6. 流行語
図書準備室は、図書室のすぐ隣にある狭い部屋だ。一般教室の半分ほどの広さである。第四校舎三階にあるその部屋は、図書委員の中でも、図書委員長とその補佐を務める四人の生徒が使うだけである。
階段にも壁にも無数に押されたスタンプを横目に、デカルトは第四校舎の階段を駆け上った。最上階の三階に着くと、キンコンカンコンとチャイムが鳴った。一時間目が終わったらしい。デカルトは、図書準備室の真向かいにある司書室の扉をノックした。
「どうぞ」と司書のアッシリアの声がしたので、「失礼します」と言ってデカルトは扉を開けた。
「あら、早いわね、デカルトさん」
一文字一文字、聞き取りやすい発音で、アッシリアが言う。デカルトは苦笑しながら、室内を見渡した。
司書室は、図書準備室と左右対称の作りをしている。一般教室の半分くらいの広さ。図書室寄りに事務机があり、反対側の壁際には裁断機やブッカーの束が置かれたテーブルがある。
「この部屋は、スタンプ押されてないんですね」
「え、ああ、そうね。鍵のかかってた部屋は、被害を受けてないみたい」
デカルトは、入り口のすぐ横にぶら下がった鍵を取りながら、
「図書室は大丈夫だったんですか?」
と尋ねた。
「いえ」その質問に、アッシリアは残念そうに首を左右に振った。「やられたわ」
「まさか、本が?」
「いえ、幸い本は無事よ。ただ、テーブルや本棚にたくさん押されていたわ」
デカルトはホッとした。もし本に押されていたら、取り返しの付かないことになっていた。テーブルや本棚なら拭くことも出来るだろうが、紙に押されたスタンプを消すのは至難の業である。
「テーブルの方は、いまアウグスティヌスさん達に消してもらっているところよ」
とアッシリアは付け加えた。アウグスティヌスとは、図書委員長の名である。彼女がいるなら、彼女と仲の良いオッカムもいるだろう。ちなみにオッカムも、図書委員長補佐だ。デカルト、オッカム、フィルの三人が図書委員長補佐で、アウグスティヌスが委員長である。
「じゃあ、わたしも手伝ってきます」
デカルトは図書準備室の鍵を壁に戻すと、入り口の近くの洗面台に干されている雑巾を一枚取った。それを水に濡らして絞る。「失礼しました」とお辞儀をして、司書室から出た。
「ひゃっ!」
司書室から出たところで、デカルトは男子生徒と鉢合わせした。驚いて身をすくませる。
「ふぃ、フィル君……おはよう」
鉢合わせした男子生徒はフィルだった。後ろ手に扉を閉めながら挨拶する。
「今日は早いんだな、デカルト」
ちょうど、二時間目の開始を告げるチャイムが鳴った。この時間にデカルトが学園にいるのは、非常に珍しい。
「うん。でもそんなことよりフィル君。図書室も被害を受けたらしいよ」
「被害って、スタンプの?」
こくり、とデカルトは頷く。
「本は無事らしいけど、テーブルとか本棚とかにスタンプが押されたって」
話しながら、図書室の扉を開ける。ガラスの引き戸にも、確かにスタンプが押されていた。
聖フィロソフィー学園の図書室は広い。三階の床面積の半分以上が使われている。入って左手が閲覧席で、右手に本棚が並ぶ。閲覧席では十人以上の生徒が本を読んでいたが、まだ席はたっぷり余っている。
普通、図書室は本を読む場所だ。しかしいまは、閲覧席のテーブルを拭く三人の図書委員の姿があった。アウグスティヌスとオッカム。それともう一人。
「ソシュールちゃん」
デカルトの呼びかけに、オシャレな格好をした少女が顔を上げた。いつも流行の最先端を行く彼女は、いまはアルファベットをあしらったイヤリングや髪留め、手袋をしていた。これが今度の流行になるのだろう。
「めろぅ、デカルトちゃん、フィル君」
「え、め、めろぅ??」
謎の単語に、デカルトが目をぱちくりさせた。横に立つフィルが、説明する。
「数日前から、現代組で流行ってるんだよ。『おはよう』の代わりに『めろぅ』って言うのが」
「どうして?」
デカルトがフィルの顔を見上げた。フィルは片眉を上げて、ソシュールに視線を送った。
「私が流行らせたの。可愛いでしょ?」
ソシュールは目を細めた。ソシュールはいつも流行の最先端を行っているように見えるが、実はそれは誤りである。正確に言うと、彼女はいつも流行を「作っている」のだ。自分が作ったものを流行らせるため、必然的に流行の最先端を行くことになる。特に、新しい単語を生み出すのは、ソシュールの十八番だった。
「デカルトちゃん、フィル君」と、奥のテーブルを拭いていた少女が、こちらにやってきた。フリルの付いた青いワンピースを着た胸の大きな少女、アウグスティヌスだった。手には雑巾と、「Confessio」と表紙に書かれた本を抱えている。
「悪いのだけど、スタンプを消すの、手伝ってもらえるかしら?」
「いいよ」とデカルト。「そのために来たんだし」
デカルトが雑巾を掲げるのを見て、フィルは自分が何も手にしていないことに気付いた。
「お前は何しに来たんだ」
アウグスティヌスの背後から、長身の少女が冷めたハスキーボイスで言った。下手な男よりもハンサムな顔立ちに、自分の身長を超えるほどの大きさの剃刀を携えた少女、オッカムだ。アウグスティヌスと同じ中世組であり、オッカムとアウグスティヌスは、いつも行動を共にしている。
ちなみに、この聖フィロソフィー学園には、学年の概念が無い。また、クラスは五つしかない。フィルとソシュールのいる現代組、デカルトのいる近代組、オッカムとアウグスティヌスのいる中世組、そして古代組と東洋組である。
「司書室に雑巾があるから、それで本棚を拭け」
オッカムのハスキーボイスに急き立てられ、フィルは素直に司書室へ向かった。
「だけど」と司書室に向かうフィルを見ながら、アウグスティヌスが呟く。「本当に、誰がこんなことしたのかしら?」
「考えるだけ無駄だ」オッカムが切り捨てた。「考えなしの悪戯に決まっている」
「そう?」オッカムに反論したのは、ソシュールだった。「私は、そうは思わない」
「何故だ?」
「だって、至るところにスタンプされまくってるのよ? 意図も執念もなく、こんな無駄なことをするなんて、あり得ないわ」
無駄なことはしない。それは、オッカムの行動原理でもあった。それを使って論じられたら、オッカムには反論できない。
「この『フーダニット事件』には、必ず目的があるはずよ。それが何かは、まだわからないけれど」
「フーダニット事件?」
デカルトがまた、聞きなれない単語に首を傾げた。とは言え今度の単語は、改めて尋ねなくとも意味は推し量れたが。
「うん」とソシュールが目を細めた。「私が名付けたの。現代組では早速この呼称が流行ってるわ。ね、フィル君?」
ちょうど、雑巾を濡らして戻ってきたフィルに、ソシュールが目配せした。
「え、あ、うん。流行ってるね」
とてもわかりやすいネーミングだと、デカルトは思った。ソシュールが名付けなくとも、そのうち誰かがそう言い出しそうだった。
そのとき、ピンポンパンポーン、と学内放送がかかった。一瞬のノイズのあと、鳥のさえずりのような綺麗な声がスピーカーから流れる。
『みなさん、おはようございます。たったいま、西田先生散歩警報が発令されました』
「西ちゃん、また歩き出したんだ」
ソシュールがスピーカーを見上げて言った。ソシュールは現代組の生徒であり、西田はそこの担任だ。面識が深い分、そのはた迷惑な散歩癖に付いても詳しいのだろう。眉をひそめて辟易している。
『予想進路は森。まず食堂館に近付き、手前で西に折れると思われます。中庭を迂回するような経路で――』
「この予想は、どうやって出してるのかしらね?」
アウグスティヌスがひとりごちた。それにソシュールが反応する。
「噂じゃ、放送部員のバークリーちゃんが、神の電波を受信して予知してるらしいわ」
「神の電波?」
謎の単語に、今度はアウグスティヌスが問い返した。バークリーと同じ近代組であるデカルトは、その言葉を知っていた。
「バークリーちゃんによると」とデカルト。「わたし達はみんな、神様の電波を受け取っているんだって。で、わたし達が見ている『物』は全部、本当は存在していなくて、神が『そこに物があるように見せている』らしい」
ふん、とオッカムは鼻で笑いながら、自分の剃刀を見上げた。
「滅茶苦茶だな。そんな複雑なことを考える必要は無い。そこにあるから見えている、と考えれば十分だ」
「う~ん」とデカルト。「でも、『知覚しているものが、本当にあるのかどうか?』と考える点は、共感できるな」
デカルトは、「すべてを疑うこと」を思想としている。目で見えているもの、手で触れているもの、耳で聞こえているもの……五感も、自分の思考すらも疑い、「ただ一つの確かなもの」を追い求めている。
ピンポンパンポーン、と再び鳴って、放送が終わった。ブツ、と電源の切れる音がした。




