一話
少女は、今でもあの時の夢を見る。
自分が、この世で唯一愛した男との別れを。
もう二度と出会うことのない、別れの時のことを……。
夜だった。夜空一面に広がる星々が爛々と光る、そんな夜だった。
昨日、そして今日まで続いている祭り。
きっとこの祭りは、この後何日も続くだろう。
何故なら、魔王が滅びた……人類ならば誰もが待ち望んだことが起きたのだから。
いや、滅びたという表現は間違っている。
魔王は滅びたのではない、一人の男によって滅ぼされたのだ。
魔王と相対する存在、自分がこの世に呼んだ。
そして、自分が愛した男……勇者によって。
「やっぱりあなたにはその服が一番似合ってるわね。何と言えばいいのかしら……着慣れている感じがするわ」
「それはそうだろ。俺がこの世界に来るまでほぼ毎日着てたんだからな。こういう服を」
そこは、木々が生い茂る森の中。そこで少しだけ開けた空間。
少女と、少年はそこにいた。
「俺としても、この服が一番落ち着くな」
少年はそう言いながら自分の服を見る。
少年の服装はいたって普通。
Tシャツとジーパンに身を包んだだけ。
少しボサボサしている黒髪を右手で少し掻きながら、その黒い眼で目の前の少女を見る。
「ふふ。やっぱり、慣れかしら?」
対して少女は、普通ではない。
一国のお姫様のようなドレスに身を包んでいる。
その髪色も、少年の黒髪とは打って変わって煌めく金色の髪。
サラサラと、その髪を森から抜けてくる風になびかせると、星の光によってキラキラと光を放つ。
「まあ、そうだな。と言っても、こっちの世界にもようやく慣れてきたところなんだよな」
「あら? それならいっそのこと、このままここに住めばいいじゃない?」
「冗談をいうな……よ」
冗談を言うなよ。
そう言おうとした少年は、少女の綺麗な碧眼に涙が溜まっているのに気付き、尻すぼみになる。
「あなたなら……魔王を倒し、人々を救った勇者たるあなたなら、この世界に住む誰もが歓迎するわ。だから――」
「いや、それは出来ない」
ここにいて……そう言おうとした少女の声を遮るように、少年は言う。
「向こうの世界には、俺を待っている人がいる」
あくまで真摯に、真剣に少女を見つめながら言う。
それを受け、少女は右手で目にたまった涙をふく。
「そうよね。ごめんなさい、変なことを言ったわ」
「別に、変なことじゃないだろ。俺だって、この世界にいたいとは思っている。向こうの世界の事なんて忘れて、この世界にずっと住みたいってな」
だがな……と、少年は続ける。
「俺は、本来ならこの世界にいない人間だ。この世界に呼ばれたのはイレギュラー、一時の夢。忘れるべきものだ。だからこそ俺はこの世界にいたらだめだ。お前たちはただ、魔王のいない平和な日々を、希望に満ち溢れた明日を……ただただ過ごせばいい。」
そう言いながら、少年は夜空を見上げる。
見たくはなかった。自分の語った言葉で、少女が目に涙を溜めるのを。
悲しげな顔をするのを。
だが、語ることはやめない。
もう別れるのだ。言い残して悔やむことだけはしたくなかった。
「俺のことは忘れろ。あいつらにもそう言っておいてくれ。俺はこの世界にいなかった。それで済む」
パシッ!
静かな森に、音が響く。
少年はしばし呆然としていた。
右頬が熱を帯びている。痛い。
少女に右頬を平手打ちされたのだ。
今まで一年の間、ふざけて叩かれることはあった。
だが、この痛みはそれらとは別物。
初めて本気で叩かれた。一年の間で初めて、それも別れの日に。
「――っ!」
何するんだよ……少年はそう思いながら少女を見た。
だが、それを言葉にしようとして息を詰まらせた。
泣いていたのだ。少女が目の前で泣いているのだ。
嗚咽を漏らしながら、地面に涙をぽたぽたと落としている。
幾度となく、目に涙を溜めることは見てきた。
だが、それでも涙を流すことはなかった。
だからこそ、少年はうろたえたのだ。
初めて流した少女の涙にたじろぎ、困惑した。
そして、かける言葉が思いつかなかった。
それ故に、自分からは何もできなかった。
「忘れない……」
すると、少女が泣きながらも言葉を紡ぎ始めた。
「例えあなたがこの世界の事を忘れても、例えあなたが私のことを、私たちのことを忘れても……。あなたと関わった人は、死ぬまであなたの事を忘れない!」
「……」
少年は一歩後ずさる。
自分に向かって体を近づけ、必死に語る少女のその所業に気圧されたのだ。
魔王さえも倒した、魔王の気迫を受けてもなお気圧されることなく、果敢に立ち向かった少年が。
「悪い……失言だった。忘れてくれ」
謝罪の言葉は、自然に口から零れていた。
その言葉を受けて少女は目を見開き、はっとした表情をしたのち少年から距離を取った。
「私の方こそ、ごめんなさい……」
右手で左腕を押さえながら、俯く。
しばしの静寂。
すると、それに耐えきれなくなったのか少年が頭をガシガシと掻きながら声をかける。
「と、ところで……本当にこれを貰って行っていいのか?」
余りにも強引な話題転換。
けれど、それ故に少女はクスッと笑い、顔を上げた。
「もちろんよ。それに……」
少年が地面にさしていた剣を右手に取る。
すると、翳りを見せていたその剣は、少年が手に取った瞬間黄金に光った。
「その剣、聖剣ヴァジュラルダもあなたを必要としているわ。魔王がいなくなった今でさえ、あなたを担い手として認めている。自分に存在意義がなくなったことなど、聖剣自身が分かっているはずなのに。もしかしたら、あなたの行く先にヴァジュラルダを使う時があるのかもしれないわよ?」
「笑えない冗談だな。俺の世界にこいつを使う機会が訪れるとは、思わないんだが……」
そう言いながら、少年はマジマジと聖剣を見る。
「ふふ。その剣があなたを認める限り、私たちが持つ理由もないわ。聖剣の担い手はあなた。それは変わることのない不変の事実」
「んなこと言われてもな、俺の世界ではこの剣を持っているだけで捕まるんだが……」
困ったような表情を浮かべながら聖剣を空に掲げる。
「様になってるわね」
「ん、そうか? まあ、こいつとも一年の付き合いだからな」
「その姿をあなたの世界のご家族に見せたら?」
「……すぐさま俺のところに警察が来る」
「警察……ああ、この世界でいう自衛軍のことね? あなたの力を以てすれば、そんな人たちに捕まらず、皆殺しにできるでしょ?」
「……おい、お前は俺に何を求めてるんだ? こっちの世界では勇者になって、向こうの世界では魔王になれってか? 笑えねえよ!」
「冗談よ」
「……冗談じゃなかったなら、さらに笑えねえよ」
少年は天に掲げていた剣を降ろす。
そして、苦笑いしながらため息をついた。
「まじめな話をすると、この世界で得た記憶も、あなたがここで手に入れた力も封印するわよ」
「記憶も……か。そうすると、お前たちの事も忘れるのか」
「そうね。でも、さっきも言ったけど、私たちは絶対に未来永劫あなたの事を忘れない!」
「――っ! ああ、そうか。そうだよな……」
少年は天を見る。頬が緩み、口角が上がっている。
とても穏やかな微笑み。
それが、少年と彼女たちの絆の深さを物語っているようだった。
再び静寂が訪れる。
少年は無言。
少女も、少年が静かに天を見上げるのを、ただただ黙って見つめる。
終わらしたくない。別れたくない。
少年の胸中で、そんな気持ちが湧き上がる。
この世界に召喚された時は、そんなことはこれっぽっちも思わなかった。
ただただ元の世界に帰りたかった。
こんなことを考えるようになるとは、思うようになるとは予想だにしなかった。
だが、やはり別れたくない。
元の世界などなかったのだ……そう思いたい。
この世界にいてもいいじゃないか。彼女たちとともに生きることに何の不満があるというのか。
しかし、そう思うと同時に瞼の裏には家族たちの姿が映る。
妹、母、父……そして友人。
彼女たちと、元の世界の家族や友人。
どちらが大切か、どちらを選び、残りの人生を共に歩み、生きたいか。
選ぶことはできない。だからこそ、少年はこう言い訳をするのだ。
自分は、本来この世界にいない人間。ここで得た記憶も、彼女たちと過ごした日々でさえ、ひと時の夢だったのだと。
忘れてしまえばいい。ただの夢だと、忘れてしまえばいい。
だが、そう思うにはあまりにも得たものが大きすぎた。
彼女たちを大切に思う気持ちが、募り過ぎた。
彼女たちと築いてきた一年間が、夢物語だったなどと思い、忘れたくはない。
――だからこそ、少女はその記憶までも封印しようとしたのだ。
少年の力を封印するだけでいい。何も、記憶まで封印する必要はない。
だが、少女は少年のその苦悩を分かっているのだ。理解していたのだ。
理解できるほどまでに、少年と少女の絆は確固たるものになっていた。
少年は、その封印によってこの世界の事を、自分たちの事を忘れる。
だが、だからこそ自分たちは少年の事を忘れない。
それが、苦難の道になるだろう。
今後、少年の事を思い出し、涙するだろう。
だが、決して忘れない。
自分が初めて愛した男の事を、忘れられるはずがない。
「……俺はさ、お前と、お前たちと出会えて本当によかったと思ってる」
「私もよ。あなたと出会えて、あなたが勇者で本当によかった」
少女と少年は、目をそらすことなく互いに見つめ合う。
不意に、少年は左手の人差指に黄金の魔力を灯し、縦に振る。
すると、その空間に切れ目ができ、傍から見れば黒い空間が現れる。
そこに聖剣ヴァジュラルダを入れると、自然にその空間の裂け目が閉じる。
「全く、そうも簡単に異空間を開くなんて……」
「まあ、これも努力の成果だ。もう俺が、この剣を振るうことはないんだからな。なぜこいつが今でも俺を使用者として認めているのか理解できないがな」
「あら、さっきも言ったじゃない。ヴァジュラルダが、あなたの行く末に自身が使われるかもしれないと、そう感じているのかも知れないと」
「だがらあり得ないって。あの世界にいる限り、そんなことは」
「あの世界にいる限り……ね。もしかしたら、また他の世界に勇者として召喚されるかもしれないわよ?」
「さすがに、短い人生の中で二度も異世界に召喚されるかよ。もしされたとしても、この世界で学んだ魔法でさっさと元の世界に帰るよ」
飄々と、召喚された世界に住む人間は見捨てると言い放つ。
これが勇者のいう事かと、傍から見れば驚き、ある者は怒りを持つだろう。
だが、少年を誰よりも理解している少女は、その言葉を受け優しく微笑み、首を振りながら言う。
「いいえ、あなたはそんなことはできない。あなたは自分で思っているよりも、そして誰よりも優しいのよ」
「俺が? そんなわけないだろ」
納得できない……不満げな表情を浮かべながら反論する少年。
不意に、少年の足元に魔方陣が浮かぶ。
これ以上別れを惜しんでいては、きりがない。
別れ際、少女は少年の漏らした不満げな言葉に返答する。
「あなたは、いつ、どこでも……そこに住まう人々のためにその剣を振るうわ」
「んぐっ――」
少女の言葉に反論しようとした矢先、少年の唇が温かいもので塞がれる。
「おい、何を!」
真っ赤になりながら少女に言う。
見ると、少女も同様に顔を真っ赤にしていた。
そして、それと同時に悲しげに憂いの表情を浮かべる。
「封印よ。これで、あなたは向こうの世界に帰ったらこの世界の事を忘れるわ」
その表情のままそういった少女。
これが本当の別れ。もう二度と交わることのない二人の。
少年が言葉を掛けられずにいると、体が光に包まれ始めた。
「本当にありがとう、ソータ」
「……ああ。俺もお前たちと出会えて本当によかった。じゃあな、エミリー」
全身が光に包まれ意識が朦朧とする中、少年は見た。
少女の唇が動いたのを。最後に、少女が何かを言ったのを。
だが、それは耳に届くことなく意識を失った。
少年が消えたその森で、少女はただただ立ち尽くす。
呆然と、少女を支配するのは虚無。
何故か、涙は出ない。
ただ、自然と口から出ていた。
「全く、私のファーストキスを貰っておきながらこの世界からいなくなるなんて……」
ガサガサと、森から木々をかき分ける音が聞こえる。
少女はそちらを見ると、見知った顔だった。
彼女たちは、皆少年を慕い、その人柄に惹かれその果てに恋に落ちた。
全員が悲しげな、そして泣きそうな表情を浮かべていた。
森に、嗚咽が響き始めた。
誰かが耐え切れなくなり、泣いたのだ。
それからは、堰を切ったように……嗚咽は大きくなる。
勇者ソータがこの世界を去った。
それはすぐさま国中に、そして世界中に広まった。
ソータが去ったその日を世界統合の祝日とし、毎年勇者ソータに感謝する。
希望に満ちた明日を迎えられることを。
自分たちのために戦ってくれた勇者に。
そして、その日とある森に数人の女性が訪れる。
だが、その中に一人、欠けている人物がいた。
誰よりも勇者ソータの近くにいた、親しかった少女。
ソータをこの世界に召喚した、エミリー。
彼女はこの世界にはもういない。
この世界には……。
少年と少女が再び邂逅する日は、そう遠くない。