1. 脳に良いこと
聖フィロソフィー学園の東端に、この学園の正門がある。シンプルなブロックの塀。その間を繋ぐ鉄製のアーチ。アーチには動植物の彫刻が施され、中央に「St. Philosophy High School」の文字と、オリーブの葉をあしらった校章が掲げられている。
しかし今日、晴れ渡る冬空の下、アーチにはもう一つアクセントが加えられていた。
最初に異変に気付いたのは、最初に登校してきた中世組の担任、イエス教諭だった。なんとなく、いつもと雰囲気が違う。そう感じたイエスは、アーチを見上げた。
そこには、真っ赤なペンキを惜しみなく使い、アーチ全体に文字が書かれていた。
「Who Done It?」
と。
イエスは優しげな微笑を浮かべたまま、首を傾げた。
「……誰がこんなことを?」
書かれている文面を訳したわけではない。心からそう思い、口に出した。
ウェーブのかかった金髪をしたイエスは、そのまましばし、アーチを見上げていた。その様子を正面から見れば、まるで後光がかかっているかのようだろう。朝日を背後にしているからだ。パチリと開いた目は、この事態を正確に把握するべく、辺りを見渡した。
周囲には誰もいない。時刻は午前六時を回ったところ。始業時間は八時半。運動部の朝錬だって、早くとも七時からだ。
正門は既に開いている。施錠の習慣が無いからだ。これを書いた犯人は、書いた後どこへ向かったのだろう。学園の中か、外か。
ううん、とイエスはショルダーバッグを抱え直し、首を反対方向に傾げた。
右の頬を殴られたら、左の頬を差し出しなさい、とはイエスの教え。でもこの場合、一体誰に、何を差し出せば良いのだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、イエスはアーチをくぐった。
そして真の問題は、アーチの向こうにあった。
聖フィロソフィー学園には、主だった校舎が四つある。一般教室や職員室などがある第一校舎。特別教室のある第二校舎。食堂館である第三校舎。そして部室や図書室のある第四校舎だ。
イエスは職員室のある第一校舎に向かった。昇降口の扉はガラス製で、放課後には用務員が綺麗にする。しかし今日は、様子が違った。
ガラスの扉に、なにやら赤いスタンプがたくさん付いていた。特に大きなものではない。縦五cm、横十五cmほどの、朱肉印に見えた。そこには、赤地に白抜きの文字で、
「Who Done It?」
と書かれていた。
「また?」
イエスは扉を上から下まで見た。高さ二メートルほどの扉。上から下まで、数十個の印影が付けられていた。向きは整えられていない。非常に乱雑な印象を受けた。
スタンプを指でなぞると、文字がかすれ、赤いインクがイエスの指先に付いた。ガラス用の特殊なインクではなく、普通の朱肉で無理やりスタンプしたらしい。
扉を開け、校舎に入る。この昇降口の扉も、やはり施錠の習慣は無い。この防犯意識の低さが、事態をより悪化させたのだろう。
聖フィロソフィー学園は、校舎内も外履きで入る。そのため、下駄箱は存在しない。昇降口を入ったところは簡単なホールになっており、そこから左右に廊下、正面に階段がある。
その階段のすべての段に、赤いスタンプが押されていた。
イエスは左右を見渡した。よく見れば、廊下の壁にも、赤いスタンプがいくつも押されている。すべて全く同じスタンプ。「Who Done It?」
「イエス先生!」
突然背後から呼びかけられたが、イエスは動じなかった。おっとりと振り返る。呼びかけてきたのは、保険医の茂木だった。
「あら、おはようございます、茂木先生」
イエスはお辞儀をしながら挨拶した。姿勢を戻した後も、視線は下を向けている。茂木は、イエスより頭二つ分小さいのだ。
「おはよう。イエス先生、このスタンプはいったい?」
茂木は目をまん丸にして、キョロキョロと視線を縦横に這わせた。頭を動かすと同時に、頭の巨大な天然パーマが揺れる。
イエスは首を左右に振って答えた。
「わたくしも、さっき見つけたところで……わかりませんわ」
「誰かの悪戯かな?」
さぁ、どうなのでしょう、とイエスは呟きながら、再び階段に目を向ける。
階段に押されたスタンプは、踊り場まで続いている。もしこれが、最上階まで押され続けていたら? 悪戯にしては、手が込んでいるというか、労力がかかっているというか……。
「アハ、ちょっと面白いね! 誰が、何のためにこんなことしだんだろう?」
「茂木先生、不謹慎ですわよ」
イエスの叱責を受けても、茂木は天然パーマの下の笑顔を絶やさなかった。
「こういう不思議な出来事はね、脳にとっても良いんだよ」パーマの下にある脳を押さえるように、茂木が頭に手をやった。「いつもと違う出来事、奇妙な出来事。それが脳に良い刺激になるんだ。私が毎朝違う時間に登校するのも、それが理由さ」
イエスは微笑みながら、茂木の話を聞いた。誰のどんな話も、微笑みながら、相槌を打ちながら聞いてくれるところが、イエスが学園の人気者たる所以である。
二人は会話しながら(と言っても、一方的に茂木が語っていたのだが)、三階の職員室に向かった。イエスが危惧したとおり、三階までのすべての段にスタンプが押されていた。踊り場の窓や、手すりにも押されている。
三階の職員室の扉にも押されていた。中に入ると、教員の机や椅子にも、しっかりと押されていた。
「手が込んでいますね」
「そうだね。これからは、施錠しないとダメかもね」
職員室を施錠しないのは、さすがに防犯意識が低すぎた。イエスも茂木も、事態を目の当たりにして思った。一応、生徒達の個人情報などが書かれた書類は、鍵のかかる棚に仕舞ってあるが……。
イエスと茂木は不安になり、その棚に駆けた。職員室の一番奥にあるその棚も、ガラス戸に「Who Done It?」とスタンプされていた。イエスはポケットからハンカチを取り出して、スタンプをふき取った。幸い、スタンプは簡単にふき取れた。
ガラス越しに中のファイルを見る。異常は……ない。ファイルにスタンプはされていないし、盗まれてもいない。
「どうやら」と茂木。「犯人には、針金の持ち合わせがなかったようだね」
次にイエスは、自分の席に歩み寄った。茂木もその後ろから、イエスの机を覗き込む。
イエスの机は綺麗に整理されていた。教科書は机の左奥に、書類ファイルは右奥に、ブックスタンドを使って立てられている。机の上に無駄な書類は一切なく、一昔前のタイプのノートパソコンが1台、置かれているだけだ。
そのノートパソコンのど真ん中に、「Who Done It?」とスタンプされていた。
一方、教科書やファイルには、全く手が付けられていない。念のためいくつか中を検めたが、どこにもスタンプは押されていなかった。
「茂木先生も、保健室を確かめた方がよろしいのではありませんか?」
「ううん、そうだね。急いで行って来るよ」
茂木はタイムカードを切ると、急いで部屋を出た。
保健室は、職員室のある第一校舎ではなく、第二校舎の一階にある。第二校舎は、第一校舎の目の前だ。
第二校舎の入り口にも、やはり「Who Done It?」のスタンプがいくつも押されていた。そろそろ見慣れてきた。茂木は扉を開け(ここも施錠されていない)中に入った。
第二校舎の廊下も、やはりスタンプが押してあった。その中を駆け抜けて、茂木は赤いスタンプの押された保健室の扉を開けた。
あちゃー、やられた。茂木は苦笑した。保健室に入って右手、事務机の上に、印影が数個。薬品棚は施錠されているが、職員室の棚同様、ガラス戸にスタンプが押されていた。
さらに左手。整えられたベッドのシーツに、スタンプが押されていた。これ洗って落ちるかなぁ、と茂木は心配になったが、職員室でイエスが、ハンカチでスタンプをふき取っていたことを思い出した。洗えば、簡単に落ちるかもしれない。
それから、部屋の奥を見た。放射線を意味するマークが書かれた扉。その向こうには、CTスキャンがある。この部屋はさすがに危険なので施錠してある。だが、黄色いマークの上に、赤いスタンプが何個も押されていた。
「掃除が大変だね、こりゃ」
茂木はパーマの中に手を入れて、脳をかき回すように頭を掻いた。




