ちゃんが朝起きないことは百も承知。私が何の対策もせずに無作為にお兄ちゃんを起こすと……本気で思ってたの?」
「き、貴様……兄のささやかな朝の安寧すらも奪うというのか!」
茶番。その一言に尽きる。
だがこの茶番は兄妹にとってはいつもの事。
兄、望月颯太と妹、望月結衣の変わらない日常の一幕。
口では納得のいかない不満を漏らしながらも、意識は完全に覚醒してしまった。
颯太は仕方なくベッドから起き上がる。
ボサボサの黒髪を右手で掻きながら、あくびをする口元を左手で抑える。
「朝から災難な目に合ったぜ」
「お兄ちゃんがすぐに起きないからダメなんでしょ?」
グチグチと、未だ結衣に文句を言う颯太を、妹たる結衣は正論をもって返す。
その言葉を受けうぐっ……と颯太は行き詰まり、それ以上は何も言わず部屋の外に出ようとする。
「先に、顔洗って髪を整えてきてよ」
その背中に、結衣は投げかける。
分かってるよ……とだけ残して颯太は部屋を出て行った。
「全く、我が妹ながら恐ろしい……」
洗面所で、濡れた顔をタオルで拭きながら愚痴を漏らす颯太。
颯太の頭の中で浮かんでいるのは彼の妹、結衣。
平凡な容姿の颯太とは違い、結衣は誰から見ても美少女。
性格が多少残念なところはあるが、それでもその欠点を補って余りある容姿だと、颯太は贔屓目なしにそう思っている。
だからこそよく言われる。兄妹なのに、似ていないな……と。
似ていなくて当然だ。
颯太は、そう言われるたびに心中でそう思っている。
それは、結衣も同じだ。
似ていなくて当然。何故なら、自分と結衣は血の繋がっていない。
所謂、義理の兄妹という関係なのだから。
義理と言っても、颯太が一才のころに結衣が引き取られた。
それからずっと一緒に暮らしているため、颯太が結衣の事を女として見ることはなく、本当の妹だと思っている。
だが、何故自分の両親が結衣を引き取ったか……それだけは、明かされることはなかった。
気にはなった。だが、深く尋ねることはしなかった。
知る必要のないことだと、そう思ったのだ。
そんな普通の家庭とは一風変わってはいるが、この兄妹は仲がいい。
最近は特にそうだ。
当たり前だろう。
――死んだと思っていた兄が生きて見つかって、甘えない妹がいるだろうか。
そう、望月颯太は死んだと思われていた。
高校に入学し、新生活にも慣れ始めた一年生の夏、突如として失踪したのだ。
年甲斐もなく、学校の友人と森の中に蝉を捕まえに行ったきり、行方不明となった。
一緒に虫を取りに行っていた友達は、十分ほど目を離したらいなくなったと、涙ながらに警察に語った。
森とはいえ、それほど大きくはない。
警察は事件性が高いという方向で捜査した。
しかし、何ヶ月経っても見つからない。
そして、颯太の失踪事件から一年が経ち、捜査に打ち切りのにおいが漂い始めたころ、発見された。
遠く離れた地でも、海底でも、山奥でもない。
望月家の、家の前で発見されたのだ。
望月家の門の前。その道路で倒れているところを、買い物から帰宅した母親に発見された。
衣服は全く汚れていなかった。
栄養失調の様子もなく、母親は嬉し涙を流しながら家族に連絡、そして警察に伝えられることとなった。
だが、病院についてからが問題だった。
発見から三時間が経っても目覚めず、仕方なく外傷がないかを調べるために身に着けている衣服を脱がした。
すると、その下にあったのは傷だらけの肌。
切り傷など、数えることすら敵わない。
剣に斬られたような傷が体中に点在していた。
そこから、大人たちが導き出すものはただ一つ。
だからこそ、意識を取り戻した颯太に対して周りの大人たちが過剰なまでに明るく接した。
それを、颯太は少なからず嫌悪した。
本来なら、一年ぶりに家族に会えたことに対する喜びが上回るはずだ。
だが、颯太にはこの一年の記憶がなかった。
颯太からすれば、親が急に態度を変えた、そう感じるだけなのだ。
だが、そんなことも二か月ほど経ってかなり落ち着いてきた。
数週間前からは学校にも通い始めている。
「だー、目が覚めた。これで授業中寝ることはないだろう。……いや、寝るな」
顔の水気を完全にタオルで取り切った颯太は、結衣に聞かれたら殴られそうなことを呟く。
聞かれていないとしても、颯太は結衣と同じ教室なのだ……寝ているところを見て、怒られるに決まっている。
兄妹でなぜ教室が、学年が同じなのか。
双子ではない。
ただたんに、出席日数が足りず留年しただけの事。
「んーと、ネクタイネクタイ」
自室に戻るとすでに結衣の姿はなく、代わりに階段を上がるときにダイニングからいい匂いが鼻孔をくすぐる。
その匂いを吸い込みながら自室に入った颯太は、制服を取り出し、着替えだした。
季節は秋だが、すでに制服は冬服に移行しつつある。
制服は至って普通のブレザー。
紺色の上着と同色のズボン。
ネクタイは紺と緑が混ざっているだけのシンプルな物。
だがいかんせん、このネクタイが厄介なのだ。
いつもつけるのに手間取る。
そして最終的には――
「結衣ー、ちょいとネクタイ締めてくれ」
と、なる。
「んー、今朝ごはん運んでるから、ダイニングに来て」
「了解了解」
学校指定のカバンに今日の授業教科を確かめながら教科書、ノート類を入れていく。
尤も、颯太が教科書やノートを使うことはほとんどない。
それが済めば、ベッドに置いてある自分のスマホを手に取り、妹の待つダイニングへと足を運んだ。