5. 神の放送
放送室は、第二校舎の二階にある。他の部屋の扉が木製なのに対し、放送室だけは金属製だ。防音性を高めるためだろう。黒い扉には「放送室」のプレートと、赤いスタンプが押してある。無論、この「Who Done It?」のスタンプは、昨日まではなかったものだ。
「邪魔するぞー」
ノックもせずに、アナクサゴラスは扉を開けた。ずかずか中に入る。放送機材が置かれた室内には、一人の生徒がいた。聖フィロソフィー学園唯一の放送部員、近代組のバークリーである。カジュアルスーツにネクタイを締め、機械を弄っていたが、アナクサゴラスの入室に気づいて立ち上がった。
「これは先生。どうしました?」
学内放送のアナウンサーを務めるだけあって、バークリーは良い声をしている。薄いワイングラスを軽く弾いたような、澄んだ声。まさに「心に響く」と形容するに相応しい。
アナクサゴラスは、手近にあったストップウォッチを手に取ると、紐を持って回し始めた(彼女は常に何かを回していないと、落ち着かないようだ)。
「西田先生が、また歩き出した。五分くらい前のことだ」
「またですか」
可愛らしい小さな口から、バークリーはため息を吐き出した。そのため息の音さえ、オカリナの旋律に聞こえる。
「わかりました、ちょっと待ってください」
と言うと、バークリーは床に置いてあるパラボラアンテナを拾い上げた。鍋の蓋ほどの、小さなものだ。裏面にはカチューシャが付いていて、バークリーはそれを頭に載せた。
途端に、バークリーの顔から表情が奪われた。
「ピー、ピュルルルルル……」
ファックスの受信音を口から出した後、壊れたラジオのような声を吐き出した。
「西田……先生は……南に向かって……ますね……。行く手には……食堂館がありますが……その手前で……西に進路を変更しそうです……。大丈夫です……その先には……森しか……ありません……」
アンテナを外すと、また元の声と表情に戻った。
「だ、そうです」
「お前、ホントそれどうなってるんだ?」
バークリーはいつも、西田の行く先をずばり言い当てる。それも、アンテナを頭に載せて。
アナクサゴラスの質問に、バークリーは小さく声を出して笑った。
「神の放送を受信しただけです」
誰もが同じ質問をするが、バークリーはいつも同じ答えを返す。まさかそんなはずはあるまい、とアナクサゴラスは思うのだが……。
しかしバークリーがパラボラアンテナを頭に載せると、やたらと頭の回転が速くなるのは事実だ。神の放送を受信しているのではなく、西田の過去の行動パターンから、今後の進路を予測しているのではないか。バークリーは否定するが、周りの人間はみんな、そう考えている。
「まぁ、いい。とにかく放送頼む」
「はい」
バークリーは機械の電源を入れると、マイクを手に取り、放送を始めた。
「みなさん、おはようございます。たったいま、西田先生散歩警報が発令されました。予想進路は――」
「西田先生は、今度は何を考え始めたんですか?」
緊急警戒放送を終え、マイクのスイッチを切ると、バークリーが聞いた。
「フーダニットだよ。学園中にハンコ押しまくったのは誰かって考え始めたんだ」
ストップウォッチを振り回しながら、アナクサゴラスは答えた。
「ああ、あの……」バークリーはアナクサゴラスの背後、扉の方を見やった。「うちのドアもやられました」
「この部屋の中は、大丈夫だったようだな」
アナクサゴラスが、室内を見渡す。放送用の機器や、マイクスタンド、レコーダーやスピーカーなどが置いてあるが、どれにも「Who Done It?」のスタンプは押されていない。
「ええ。鍵かけてましたから」
「ふぅん。犯人は、鍵を開けてまでハンコ押したりはしなかったんだな」
「そのようですね」
さて、もうこの部屋に用はない。そう思いアナクサゴラスは立ちかけたが、ふと、バークリーが膝の上に載せているパラボラアンテナが目に止まった。
「お前のそれで、犯人わからないか?」
「これですか?」
とバークリーがアンテナを持ち上げる。
「さぁ、どうでしょう?」
そう言うと、バークリーはおもむろに頭にアンテナを載せた。
「ピー、ピュルルルルル……」
またファックスの受信音を、口から発する。アナクサゴラスは、バークリーの無表情を凝視した。
「フーダニット事件の……犯人と……その目的は……」
「なんだ?」
「…………」
バークリーはアンテナを外した。
「ちょっと、わからないですね」
「なんだよ」
うなだれるアナクサゴラスを見て、バークリーは鈴を転がすように笑った。
「電波が悪いようです」
「神の放送に、電波もくそもあるのか?」
「さぁ? 私は神ではないので、わかりません」
ああ言えばこう言う……。悪質な宗教団体のような少女だった。
「でも私には、容疑者を絞ることは出来そうです」
「なに?」
「先生は、『Who done it』ってフレーズ、すぐに訳せましたか?」
「いや」
アナクサゴラスは、素直に首を振った。つい三十分前に西田に教わったところである。
「このフレーズは、ミステリでよく使う言葉なんです。『犯人は誰か?』って意味ですね。犯人はこのフレーズを知っていた。つまり犯人は、ミステリが好きな人物です!」
「…………」
アナクサゴラスは、ストップウォッチを回す手を止め、しばし黙考した。
「それ、手がかりになるのか? そもそも、ミステリが好きかどうかなんて、わからんだろ」
「そうですねぇ」バークリーは手中のパラボラアンテナをくるりと一回転させ、「あ、一人知ってます」と言った。
「誰だ?」
「同じクラス……近代組のデカルトちゃんです。彼女、いつもミステリ読んでます」
「ふぅん……?」
とは言え、たったそれだけの手がかりで、犯人だと決め付けるわけにはいかない。ミステリ好きじゃなくても知っているかもしれないし、英語が得意なら考え付くフレーズかもしれない。
アナクサゴラスは頭の片隅にだけ残すことにして、今度こそ、放送室を辞した。




