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哲学理論はミステリを解けるか?(連作作品集)  作者: 黄黒真直
最終章 哲学は真理を見抜けるか?(長編ミステリ)
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11. 知は力なり

 図書室のスタンプがあらかた消し終わると、昼休みを告げるチャイムが鳴った。

「もう昼なのか」

 貸し出しカウンターを拭く手を止め、フィルが顔を上げた。急に空腹感を覚える。

「ほとんど消し終わったし、休憩しましょうか」

 図書委員長のアウグスティヌスが、赤い雑巾を手に近付いてきた。

「そうですね」

 フィルはアウグスティヌスと並んで、図書室を出た。司書室で雑巾を洗うと、デカルト、オッカム、そしてソシュールと共に、食堂館である第三校舎に向かう。

 中庭を迂回して、第三校舎へ。途中の遊歩道の左右を彩る花壇にも、「Who Done It?」のスタンプが押されていた。

 第三校舎も同様である。入り口はもちろん、入ってすぐの学生ホールでは、テーブルや椅子、建物を支える柱にまで「Who Done It?」と押されていた。柱の回りには、十人くらいの生徒が群がって、「誰が犯人だ?」と議論していた。

 学生ホールの隅の階段を上り食堂に行くと、食券を買うための券売機や自販機が赤く染まっていた。すべてのパネルに「Who Done It?」と押されている。

「誰がやったのかな?」

 本日何度目になるかわからない台詞を、デカルトが吐く。背後でソシュールが苦笑した。

「そうね。でも私、なんとなく目星が付いたかも」

「え?」

 カキフライ定食のボタンを押しながら、デカルトが振り返った。ソシュールの後ろ、フィルやアウグスティヌス、オッカムも、驚いた表情をしていた。

「犯人がわかったの?」

「簡単よ」

 どれにしようかな、と悩んだ後、ソシュールはとろろ蕎麦の食券を買った。そして、言う。

「犯人はずばり、サルトルちゃんよ」

「サルトルちゃんって……あ、さっきの放送の?」

 三十分くらい前、放送部のバークリーが学内放送を流した。内容はフーダニット事件の最新情報であり、犯行時刻は昨夜十二時から今朝六時までだと推測されていた。

「私も知らなかったけど」とソシュール。「サルトルちゃんは、この学園で生活していた。本人が言っていた通り、犯行時に学園にいたのよ? 一番怪しい人物だわ」

「それだけの理由?」

 麻婆豆腐定食を購入しながら、フィルが言った。

「十分じゃない? それに、サルトルちゃんが学園で生活していることを、警備員さんは知ってたみたいだし。なら、深夜に学園をうろついているところを目撃されても、不審に思われないじゃない」

「そうかもしれないけど……」

 フィルは何か言いたかったが、上手く反論が出て来ない。

「いまのところ、ほかに手がかりもないしなぁ……」

 と、肯定するようなことすら言ってしまう。

「本当に、ほかに手がかりはないのかな?」

 カウンターに繋がる列に並びながら、デカルトが言った。カウンターにも、「Who Done It?」のスタンプが押されていた。

「ほかに手がかりがあるって言うの?」

「わからないけれど、何か引っかかってるのよねぇ……」

「何が引っかかってるのかな?」

 デカルトの前に並んでいた子が、こちらを振り返った。この子は確か……。

「あ、今朝の!」

「現代組のソーカル。よかった、覚えててくれたみたいね」

 ソーカルはにこりと笑った。

「あ、ソーカルちゃん。うぃるー」

「うぃるー」

 ソシュールとソーカルが、挨拶を交わした。デカルトは、今度の言葉は知っていた。「こんにちは」の意味だ。最近流行り出したのだが、おそらく火付け役はソシュールだったのだろう。

「それで、デカルトちゃんは何が引っかかってるのかな?」

「それがわからないんだけど……」

 デカルトは唇を真一文字に結んだ。その様子を見ながら、フィルが口を挟む。

「前みたいに、確かなことから真相を暴けないのか?」

「前?」

 フィルは、以前デカルトが、図書委員長補佐の間で起こったちょっとした事件を解決したことを、ソシュールとソーカルに掻い摘んで説明した。

「へぇ、すごいね、『我思う、故に我あり』って」

 ソーカルは、デカルトの顔をまじまじと見た。フィルがもう一度問う。

「で、どうだ、デカルト。現時点で、フーダニット事件の確かなことは?」

「うーん……」

 お盆に載ったカキフライ定食を運びながら、デカルトが唸る。ちなみにお盆には、スタンプされていなかった。衛生のため、今朝のうちにすべて洗ったと、食堂の入り口に張り紙されていた。

「いまのところ、特に確かなことはないかなぁ……」

 自分が何に引っかかっているのかも、よくわからない。悶々とした不快感が、デカルトを包んだ。

「私も、引っかかってることがあるわ」

 きつねうどんと『Confessio』をお盆に載せて、アウグスティヌスが言った。

「なんだ?」

 とオッカムが言った。ちなみにオッカムは、自炊した弁当箱を左手に持っていた(右手には剃刀を持っていた)。

「図書室の掃除をしていて思ったのだけど、犯人は本棚やテーブルにはスタンプしたのに、本には一切スタンプしていなかったのよ。念のため、何冊か中を調べたけれど、どこにもスタンプはなかったわ。おそらく犯人は、スタンプが消せるところにしか、スタンプしなかったのではないかしら?」

「言われてみれば」とフィル。「職員室の書類なんかも、無事だったって話だな」

「ここから何か、犯人の目的が推し量れそうな気がするのだけれど……」

「でも、消せるところにしかスタンプしない目的って、なんですか?」

 席に座り、フィルが尋ねる。フィルの左隣にデカルト、その左隣にソシュールが座った。フィルの前にはアウグスティヌス。デカルトの前にオッカム、その横にソーカルが座った。

「それがわからないのよねぇ……」

 アウグスティヌスは、困ったように微笑んだ。フィルは隣のデカルトにも視線を送ったが、デカルトも首を振るだけだった。

「あら、貴女方もフーダニット事件を調べているのかしら?」

 そのとき、アウグスティヌスの後ろから、一人の少女が近付いてきた。頭にシルクハットを被り、白いブラウスを着た少女だった。どこか芝居がかった所作で、アウグスティヌスの隣に座る。手には、菓子パンを一個持っていた。

「あ、ベーコンちゃん」

 デカルトはその少女を知っていた。同じ近代組のベーコンだ。「知は力なり」が口癖で、いつも新書や専門書を読んでいるイメージがあった。

「うぃるー、デカルトさん」

 シルクハットを取り、ゆっくりとお辞儀する。またシルクハットを被ると、菓子パンをテーブルにおいて、手を組んだ。

 フィルが、箸を持ったまま尋ねた。

「あなたがた『も』ってことは、君も調べてるの? フーダニット事件」

「ええ」ベーコンは美しく微笑んだ。「それで、ちょっと皆様に、私の考えを聞いていただきたいのですが、よろしいですか?」

 場にいる六人に、ベーコンが目配せした。最後に目があったアウグスティヌスが、「どうぞ」と促した。

「ありがとう。……さて、皆様。今回のこの不思議な事件は、前代未聞の事件だと思い込んでいませんか?」

「どういうこと?」反応したのは、ベーコンから一番離れた席に座るソシュールだった。「過去にも、同じようなことがあったの?」

「ええ。……と言っても、この学園ではありませんし、私も本で読んだだけですが」

 全員、知らなかったようだ。興味津々な顔で、ベーコンを見つめる。

「フーダニット事件と同じような事件が起こったのは、アイルランドのダブリン市です。一七九一年のある日、たった一晩で街中の至るところに『quis』という単語が書かれました」

「クイズ……。ますます、今回の事件に似てるわね。読み手に問いかける感じが」

 ソシュールが感嘆と共に頷いたが、ベーコンは首を左右に振った。

「実は、当時はまだ『quis』という単語が存在していなかったのです。しかしこの事件がきっかけで、『質問をする』『問題を出す』という単語『quis』が生まれた……そういう俗説があるのです」

「へぇ……」

 その場にいた全員が、感心の声を上げた。

「もちろんこれは俗説で、確かな説ではないようですわ。単に、ラテン語の『何』を意味する『quis』が語源だとする説が、一般的です。でも、これはこれで、魅力的な俗説だと思いません?」

 くすくす、とベーコンは淑やかに微笑んだ。

「で」とソーカル。「その事件の真相は?」

「この事件の犯人は、デイリーという男性でした。彼は友人と、『たった一晩で、新しい単語を作り、流行らせられるか?』という賭けをしました。その結果は……もう、おわかりですね? 彼の作ったquisという単語は街中で流行り、今では辞書にも載っています」

「と、言うことは……」

 フィルはあごに手を当てて、考えた。

「この事件の犯人は、『Who Done It?』という言葉を流行らせたかった……?」

「私は、そう思います」

 ベーコンはまた、淑やかに微笑んだ。それから目を細めて、一人の少女を見つめる。

「……そして私の記憶が確かならば、この学園には、流行語を作るのが趣味の子が、いらっしゃいますよね?」

 ベーコンのその台詞に、全員の視線が一人の少女――ベーコンが見つめる少女――に集まった。ベーコンは薄く微笑み、組んだ手の上にあごを乗せた。

「いまや、フーダニット事件は学園中の話題です。流行語と言っても差し支えありません。そう思いませんか、ソシュールさん?」

「え、いや……」

 六人の視線を受け、ソシュールはたじろいだ。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 違うよ、私は……」

「そうよ、ベーコンちゃん」

 慌てるソシュールを、デカルトが弁護した。

「その推理はおかしいわ」

「何故かしら?」

「確かにソシュールちゃんは、流行語を作るのが趣味みたいね。でも、確かなことが一つある。『ソシュールちゃんは、こんな事件を起こさなくとも、流行語を作れる』ってこと」

 フィルが、あ、と言った。

「そうだよ、『めろぅ』も『うぃるー』も、何一つ事件起こることなく、いつの間にかに流行ってた。仮に『Who Done It?』を流行らせたくても、フーダニット事件を起こす必要はない」

 場に沈黙が下りた。

 が、すぐにソーカルが、ふふふ、と笑った。

「面白いね。まるで、半導体がトートロジー的にメルカトルしたみたいだ」

「…………」

 ベーコンは組んでいた手を解くと、シルクハットを取り、深々と頭を下げた。

「申し訳ないわ。間違っていたみたいね」

 それから芝居がかった所作で席を立った。シルクハットを被り、菓子パンを手に取ると、「では、ごきげんよう」と言って歩き去って行った。

「ソーカル」と「ソシュール」の名前が被ってしまった……。

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