25. 共鳴する哲学
「あれ、まだいたんだ」
五時間目が終わった頃、デカルトは生徒会室の前に戻って来た。フィルがやれやれと首を振りながら、
「密室トリックはさっぱりだけどね」
と答えた。
「委員長が、何度か扉越しに質問して、室内の様子を把握はしたけど……」
「ふぅん? そのティヌスちゃんは、いまどこに?」
生徒会室の前に、アウグスティヌスの姿は無かった。ついでにオッカムもいない。
「中世組は、次は授業だって」
残っているのは、古代組のアリストテレスとソクラテス、現代組のソーカル、フィルの四人だった。ソシュールも、飽きてどこかに行ったらしい。
「で、いまは何を話してるの?」
「それもさっぱりなんだ」
フィルがまた首を振った。
目の前の廊下では、数式プリントの服を着たソーカルが、何かを得意気に話していた。瞳をキラキラさせたソクラテスと、仏頂面のアリストテレスが、その様子を眺めている。
「オーバーハウザー効果ってなに??」
「カルノーサイクルにストークスの回転定理を適用したとき、換算質量が動径方向に肥大する現象のことさ」
「カルノーサイクル??」
「配位空間でフェルミ粒子が描く円錐曲線のことさ。母関数がアイソスタシーされることで知られるね」
「配位空間って??」
「トラフの位数がフェルマー素数のときに……」
デカルトは、ソーカルとソクラテスのやり取りを、目を白黒させながら見ていた。傍らのフィルに問いかける。
「あの、何がどうなってあんな話になったの?」
「いや、もう、さっぱり」
完全にお手上げのようだった。アリストテレスは、百科事典を脇に抱えたまま、ソーカルを睨みつけていた。
「ねぇ」ついに痺れを切らしたらしいアリストテレスが、低い声で割って入った。「ソーカルさん、あなたの話、皆目わからないのだけど? というかソクラも、わかってて質問してるの?」
アリストテレスの問いに、
「ううん」
ソクラテスは、即答した。
「わかってないの!?」
「うん!」
笑みを絶やさずに、元気に頷く。アリストテレスは眩暈がした。
「じゃ、じゃあ、どうして質問してるのよ?」
「ごめんね、アリスちゃん。ずっと黙ってたんだけど……」
ソクラテスは、元気に言った。
「これが、あたしの哲学なの!」
「……どういうこと?」
「無知の知って、あたしは呼んでるんだけどね」ソクラテスは得意気だ。「みんな、難しいことを、『自分はこんな難しいこともわかってる!』みたいに、自信満々に喋ってるでしょ? でも、本当にわかってるのかなぁ、ってあたしは思ったの」
そこまで聞いて、アリストテレスはすべてを理解した。つまり……。
「つまり、相手の言葉の意味を次々質問して、相手が本当は何もわかってないってことを、知らしめようとしてるってわけ……?」
「うん!」
そんなことを考えていたなんて。ただの馬鹿な子だと思ってたのに……。アリストテレスの表情が、徐々に陰った。ソクラは、私に隠し事をしていた。もしかしたら、私のことも疑っていたのかもしれない……。
「へぇ」逆に、表情を明るくしたのはソーカルだった。「あたしもだよ」
「うん??」
ソーカルは、いつものにこっとした笑顔ではなく、真剣な表情をしていた。真顔で、ソクラテスの無垢な瞳を覗き込む。
「あたしも、ソクラちゃんと同じ。みんな、本当は何もわかってないんじゃないかなぁ、ってずっと思ってた。単に難解な言葉を連ねてるだけなんじゃないかってね」
「そうなんだ。おんなじだね!」
「うん、でもアプローチの方法は違ったね。ソクラちゃんは質問。あたしは回答」
ソクラテスは、ふえ? と口を半開きにした。
「回答って、どういうこと??」
「ドロマイトが電離層で部分分数分解されるってこと」
その言葉の意味を理解したのは、デカルトだった。
「! まさかっ」
デカルトが、アリストテレスの脇から百科事典を引き抜いた。「ちょっと、なに?」と戸惑うアリストテレスを無視して、デカルトは百科事典を繰った。
「ど、ど……『ドロマイト(苦灰石)。鉱石の一種。主成分は炭酸カルシウムと炭酸マグネシウム』……」
続きは読まず、さらに繰る。
「『電離層。高度約50kmから800kmの間に存在する大気の層』『部分分数分解。数学で、一つ分数を、二つ以上の分数の和で表すこと』」
「全然関係ないじゃない!?」
アリストテレスの憤慨に対し、ソーカルはいつものにこにこ笑顔を浮かべた。よく見れば、その表情は相手を馬鹿にしていた。
「ただデタラメを言ってるだけなのに、みんな、面白いように相槌を打つんだよね。わかってないのに、わかったふりをしてさ。なんでだろうね、ソクラちゃん?」
「ホントだよね。偉そうに喋ってるのに、二、三回質問しただけで、怒り出す人までいるんだよ!」
いつの間にか、二人の仲が急接近していた。アリストテレスは、質問されてもいないのに、怒り狂いそうだった。




