2. 脅迫状
さて、次の日。
第四校舎の階段を昇り、図書準備室に入ると、既にデカルトがいた。広げた本を手にしたまま、こっくりこっくりと船を漕いでいる。どうやら、本を読んでいる間に寝落ちしたらしい。僕が部屋に入っても気付かなかった。
僕は指定席、つまりデカルトの隣の席に座って、彼女の横顔を見つめた。
柔らかそうな頬は、とても白い。本ばかり読んでいて、あまり外に出ないようだ。対照的に睫は黒くて、よく見ると結構長い。耳の下から、栗色のツインテールが垂れている。口元は、少し緩んでいた。
端正な顔立ちだと思った。特に、眉間から小さな鼻先までのラインは、蝋細工のように滑らかだ。耳を澄ませば、その鼻先から寝息が聞こえてくる。僕は無意識に、指先をそこへ伸ばしていた。
と、唐突にデカルトが目を開けた。
そして、こちらを見る。
「…………」
「…………」
僕は、自分の顔が熱くなるのを自覚した。デカルトの視線が僕の指先に向かったので、慌ててそれを引っ込める。狼狽しながら顔を逸らし、
「きょ、今日も遅刻せずに来たんだ?」
と上ずった声で尋ねる。
「う、うん」
デカルトの声も、どこか上ずっていた。
「パスカル先生が驚いてた。『デカルトが、二日も連続で遅刻しないなんて!』って」
「それはまた、すごいね……」
僕は苦笑した。ちなみにパスカル先生というのは、デカルトのクラスの担任である。
「お昼休みも、中庭でお昼寝してたんだけど……やっぱり早起きすると、眠いね」
「うーん、人によるんじゃないかな?」
話しているうちに、気まずい雰囲気もなくなってきた。僕はデカルトに視線を戻し、その手元を見た。
「あ、本と言えば」
僕が言うと、デカルトは「なぁに?」と首を傾げた。
「委員長っていつも同じ本を持ち歩いてるけど、あれ、なんなんだ? 聞いても教えてくれなくて」
「さぁ?」デカルトは本を閉じて答えた。「わたしも一度聞いたことあるけど、誤魔化されたわ」
「デカルトにも言ってないのか……。委員長は『乙女の秘密』とか言ってたから、デカルトには言ってると思ったんだが」
僕が呟くと、デカルトは小さく笑ってみせた。
「わからないわよ。今わたしも、フィル君を誤魔化したのかもしれない」
「な、そうなのか!?」
「その可能性もある、という話よ。何事も疑ってかからなくちゃ」
噂をすればなんとやら、タイミングよく、委員長ことアウグスティヌスが図書準備室に入ってきた。例によって、茶色い本を携えている。そういえば僕は、委員長があの本を読んでいる姿を見たことが無い。読まない本を、何故持ち歩いているのだろう。
「オッカムちゃんはどうしたの?」
デカルトが聞いた。いつも委員長と一緒にいるはずのオッカムが、今日はいない。
「ただのトイレ。すぐ来るわよ」
委員長は扉を閉めると、優雅に僕の目の前の席に座った。カバンを床に置き、本を膝の上に置く。今日もゆったりとした服を着ているが、やっぱり存在を主張する隆起が目立つ。正直、目の前に座られると、長袖を着ているにもかかわらず目のやり場に困る。だからこそ、書記を買って出たようなものだ。今日は会議も無いので、しばらく理性と本能の攻防に耐えなければならない。
「そういえば委員長」胸から視線を逸らし、顔を見ながら聞く。「いつも持ってるその本、何なんです?」
「えっ?」
委員長は目を見開いて、それから視線を逸らした。頬を赤く染め、もじもじと体を揺する。
……えーと、その反応は何だろう。僕の隣では、デカルトも不思議そうな顔をして委員長を見ていた。やっぱりデカルトも、本の正体は知らなかったらしい。
「ひ、秘密」
やっとのことで、委員長がそれだけ言う。
「じゃあせめて、タイトルだけ。それ、ラテン語ですよね。どういう意味です?」
「し、しつこいわね。秘密と言ったら秘密です!」
委員長の顔がますます赤くなる。だからその反応は何なんだ。隠されると余計気になる。
「そんなことより、オッカムちゃん、遅いわね」
誤魔化すように、委員長は図書準備室の扉を見やった。委員長が来てからまだ三分と経っていないので、決して「遅い」と呼べるレベルではない。しかし本気で追及されるのが嫌なようなので、僕は渋々彼女の発言に合わせることにした。
「そのうち来るんじゃないですか?」
デカルトも扉を見た。この部屋の扉には、曇りガラスがはまっているため、扉を見ても廊下の様子はわからない。ついでに言えば、この部屋には廊下に面した窓が無い。本当はあるのだが、本棚に隠れてしまっているのだ。
「もうしばらく、待ちましょうか」
委員長が柔和に微笑んだ。
しかし、いくら駄弁って待っていても、オッカムは現れなかった。
「さすがに遅いわねぇ」と委員長が首を傾げる。
「もしかして、先に書庫に行ってるんじゃないですか?」
「それは無いと思うけど……」
委員長の言葉に、デカルトが「絶対無いとは言い切れないよ」と反論した。
「確かなのは、『まだオッカムちゃんが来てない』ってことだけよ」
「でもぉ」委員長は、床に置いたカバンから自分のケータイを取り出した。「先に書庫に行っていたら、メールくらいすると思うけれど……」
画面は見せてくれなかったが、受信メールは無いらしい。念のため確認したが、僕やデカルトのケータイにもメールは無い。そもそも僕は、オッカムとアドレスの交換をしていない(無駄、と言われ拒否された。軽く傷ついた)。
「逆に、僕らがメールを送っておけば、先に行っても良いんじゃないですか?」
「そうねぇ。じゃあ、そうしましょうか」
委員長が早速、メールを打ち始めた。僕とデカルトは立ち上がると、カバンを持たずに外に出た。どうせ、この部屋は施錠するし、わざわざカバンを持っていく必要はあるまい。ケータイすら持たなかった。
委員長も廊下に出たところで、デカルトが扉を施錠した。ノブを回して、施錠の確認を行う。デカルトは、こういうチェックを忘れない。ちゃんと閉まっていることを確認すると、鍵をスカートのポケットに入れた。
図書準備室のある第四校舎は、三階建てだ。最上階たる三階には、図書室と図書準備室のほかには、トイレと司書室しかない。二階と一階には、部活動を行うために設けられた小さな部屋がある。人数の少ない部活が収められていて、書庫を利用する文芸部室や生徒会室も、ここの一階にある。
「ちょっと待って」
一階に下りると、委員長が言った。階段の横の女子トイレの扉を開ける。中に入ると、十秒たらずで出てきた。
「オッカムちゃん、いないわねぇ」
と、首を捻った。第四校舎には階段が一つしかないから、行き違いになることはあり得ない。これで、オッカムが書庫に行ったことは確定だ。
第四校舎を出て、西に進む。第四校舎は学園の敷地の東の方にあり、書庫は最西端だ。この学園の敷地面積はとても広く、第四校舎から書庫まで歩いて五分以上かかる。また、主だった校舎は全て東側に集中しているため、普段西側に人が寄り付くことは無い。まさに「学園の最奥」という雰囲気である。いつだったか、図書準備室にある古い本をまとめて書庫に運んだときは、死ぬかと思った。
徐々に雑草が増えていく景色を背景に、僕らは談笑しながら歩いた。普通に歩けば五分で着くが、話しながら歩くと十分はかかる。本番の整理の前に無駄に体力を消費したところで、ようやく目的の建物に着いた。
奥行きのあるコンクリート製の建物。これが書庫だ。数メートル離れたところに、段ボール箱が三個くらい入る焼却炉がある。
学園の最奥たるこの地には、書庫と焼却炉以外、何も無い。強いて言えば、鬱蒼とした雑草だけがある。
委員長が、鉄製の扉を開こうとする。ちょっと重そうだったので、僕とデカルトも手伝って、扉を横にスライドさせた。
ガラガラと、ぎこちない音を立てて扉が開く。書庫の中は、真っ暗だった。そこに、扉の隙間から一条の光が射し込む。古い本が放つ独特のかび臭さが、鼻を突いた。ついでに埃っぽい。空気中に浮かぶ埃が、光を反射して輝いた。
「オッカムちゃん、いる~?」
書庫の奥に向かって、委員長が呼びかけた。が、返事は無い。そもそもこの暗闇が、オッカムがいないことの何よりの証拠だ。
……しかし、そうするとオッカムは、どこへ消えたのだろう?
「ん?」
そのとき、奥の方で何かが光った。光は一瞬で消えたが、数秒後また現れた。点滅しているようだ。
なんだろうと思ったとき、バチン、と大げさな音がして蛍光灯が瞬いた。委員長が電気のスイッチを入れたらしい。書庫内が、次々と光に満ちていく。
照らし出された空間には、金属の骨組みだけの本棚が、何本も平行に並んでいた。そこに、古臭い装丁の本が何百冊も乱雑に納まっている。きちんと並べられている箇所もあれば、何冊か抜け、横倒しになっている箇所もあった。
さらに床には、適当に置かれた本や、ビニール紐で縛られた書類が、そこかしこに置かれている。ダンボール箱もいくつかあった。中身が全て書類だとすると、運び出すには相当骨が折れそうだ。
「あれ?」デカルトが、書庫の奥を指差した。「あそこにあるの、オッカムちゃんの剃刀じゃない?」
僕も、それが薙刀のような巨大な剃刀であることに、すぐに気がついた。丁度、さっき何かが点滅していた場所である。かなり奥の方にあるので、あの巨大サイズでなければ気付かなかったかもしれない。
「オッカムちゃん、いるのかしら?」と委員長。「オッカムちゃ~ん!」
呼びかけながら、委員長が剃刀目指して歩き始めた。僕らも後に続く。
近づいてみると、さっき見た光の正体が判明した。オッカムのケータイである。メールの受信を知らせるランプが、点いたり消えたりしていた。
「オッカムはどこにいるんだ?」
呟きながら、僕は巨大な剃刀を持ち上げる。
が、重い。
しかも、重心が刃先の方にあるため、非常に持ちづらい。なるほど、これは両手でないと持ち歩けない。
剃刀の刃はとても綺麗で、普段から手入れされていることがわかる。磨くだけでなく、砥ぐこともあるのかもしれない。輝く銀面に、僕の顔が映りこんだ。
「何か落ちたよ」
僕の隣に、デカルトが屈み込んだ。CDジャケットくらいのサイズの白いカードを拾い上げる。僕の持ち物ではない。剃刀に載っていたのだろうか。よく見ると、カードにはワープロで何か書かれていた。
「えっと、なになに……?」
カードの文面を、デカルトが読み始めた。僕と委員長も、デカルトの肩越しに文章を読む。
その文章を見て、僕は持っていた剃刀を落としそうになった。
『アウグスティヌスと委員長補佐達に告ぐ
オッカムは誘拐した
返して欲しければ「Confessio」を渡せ
明日十六時、図書準備室に「Confessio」を置いて、帰宅せよ
このことは誰にも伝えるな』
「…………………」
「…………………」
「…………………」
絶句。
沈黙。
唖然。
茫然。
僕らはしばし、そのカードを凝視していた。上から下まで、何度も文章を読み返す。
まるで現実味が無かった。
冗談だと思った。
目を逸らせば、文章は消えてしまうのではないかとさえ。
デカルトがカードを裏返した。
裏は白紙である。
表に戻した。
文章は消えずに残っている。
「脅迫状……?」
最初に口を開いたのは、デカルトだった。その台詞を聞いて、委員長が貧血のようにふらつき始めた。
「そんな、そんな、オッカムちゃんが、オッカムちゃんが……!」
表紙に「Confessio」と書かれた茶色い本を手にしたまま、円を描くように歩き始める。
「どうして、なんで? 私のせい? ウソでしょ!?」
「落ち着いて、ティヌスちゃん」
意外にも、デカルトは冷静だった。立ち上がり、委員長の両腕を持つ。
「まだ、オッカムちゃんの悪戯と言う可能性があるわ」
それはない、と僕の中の冷静な部分が、心の中で告げた。オッカムは、無駄なことを嫌う。こんな人騒がせな悪戯を、無意味にするはずが無い。
ならなんだ。
オッカムの悪戯ではない。
誰かの悪戯とも考えにくい。――何故なら、ここにオッカムの剃刀とケータイがあるからだ。もしこれが悪戯なら、オッカムもその悪戯に加担していることになる。だが、オッカムは悪戯などしない。よって、誰かの悪戯ではあり得ない。
ならなんだ。
まさか本当に誘拐されたのか? あのオッカムが?
「それに、ほら、ティヌスちゃん」デカルトが、委員長をなだめ続ける。「その本さえ犯人に渡せば、オッカムちゃんは返すと書いてあるでしょ? だから、安心して。オッカムちゃんは無事よ」
「でも、そんな、あああ……」
委員長はその場にしゃがみ込んだ。デカルトも隣にしゃがんで、委員長の肩を抱く。大丈夫だから、落ち着いて、とデカルトは懸命に話しかけた。
「…………」
そんな二人を見ているうちに、僕の中の冷静な部分が、徐々に広がっていった。一度深呼吸をすると、僕は完全にいつもの自分を取り戻した。
「委員長」まだうろたえる委員長に、僕は話しかけた。「こうなった以上、聞かせてください。その本、なんなんです?」
「う、こ、これは……」
委員長は、ギュッ、と「Confessio」を胸に抱いた。
「そのタイトル、どういう意味なんです?」
「え、えっと、ラテン語で、『告白』という意味よ」
「古い、貴重な小説か何かなんですか?」
ううう、と委員長は口ごもった。顔が赤くなっていく。固く目を閉じた。
「……一つ確かなのは」委員長の顔を覗き込みながら、デカルトが言った。「『ティヌスちゃんは、わたしが入学したときから、ずっとその本を持っている』ということ」
この学園には「学年」という概念が無いが、デカルトと僕は同学年である。入学したのは去年の四月。委員長は、二年近くもその本を持ち続けていることになる。
「もう一つ確かなことがあるわね。『わたしは、ティヌスちゃんが、その本を読んでいるところを見たことが無い』ということ」
僕も見たことが無い。読まない本を何故持ち歩いているのか、ずっと疑問だった。
「愛読書でもない限り、二年もの間、同じ本を読み続けるとは考えにくい。逆に愛読書なら、ティヌスちゃんがその本を読む姿を一度も見かけたことが無いのは不自然。そう考えると……その本は、本と言うより、ノートなんじゃない?」
なんだって? 僕は改めて、「Confessio」を見た。ハードカバーのノート?
「常に持ち歩いていることから考えて、たぶん備忘録か、スケジュール帳か……あるいは、日記。はっ、もしかしたら、自作ポエム集ってこともあるわね。タイトルが『告白』なら、ピッタリだわ」
正直、ポエム集の可能性は高いな、と思った。それなら、なんの本なのか何度尋ねても、頑なに口を閉ざした理由が説明できる。
「で、委員長。正解はどれなんですか?」
いつの間にか、僕とデカルトに追い詰められる形になってしまった委員長は、消え入りそうな小さな声で答えた。
「日記……です。私が、『悪いことをしちゃった』と思ったときに、それを書き留めてるの……」
なるほど。だからタイトルが「告白」なのか。
「なんで、そんなものわざわざ持ち歩いてるんです? 見られたくないなら、隠しておけばいいじゃないですか」
「それは……だって、誰にも見られたくなかったから……」
「……」
会話が噛み合わない。
が、少し考えてわかった。つまり、誰にも見られないよう、常に持ち歩き、監視しているわけか。
「ティヌスちゃん。その本の話、今までに誰かにした?」
委員長は首をふるふると左右に振った。
「いいえ。あなた達にいま話したのが、初めてよ……」
デカルトが顔を上げて、僕を見た。僕も、デカルトの顔を見つめ返す。
動揺している委員長は気が付いていないようだが、冷静な僕らはすぐに気付いた。
オッカムを誘拐した犯人は、「Confessio」がなんなのか、知らない。
なのに、それを要求している。
……いったい、何故だ?




