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哲学理論はミステリを解けるか?(連作作品集)  作者: 黄黒真直
第一章 疑いの眼差し(中編ミステリ)
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6. 事情聴取

 図書準備室に戻ると、オッカムはすぐに剃刀を見つけ、持ち上げた。それを大事そうに抱えて、いつもの指定席に座る。

 この一日と約半日、オッカムは確かにいなかった。しかし、いまここに座っている、剃刀を抱えたポニーテールを見ていると、そんな事実はなかったかのように思える。まるでこれから、書庫の整理に向かうような気すらしてくる。

 だが、事実は異なるのである。

 委員長がカーテンを開けて、僕の目の前に座った。デカルトはそれを見届けると、机に両手を置いて言った。

「オッカムちゃんが帰ってきた。だから今度は、こっちが仕掛ける番。犯人を見つけ出すわよ」

「無意味」

 威勢のいいデカルトの言葉を、オッカムが一言で切り捨てた。

「私は無事。それで十分」

「それじゃダメよ、オッカムちゃん!」デカルトが立ち上がって言う。「オッカムちゃんは知らないだろうけど、犯人はティヌスちゃんの本を要求してたのよ!?」

「だから?」

「なのに、犯人はその本を返してきた……これじゃ犯人は、何のためにオッカムちゃんを誘拐したのか、わからないじゃない」

「本の内容をコピーした」オッカムが淡々と答える。「だから本そのものが不要になり、返却した」

「それはあり得ない」

 デカルトは首を振り、自分の推理を話し出した。デカルトが話したのは、オッカムが誘拐された日の帰りに、僕が聞いた推理だった。犯人の目的が「Confessio」ならば、オッカムを誘拐する必要がない。よってオッカムを誘拐した以上、犯人の目的は「Confessio」ではない。オッカムとともに「Confessio」が返ってきたことは、犯人の目的が本でないことを裏付ける証拠だと、デカルトは主張した。

「つまり、犯人の目的が達せられているのかどうかわからない以上、オッカムちゃんはまだ危険、と言うことよ!」

「誘拐は終わった。誘拐犯の目的はもう達せられたと考えられるべき。達せられていないのならば、私を返すはずがない」

「だけど……」

 言いかけるデカルトを、僕は手で制した。それから、オッカムに向き直って聞く。

「なぁ、オッカム。もしかしてお前、犯人を捜すのが、怖いのか?」

 そのときのオッカムの表情は、いままで見たことのないものだった。

 鋭い目つきをさらに険しくし、机の隅を睨みつけた。唇を真一文字に結ぶ。剃刀を握る両手に力がこもり、刃先が細かく震えていた。

 デカルトが目を丸くして、それから眉根を下げた。

「あ、あの、オッカムちゃん。ごめんなさい、その……」

 オッカムは鋭い目つきのまま、誰とも視線を合わせようとしなかった。ただ机の一点を、じっと睨み付けている。

「ねえ、オッカムちゃん」

 委員長が囁くように言った。それからゆっくりと、オッカムを優しく抱き寄せた。

「誘拐されて、怖かったのはわかる。犯人を暴くのを恐れる気持ちも。でも、だからこそ、犯人を見つけ出さないと、オッカムちゃんはいつまでも、未知の犯人に怯え続けることになるわよ?」

 その通りだ。オッカムは、誘拐犯の目的がもう達せられたと主張した。だが、本心ではどう思っているか。誘拐犯に、また何かされるのではないかと、怯えているのではないか?

「だから教えて、オッカムちゃん。誘拐されてから、さっき屋上で再会するまでのこと。犯人につながる手がかりを、少しでも教えて。デカルトちゃんなら、きっと犯人を見つけ出してくれるわ」

 デカルトは、ミステリが好きだ。そして頭も良い。他人の直前の行動を言い当てたり、誰かさんの持つ本の正体を見抜いたりする。デカルトなら、犯人を見つけ出せるかもしれない。僕もそう期待を込めて、デカルトを見た。

「……わかった」オッカムが小さく答えた。「説明する」

「ありがとう」

 委員長がオッカムから離れる。離れる間際、頭をひと撫で。オッカムの方が背も高いし男っぽいが、案外委員長の方がしっかり者で、気も強いのかもしれない。少なくともいまの二人は、委員長の方が保護者のようだった。

「じゃあ、フィル君!」デカルトが僕を指差した。「オッカムちゃんの証言を、板書して!」

「わかった」

 僕は立ち上がった。書庫の整理の予定を消してマーカーを取り、オッカムの言葉を待った。

「オッカムちゃん」とデカルト。「まずは、誘拐されたときの状況を説明して。ティヌスちゃんと別れて、トイレに入ったのよね?」

 オッカムは無言で頷く。

「トイレに入っていたら、上からシュー、と言う音がした」

「シューって……スプレーみたいな音ってこと?」

 再び、無言で頷く。

「気になって上を向いたら、突然意識が朦朧として……気が付いたら、目隠しと猿ぐつわをされ、両手両足を縛られていた」

 クロロホルム的な何かを吸わされたってことか!? あまりと言えばあまりの誘拐方法に、僕は一瞬、空恐ろしいものを感じた。

 とにかく板書しよう。「トイレの個室で意識がもうろう」。ついでに言えば「する前」だったのか「した後」だったのか気になったが、ここでそんなことを聞いたらひんしゅくを買うのは目に見えているので、自重した。

 その代わり、別のことを聞いた。

「一つ聞きたいんだが、オッカム。それは、個室の中だよな?」

 オッカムは無表情で頷いたが、デカルトと委員長は汚らわしいものを見る目で僕を見た。深読みのし過ぎだと思う。

「なら、扉に鍵がかかってたはずだ。お前を眠らせた後、犯人はどうやってお前を誘拐したんだ?」

「私は鍵をかけないから問題ない」

「……いや、かけろよ」

 僕が突っ込むと、

「無駄」

「でも、誰か入ってきたらどうするんだ?」

「どうせ女子しか入ってこない」

 誘拐犯が入ってきたのだが。それに、相手が女子でも、見られたら恥ずかしいんじゃないのか? オッカムは無駄なことが嫌いらしいが、どうも彼女の「無駄」の基準は、僕らのそれと微妙にズレている気がする。

「そうねぇ」と委員長がおっとり付け加える。「トイレの個室のドアは、鍵をかけないと勝手に開いちゃうものも多いけど、あそこのトイレはそうじゃないから、かける必要ないかもしれないわねぇ」

「手を離すと、独りでに閉まるってことですか?」

「ええ」

 すると、今度は別の疑問が生まれる。

「なら、犯人はどうやって、オッカムが入ってる個室を特定したんでしょう? どこか、覗き込める隙間でもあるんですか?」

 僕が聞くと、三人は一様にぽかんとした。数瞬後、デカルトが「あ、そっか」と言った。

「フィル君は知らないよね。ここの一階のトイレ、個室が一個しかないの。廊下のドアを開けると、洗面台と個室のドアがあるってわけ」

 なるほど。それならおかしな点は一つもない。僕は先ほどの行の下に、新たに書き加えた。「↑個室は一つ。鍵はかけなかった」

 他に質問もないようなので、デカルトがオッカムに先を促した。

「それで? 縛られて、目隠しと猿ぐつわをされて、それからどうなったの?」

「わからない」オッカムは首を振った。「どこかのベッドに寝かされていた」

「どこかのベッド?」

 目隠しをされていたから、自分がどこにいたのか、わからなかったようだ。デカルトは唸った後、

「でも、耳は聞こえてたんでしょ? 何か、音がしなかった?」

 オッカムはしばらく記憶を辿っていたが、「静かだった」とだけ答えた。

「丸一日と半日、誘拐されてたわけだけど」僕は聞いた。「その間、食事とかトイレとかはどうしてたんだ?」

 またデカルトが、汚らわしいものを見る目で僕を見た。だから、深読みのし過ぎだと思う。オッカムは気にする様子なく、淡々と答えた。

「時々誰かが、私の口に水とサンドウィッチを突っ込んできた」

「その『誰か』について、何か覚えてることはない?」

「……」オッカムは一度瞬きしてから、「何も。『食え』と言ってきたが、声は機械で変えられていた」

 僕は板書した。「水とサンドウィッチをくれた」

「トイレは?」

 と委員長。

「一度、猿ぐつわを外されたときにトイレに行きたいと言ったら、抱きかかえられて、連れて行かれた。それ以降も、同じ」

 手と足を縛られた状態で、用を足したらしい。

「犯人の体格はどうだった?」

「厚着をしていたからよくわからなかったが……」そこでオッカムは、僕を睨んだ。「こいつよりは屈強だった」

「……」

 デカルトと委員長も僕を見る。三人の女の子に見つめられて心が高揚……なんてしない。値踏みされるようにジロジロ見られ、僕は居心地が悪かった。

「私は男の人のことはよく知らないけれど」右頬に指を当てながら委員長。「フィル君は、軟弱な方よねぇ?」

「引きこもってる印象があるもんね」

 デカルトも同調した。こいつら言いたい放題だ。屈辱的な気分で、板書する。「僕(フィル)より屈強」それを見てデカルトがため息を吐いた。

「犯人が男か女かもわからないわけか……」

 いや男だろ、と言いたかったが、何故か言い返せなかった。おかしい、オッカムが話し出す前までは緊張した雰囲気だったはずなのに、いつの間にかリラックスしたムードになっている。

「そのあとは?」

「特に何もなかった。最後に顔に何かを吹き付けられて、意識を失った。気が付いたら、屋上だった」

 そこで僕らと再会した、と。

 結局、オッカムから得られた情報は、誘拐方法と犯人の特徴(男?)の二点だった。たかが二点、されど二点……なのだろうか。ここから何か、犯人につながる重大な手がかりが、得られるのだろうか。

「そうだ、オッカムちゃん」とデカルトが聞いた。「書庫の整理の予定、誰かに話したことある?」

 オッカムは、首を振った。

「誰にも言っていない」

 僕は一応、板書した。


 その後、僕たちはオッカムを保健室へ連れて行くことにした。見たところ元気そうではあったが、精神的に参っている可能性はある。それに丸一日、水とサンドウィッチしか与えられていなかったのだ。お腹も空いているはずである。

 オッカムは「保健室なんて無駄なだけ」と渋っていたが、委員長が放課後まで付き添うことを条件に、承諾した。どうもオッカムは、委員長に傾倒している節がある。

「待てオッカム」図書準備室を出ようとしたとき、僕はオッカムに声をかけた。「その剃刀、持って行く気か? 重いだろ」

 オッカムは、両腕でしっかりと剃刀を抱えていた。僕はそれを受け取ろうと手を伸ばしたが、オッカムはおもちゃを守る駄々っ子のように、僕の腕から逃げた。

「一日ぶりの再会。一緒に寝る」

 マジかっ!? 起きたら、血まみれになっていそうで怖い。デカルトも、引きつった笑みを浮かべながら、

「け、怪我しないように、気をつけてね?」

 と注意した。

 保健室は第二校舎の一階にある。理科室のすぐ目の前だ。この立地は、理科室が一番危険だからなのか、それともただの偶然なのか。

 失礼します、と委員長が保健室の扉を開けると、「いらっしゃい」と保険医の茂木先生が現れた。茂木先生は小柄なデカルトよりさらに小柄だが、天然パーマが頭の体積を十倍以上に膨れ上がらせているので、見た目の身長はデカルトより高い。常にテカテカと笑っている、キュートで好感の持てる先生だ。道中聞いたところでは、オッカムが保健室行きを渋ったのは、この先生が苦手だかららしい。確かにオッカムの性格からして、常に笑っている先生とはウマが合わないだろう。

「おや、四人も揃って、どうしたのかな?」

「この子が」と委員長。「オッカムちゃんが、ちょっと気分が悪いそうで……。実は昨日は、風邪で休んでたんです」

「うんうん、寒いからね。治ったと思っても、ぶり返しちゃったのかもね。ま、入りなよ」

 保健室に入るのは初めてだったが、意外と広々していた。入って右手に、病院の診察室のような空間がある。事務机と、その前に並べられた二脚の丸椅子。その隣には棚があり、薬のビンがずらりと並べられていた。左手にはベッドが三つ。すべて綺麗に整えられていて、寝ている人はいなかった。

 そして、部屋の奥には。

「なんですか、あれ?」

 僕は、放射線の黄色いマークがでかでかと書かれた扉を指差した。

「ん? CTスキャンだよ」

「なんで保健室にCTスキャン!?」

「それはほら、脳の断面図を撮るためだよ。さあ、オッカムちゃんだっけ? 早速スキャンしよう!」

「風邪引いてるだけなんですが!」

「でも」と茂木先生はオッカムを指差した。「彼女は情熱的な眼差しで、私の事を見つめているよ?」

 見てみると、その通りであった。巨大な剃刀をしっかりと握り締め、なんとなく顔を火照らせながら、息を荒げている。その視線は、茂木先生の頭部に注がれていた。オッカムが、喘ぐように言った。

「そのパーマ……」

「ん、何かな?」

「そのパーマ、削ぎ落としたい」

「ええっ!?」茂木先生は両手で頭を押さえると、すごい勢いで後ずさりした。「な、なにを突然言い出すんだい、きみは!?」

「無駄な物は、削ぎ落とすべき」

 薙刀のような剃刀を上段に構え、オッカムはゆっくりと茂木先生に歩み寄った。先生は頭を押さえたまま、振るえて縮こまっている。

「ダメよオッカムちゃん!」二人の間に、デカルトが割り込んだ。「この頭は、先生の身長を伸ばすためにあるんだから、無駄じゃないわ!」

「うん、何気にひどいこと言うね、きみ」

 もしかしてオッカムがこの先生を苦手としているのは、「削ぎ落としたい」という衝動を抑えなくてはいけないからだろうか?

 その後、委員長がオッカムを落ち着かせ、ベッドに寝かしつけた。茂木先生はオッカムに怯え、CTスキャンは諦めたようである。

 僕とデカルトは保健室を後にして、図書準備室に戻った。

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