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哲学理論はミステリを解けるか?(連作作品集)  作者: 黄黒真直
第一章 疑いの眼差し(中編ミステリ)
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7. 確かなことは?

 図書準備室に戻るころには、僕らは再び、シリアスモードに戻っていた。僕は指定席に座ると、ホワイトボードを見上げた。オッカムから聞いた内容が、箇条書きで書かれている。

「犯人は屈強な人物か」と僕。「アッシリア先生犯人説は、捨てるべきかな?」

 デカルトを振り見る。ツインテールの少女は、難しい顔でマフラーに顔をうずめていた。

「犯人は複数という可能性もある」

 デカルトはおもむろに立ち上がると、ホワイトボードの前に立った。マーカーのキャップを取る。

「犯人について、今わかっていることをまとめてみましょう。まず、何がある?」

「犯人は屈強。あと、この事件は計画的犯行」

 デカルトはうなずいて、ホワイトボードに書き記す。僕の字より一回り小さい、丁寧な字だ。ただ、垂直な面に文字を書くことに慣れていないのか、線の引き方がぎこちなかった。

「それから」僕はもう一つ言った。「さっきのオッカムの証言で、犯人はこの部屋にこっそり忍び込んでいたことが、わかったな?」

 犯人は書庫の整理の予定を知っていたと考えられるが、そのための方法は、この部屋に忍び込むか、僕らから聞き出すか、部屋の外で盗み聞きするかしかない。しかし、部屋の声は外に漏れず、僕らの誰も予定を話したことがない以上、この部屋に忍び込んだことになる。

「それはどうかな……」デカルトが疑問を呈した。「オッカムちゃんやティヌスちゃんが、話したことを忘れている可能性もある。わたしだって、忘れてるかもしれない」

 そこまで疑うか。

「それに忍び込んだとすると、犯人は『司書室に鍵がある』ってことも知ってることになるわよね? わたしはそこが引っかかるんだけど……」

「その点は不思議じゃないと思うよ。僕らは毎日鍵を司書室に取りに行ってるんだから、図書室の常連なら多分、みんな知ってるんじゃないかな」

 壁に耳あり障子に目あり。自分の行動は、意外にも多くの人に目撃されているものである。

 僕が言うと、デカルトは「そっか」と納得したようだ。

「あとは……」と僕。「たぶん、ここの一階の女子トイレが、個室一個だけってのも知ってたんじゃないかな? もし個室が複数あるトイレだったら、オッカム以外の誰かがいてもおかしくない。そんな危険な状況で催眠スプレーなんて使うかな」

「誘拐そのものが、既にリスキーだけどね。でも、そうね。知っていたとしか思えないような、大胆な行動ね」

 それからデカルトは記憶をたどり、

「今更だけど、犯人は『Confessio』の中身を知らなかったんだよね」

 結局、まとめるとこんなところであった。

「犯人は屈強」「犯行は計画的」「書庫の整理の予定を知っていた」「↑つまり図書準備室に忍び込んだ(?)」「↑つまり鍵が司書室にあることを知っている」「催眠スプレーを所持している」「個室が一つしかないことを知っている」「Confessioの正体を知らない」

 僕らはしばし、黙って箇条書きを見つめていた。それから唐突に、デカルトが「あっ」と言って、さらに一行書き加えた。

「会議の内容を、ホワイトボードにまとめていることを知っている」

 どういうことだ?

 僕が首を傾げると、デカルトは説明を始めた。

「仮に、犯人はここに忍び込んだのだとする。でも、そもそもどうして忍び込もうとしたんだと思う?」

「そりゃぁ……僕らの予定を知ろうとしたから、じゃないか?」

 答えてから、僕も「あっ」と気が付いた。

「そうか! 犯人は、『この部屋に忍び込めば、僕らの予定を知ることが出来る』と知っていたのか!」

「うん」デカルトは頷いた。「会議の内容をいちいち板書して、しかもそれを消さずに帰宅する。そのことを、犯人は知っていたのよ」

「なるほど……」

 僕は感心して、デカルトを見た。

 そのときふと、何かが引っかかった。何かおかしい気がする。

 デカルトが、真剣な顔をして僕を見つめ返してきた。

「……気が付いた?」

「うん……犯人は随分と、僕らの内情に詳しいんだな?」

 そもそも、僕、デカルト、オッカムの三人が「図書委員長補佐」という肩書きであることを知っている人間だって、そんなに多くないはずだ。図書委員の中には、図書委員長が誰かを知らない奴だっている。図書委員は他の委員会と異なり、委員全員が集まる機会がないからだ。この部屋に集まっていることを知っていても、ただの部活動だと思っている人間だって多いだろう。

「そう考えるとね、フィル君。今回の事件の最有力容疑者は、わたし達の内情に精通している人物……つまり、わたし達自身なのよ」

 なんてことだ。

 だけどそれなら、容疑者が二百人から、一気に五人にまで減る。被害者のオッカムを除けば四人だ。僕と、デカルトと、委員長と、そしてアッシリア先生。

「さっき、オッカムちゃんを保健室まで連れて行ったよね? 実はそれも、『もしかしたらティヌスちゃんが犯人かもしれない』と思ったから」

「え?」

「もし『犯人』の目的がまだ達成されてないのなら、ティヌスちゃんとオッカムちゃんを2人きりにさせるのは危険でしょう? いまは保健室で二人きりだけど、一応茂木先生もいるし、大丈夫かなと思って戻ってきたけど……」

「…………」

 僕は金魚みたいになった。

「お前、その可能性にいつ気付いた?」

「いつっていうか……最初から、その可能性も考慮してたよ。それに、オッカムちゃんが誘拐されたとき、オッカムちゃんと最後まで一緒にいたのはティヌスちゃんだった。とすれば、真っ先に疑うべきはティヌスちゃんよね?」

「だけど、デカルト。お前は書庫で狼狽してる委員長を、一生懸命落ち着かせてたじゃないか」

「そりゃそうよ。ティヌスちゃんが演技をしているようには、とても見えなかったし、それに……」

 デカルトは真剣な目で、僕を見た。

「出来ればわたしも、疑いたくなかったもの」

 その瞳には一切の曇りが無く、デカルトの言葉が本心であることを裏付けていた。デカルトはさらにまくし立てた。

「疑って、もし間違ってたら? しかも、オッカムちゃんが殺されたら? 罪悪感で、もう学園に来れないでしょ」

 こいつは、僕なんかよりもずっと、友達思いな女の子だ。オッカムが誘拐された次の日。朝弱いくせに朝早くから登校して、学園を調べまわっていた。だから、友達を疑うなんて事は、論理的に必要だとわかっていても、感情的に許容できなかったのだろう。

「……あれ、だけどお前、オッカムが誘拐された次の日、僕に向かって『犯人はあなたです』とか言ってなかったか?」

「あれは冗談だもん。それに、フィル君は犯人じゃないって、あの時点で確信してたし」

「どうして?」

「ふぇっ!?」

 何気なく問い返したつもりだったが、デカルトは目を丸くして、三ミリくらい体を浮き上がらせた。しかも、見る見るうちに顔が赤くなっていく。マーカーを持っている右手が、「μ」を書くように宙を彷徨った。

「そ、それは、ほら、あれよ。フィル君、気が小さいじゃない」

「ひどいこと言うな」

 憮然として答えると、

「あ、そうじゃなくて、えっと~……そう、アリバイ! フィル君には、完璧で鉄壁なアリバイがあったじゃない!」

「アリバイ?」

 あったっけ? 僕が聞き返すと、デカルトは落ち着きを取り戻して答えた。

「あったよ。オッカムちゃんが誘拐された日、フィル君はティヌスちゃんより先に図書準備室に来た。そこには既にわたしがいて、ティヌスちゃんが来るまでずっと二人でいた。タイミング的に考えて、オッカムちゃんを誘拐した犯人は、ティヌスちゃんより後にしか、この部屋に来れないはずよ。だからフィル君は、犯人じゃない。もちろん、わたしでもない」

 なるほど。

「とすると、容疑者は残り二人だな」

 委員長か、アッシリア先生か。

「いいえ」デカルトは首を振った。「三人よ。ティヌスちゃんと、アッシリア先生と、そしてオッカムちゃん」

「え? オッカムは外していいだろ」

「どうかな? オッカムちゃんが犯人ではないという確たる証拠がない以上、オッカムちゃんも容疑者の一人よ」

 友達思いなのに、どこまでも疑り深い。その矛盾した考え方はどこから来るのか。僕が尋ねると、デカルトは首を振って答えた。

「矛盾してないよ。むしろ、相手を疑う人ほど、相手のことを思っていると、わたしは考える」

「なんでだ?」

 デカルトは少し考えてから、口を開いた。

「例えばさ、フィル君に彼女がいるとするでしょ?」

「うん」

「……いるの?」

「いやいないけど」

 探るような、というより疑うような目で、デカルトが僕を見た。ちなみに僕は、彼女いない暦=年齢である。

「とりあえず、いるとするでしょ? で、その彼女が、何かに思い悩んでいたとします。フィル君は何か悩みがあるなら相談してと、彼女に言います。だけど彼女は、『ありがとう、でも一人で大丈夫だよ』と言いました。さてフィル君はどうしますか」

「言われたとおり、一人にする」

 即答すると、デカルトは妙に悲しそうな顔をした。

「うん、だから、そこを疑おうよって話だよ。相手の言ったことをそのまま信じるって言うのはね、逆に相手のことを何も考えてないってことなの。相手を疑い、本心を探ることで、初めて相手が本当にして欲しいと思っていることを、見抜けるでしょ?」

 たとえ話はよくわからなかったが、その理屈はなんとなく理解できた。確かに、「相手を疑う」ということは「相手のことを考える」ということだ。少なくとも、疑っている間は、相手のことが自分の頭を占めているわけだし。それに人は、いつだって本心を口にするわけではないだろう。だから相手の言葉を疑わないと、相手の心も見抜けない。

「ちょっと論点をずらすけど」とデカルトが続けた。「そもそもわたしは、『疑い』こそが存在の本質だと思ってるの。わたし達は疑わずして、この世に存在し得ないのよ」

「……はい?」

 今度の言葉は、まるで意味不明だった。デカルトは慌てて、

「あ、はっきり言って、さっきの話とも、今回の事件とも、全く関係のない話だけどね?」

 と付け加えてから、説明を始めた。

「ねぇ、フィル君。わたし達の身の回りで、絶対確実に確かなことって、何があると思う?」

「確かなこと?」

 問われて、僕はデカルトの口癖を思い出した。確かなことは、一つだけ。

「なんだろう……僕自身が、実際に五感で体感したこと、かな」

「ううん」とデカルトは首を振った。「それだって、確かとは言えないわ。有名な錯視はいくらでもあるし、プリンに醤油をかけただけでウニの味を感じる。それに相手の言葉を聞き間違えた経験くらい、フィル君にもあるでしょ?」

「……まぁ、確かに」

 僕が渋々認めると、デカルトは嬉しそうに続けた。

「でしょ? つまり、いくら五感で体感したって、それが本当だとは限らない。もしかしたらわたし達は催眠術にかかっているのかもしれない。本当は全部、夢かもしれない」

 その類の話は、聞いたことがある。「胡蝶の夢」という有名な故事もある。ある男が、蝶々になる夢を見た。その夢があまりにもリアルだったため、目が覚めた男は、もしかしたら自分は本当は蝶々で、人間になる夢を見ているだけなんじゃないだろうか、と思ってしまう話だ。

「すると、確かなことは、何かしら?」

「いまの話から考えると、感覚とは切り離されたものだよね。数学とか論理とか?」

「それも不確か。だって、それらが確かに正しいって、どうしてわかるの?」

「いや、だって……正しいよ」

 これが説明になっていないことぐらい、僕でもわかる。デカルトは少し間を空けたあと、

「フィル君、この間の数学の試験、何点だった?」

「え?」何故そんなことを聞く。「六十点だけど」

「その中に、『解答を出したけど、間違っていた問題』は、あった?」

「あったよ」

 むしろ、そういう問題ばかりだ。数学は、途中計算のどこか一箇所でも間違うとアウトなので、解答者側にかなり不利な教科だと思う。

「と言うことは、フィル君には自分の解答が正しいかどうかすら、判断する能力がないって事よね? そんな人に、数学や論理が絶対正しいって、どうして言い切れるの?」

 う……そこを突かれると痛い。

「でも、それは『僕』だからであって、ほかのもっと頭のいい人なら、言い切れるんじゃないのかな?」

「だけど、フィル君にはその人の判断が正しいって、言い切れないでしょ?」

「…………」

 僕は黙り込んだ。それに、相手が言ったことをそのまま信じちゃダメだと、いまさっき結論したばかりではないか。

「じゃあ、絶対確実に確かなことって、なにさ?」

「確かなことは、ただ一つ」デカルトは楽しげに、指を一本立てた。「それは、『疑う』という行為の存在よ」

 僕はまた、黙り込んだ。目を白黒させて、説明の続きを待つ。

「自身の五感すら信じられないのであれば、どんなものにも疑いの余地がある。だけど、いま、何者かが、何かを疑っているということには、疑いの余地がない」

「そうか?」

 と僕はデカルトの言葉を疑って、それから得心した。

 なるほど。「疑う」という行為の存在を疑うのなら、それは「疑う」という行為が存在することになる。一方疑わないのなら、それは「疑う」という行為の存在を認めることになる。どちらにしても、「疑う」という行為の存在だけは、疑いの余地がない。

 デカルトはにこりと微笑んでから、頷いた。

「わかったみたいね。つまりわたし達は、何かを疑っているときだけ、自分の存在を証明できる。わたしはこれを、『我思う、故に我あり』と呼んでいる」

「名言みたいだね」

 僕は少し笑った。デカルトも釣られてくすくす笑った。

「その名言を借りると」と僕。「さっきの『相手を疑え』って話は、『我思う、故に彼あり』と言えるね」

「そうね」

 デカルトは言い、そして笑みを引っ込めた。振り返って、ホワイトボードを見つめる。

「それじゃ、その“彼”を見つけ出しましょうか」

「でも、どうやって見つけるんだ?」

「まず『確かなこと』を据え、そこから論理的に考える」

「じゃあ、その『確かなこと』ってのは?」

 デカルトは、すべてを疑っている。委員長も、アッシリア先生も、オッカムも。

 誰も彼も疑った上で得られる、確かなこととは?

「それは、もちろん――」

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