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哲学理論はミステリを解けるか?(連作作品集)  作者: 黄黒真直
最終章 哲学は真理を見抜けるか?(長編ミステリ)
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10. アルファ崩壊

「犯人は、警備員さんではないわね」

 バークリーの放送を聞き終わると、アリストテレスが嘆息交じりに言った。せっかく、犯人は警備員かもしれないと思ったのに、反証されてしまった。

「どうして、アリスちゃん??」

 ソクラテスの質問に、アリストテレスは眼鏡を押し上げてから、答えた。

「犯人は、施錠された部屋に侵入しなかった、もしくは出来なかった。警備員さんは、サルトルさんの部屋に鍵がかかっていることを知っていた。つまり、もし犯人が警備員さんならば、サルトルさんの部屋を開けようとするはずが無い。しかし犯人は、サルトルさんの部屋を開けようとした。よって、犯人は警備員さんではない」

「ふむ、うまい論理だね」

「ひゃっ!?」

 突然声をかけられて、アリストテレスはみっともなく飛び上がった。放送の途中でパースがいなくなったので、ここには自分とソクラテスしかいないと、思い込んでいた。

 声をかけてきたのは、妙な数式がプリントされた服を着て、金髪をハーフアップにした少女だった。

「あなた、だぁれ??」

 ソクラテスの問いかけに、数式プリントの少女はにこやかに微笑んで、

「あたしは、現代組のソーカル。あなたは?」

「古代組のソクラ! こっちは、アリスちゃんだよ」

「アリストテレス、とフルネームで紹介してくれると嬉しいわ」

 百科事典を抱え直し、眼鏡をかけ直すと、アリストテレスは理知的な瞳でソーカルを見た。

「こんにちは、ソーカルさん。あなたも、フーダニット事件を調べてるの?」

「うん、色々聞いて回ってるよ。あなたはこの事件、どう見る?」

「全くわからないわ」とアリストテレス。「犯人の目的も、犯人が誰かも」

「へぇ?」ソーカルはにこにこと笑っている。「さっきみたいに、論理を使って、犯人を絞れないの?」

「さっきから考えてはいるのだけれど、情報が少な過ぎて……」

「ねね、ソーカルちゃん!」

 ソクラテスが会話に割り込んできた。瞳をキラキラさせて、ソーカルに詰め寄る。

「ソーカルちゃんは、昨日の夜十二時から今朝六時までの間、どこで何してた??」

 アリバイ調査は無意味だと、さっきパースに教わったばかりなのに、ソクラテスは無視して質問した。ソーカルはにこやかに笑いながら、

「その時間は、家で寝てたよ」

 と答えた。

「それを証明できる人はいる??」

「さぁ? 家族もその時間は、寝てたと思うよ」

 それもそうだろう、とアリストテレスは思った。そんな真夜中にアリバイが証明できる人間が、そうそういるとは思えない。

「ソーカルちゃんはこの事件について、何か考えはないの??」

「そうだね。犯人の目的はおそらく、レプトンをアルファ崩壊させてテラヘルツ波を赤方偏移させることだったんじゃないかな?」

「…………」

 さすがのソクラテスも、しばし呆然とした。こいつは一体、何を言っているのだ?

「レプトンってなに?? アルファ崩壊ってなに?? テラヘルツ波って??」

「レプトンとは、ポアソン方程式の特解が素数に収束するとき、電磁ポテンシャルが対消滅を起こして生成されるグラビトンのことさ」

「えっとえっと、ポアソン方程式ってなに??」

「ポアソン方程式は、ゼータ関数においてゼットが三の倍数のときに生じる内部エネルギー上昇を表す式のこと。ちなみにアルファ崩壊というのは、内部エネルギー上昇に伴うモノポール拡散によってボース粒子が形成される現象のことだね」

「『崩壊』なのに『形成』なの!? どうしてどうして??」

「歴史的事情があるからさ。アルファ崩壊は一見すると、フラーレンがカルビン・ベンソン回路によってチタンに還元される現象に見える。これが崩壊と呼ばれる所以だね」

「へー、へー、へー!」

 ソクラテスの瞳がキラキラ輝きだした。頬が次第に、朱に染まっていく。興奮しているらしい。正直言って、ソクラテスは今のソーカルの話を、一ミリたりとも理解していなかった。ソクラテス自身、全く理解できていないと自覚していた。だが、一つわかったことがある。

 ソーカルちゃんは、あたしの質問に対して、詰まることなくすらすらと答えている!

 こんな子は、今まで一度たりとも出会ったことが無い!

「行くわよ、ソクラ。きりがないわ」

 しかしアリストテレスが、ソクラテスの襟を掴んで引っ張り始めた。

「え~、まだ聞き足りないよ~!」

「こんな事件が、あんな難解な科学理論の実証実験のはずないでしょ?」

「でも~」

 ごねるソクラテスを無理やり引っ張る。いまはソーカルは質問に答えられているが、そのうち答えられなくなる可能性がある。答えられなくなったら、ソクラテスに殴られる。ソクラテスに殴られる人間は、少ない方が良い。よって、この場からソクラテスを引き離した方が良い。

 ……いや、違う。アリストテレスは、ソーカルに対して不快感を覚えていた。なんだか面白くない。出来れば近くにいたくない。このままでは、ソクラを取られてしまいそうな……。

〔って、別にソクラは私の物じゃないんだから、取られるも何も無いじゃないの!〕

 いったい私は何を考えているんだ。不意に浮かんだ気持ちを否定するように、アリストテレスはソクラテスの襟を放した。

「いたっ」

 急に支えを失ったソクラテスが尻餅をついた。スカートの埃を払いながら立ち上がり、アリストテレスの後を追い始める。

「ところでアリスちゃん。どこに向かってるの??」

「さあ、どこに行けば良いのかしらね」

 そう言いながらも、アリストテレスの足は淀みなく第二校舎に向かっていた。

「どこに行けば、彼女に会えるかしら」

 ソクラテスは、ふえ? と口を半開きにした。

「彼女ってだぁれ??」

「決まってるわ。サルトルさんよ」

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