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哲学理論はミステリを解けるか?(連作作品集)  作者: 黄黒真直
第三章 哲学ガールズの日常(連作短編コメディ)
31/64

レヴィナスの森

 これまでのあらすじ。


 私、レヴィナスには、悩みがあります。

 一言で言うと、私は他者と、気持ちを共有できないのです。

 他者を理解できない、と言っても良いかもしれません。

 私は他者の気持ちを読み取ることが出来ません。また、私の感情を他者に伝えることも、苦手です。

 だからでしょう。私は、他者に好かれようとすればするほど、相手を不愉快にし、時に怒らせてしまいます。

 何か悩んでいる人がいると、つい、相談に乗ってしまいます。しかしそうすると、


『なんでそんな上から目線なの!?』『あんたに何がわかるの!』


 そう返ってくるのです。

 いくら気持ちを読み取るのが苦手な私でも、さすがに怒っていることがわかります。でも、その怒りを鎮める方法が、私にはわかりません。いくら申し訳ない気持ちになっても、いくら私が傷つけるつもりがなかったと伝えたくても、私は言葉も出せず、表情も作れないのです。

 いつしか私は、顔にお面をつけて、自分の感情を表すようになりました。お面の数は日増しに増え、ブドウの房のように服にぶら下げることになりました。


 高校生になっても、その状態は続きました。

 私が入学した聖フィロソフィー学園は、変わった趣の高校です。カリキュラムに哲学が含まれており、古今東西、様々な哲学理論を学ぶことが出来ます。

 哲学とは何か――その答えを私は持ち合わせていませんが、少しなら説明できます。哲学は、世界の真理を探求する学問、世界をより良くするための学問、そして人がより良く生きるための学問です(これは、私が受験の面接で述べた回答です。入学して一年が経ってもこの考えが変わっていない私は、成長していないのでしょうか?)。

 この学園なら、もしかしたら、私は答えを見つけられるかもしれない。他者と気持ちを共有するには、他者を理解するには、そして他者に好かれるためには、どうすれば良いか。その答えが、先人の知恵から得られるかもしれない。

 中学のとき、私はそう考えて、この学園に入学しました。


 しかし、状況はいまだ、好転していません。

 もちろん、友達は出来ました。妹みたいに可愛いストローちゃんや、ジェンガが好きなデリダちゃんです。

 でも、駄目なのです。

 まだまだ、他者に対して距離を感じます。


 そんな折、私はあることを聞きました。

 この学園では、生徒会長さんが直々に、生徒達の悩みを聞いてくれるそうです。しかも噂によると、会長さんの言う通りにすれば、どんな悩みも解決するそうです。

 早速生徒会室を訪れた私に、朗らかな表情を浮かべた会長さんは、地蔵のような微笑みで言いました。


「きび団子をヌーブラ代わりにしている少女の相談に、乗りなさい」

「それから、そうですね。貴女のそのお面を求める者には、それを与えなさい」


 ……意味がわかりませんでした。

 本当に、解決するのでしょうか?


 あらすじ、お終い。



 翌日のことです。

 学園に登校した私は、会長さんの言う通り、きび団子をヌーブラ代わりにしている少女を捜しました。鰯の頭も信心から。もしかしたら、本当にきび団子をヌーブラにしている女の子が、いるかもしれません。

 朝のうちは、見つかりませんでした。でもお昼が近付いた頃、私は異常に気が付きました。

 四時間目、私の所属する現代組は、授業がありました。ちなみに聖フィロソフィー学園はほとんどの授業が自習で、教室で先生から教わる授業は、日に一つか二つしかありません。

 とにかく四時間目、世界史の授業中、私は気が付きました。隣の席のラッセルさんの胸が、明らかに、朝と比べて大きくなっています。

 授業が終わるとお昼休みです。ラッセルさんはいつも、全力疾走して女の子のブラを剥ぎ取っています(私も取られたことがあります。ワンピースを着たままどうやって剥ぎ取られたのか、いまだに謎です)。ラッセルさんが教室を飛び出す前に、私は彼女を恐る恐る呼び止めました。

「なに?」

 呼びかけると、ラッセルさんは振り返りました。おヘソを出したタンクトップとミニスカートは、彼女の定番の格好です。くりっとした大きな瞳は、ラッセルさんの感情を百パーセント映す鏡で、私は羨ましいと思います。

「あ、ブラくれるの!?」

 そんなわけありません。私は首を振りました。

「じゃあ、なに?」

 えっと……。私は言いよどみながら、ラッセルさんの胸を指差しました。

「それ、どうしたのでしょう?」

「あ、これ?」

 彼女はおもむろに、タンクトップを捲り上げて胸部を顕わにしました(近くにいた男の子達が、ギョッとして顔を背けました。私もギョッとしましたが、おそらく表情には出なかったでしょう)。

「ほら、きび団子つけてみたのー!」

 ……本当にいました。きび団子をヌーブラ代わりにしている少女。というかこれ、ヌーブラではなくパットです。きび団子パット。鬼退治にでも行ったのでしょうか。元気印のラッセルさんは、どこか犬っぽいかもしれません。

「どうしてそんなことをしたのですか?」

「おっぱいをおっきくしたかったから!」

 私は「困惑」のお面を被りました。眉をひそめ、目を見開き、犬歯を出しています。

「? ワッツ?」

 首を傾げ、目をぱちくりさせるラッセルさん。私はお面を取りました。よくわかりませんが、ここは生徒会長さんの助言通り、ラッセルさんの悩みを解決しましょう。

「ラッセルさん、私は豊胸マッサージを知っていますから、教えましょう」

 ちなみに私はDカップです。美乳だと自負しています。見せる相手はいませんけれど。

「リアリィ!? 教えて教えて!」

 元気良くモンキーイングリッシュを叫ぶ少女は、犬ではなく、猿かもしれません。


 女子トイレでマッサージを教え終わると、ラッセルさんは瞳に喜びを目一杯浮かべ、

「ありがとう!」

 と叫んで外に飛び出していきました(後日、デリダちゃんが「白昼堂々、中庭で豊胸マッサージをするラッセルさんを見た」と言っていました。私は黙って「何も知りません」のお面をつけました)。

 ラッセルさんが出て行った後、私は胸が疼くのを感じました。ブラを取られたのかと思いましたが、違いました。それに、胸の表層ではなく、もっと奥に何かが湧き上がった感じです。心臓の鼓動が大きくなり、顔が、頭が、全身が火照ってきました。

 洗面台の縁に手を付いて、鏡を見ました。エメラルドグリーンの瞳が見返してきます。その顔は無表情。他者と共感できず、他者に気持ちを伝えることも出来ない顔。他者に好かれようとすればするほど、不愉快にさせてしまう顔。

 不意に、理解しました。

 胸の奥に湧き上がるもの。これは、喜びです。歓喜です。そして快感です。

 ラッセルさんはさっき、

「ありがとう」

 と言ったのです。ほかならぬ、この私に向かって!

 意識すると、呼吸が速くなってきました。全身が浮き上がるような心地よさを感じます。叫び出したい衝動に駆られました。

 私は笑顔を浮かべるべきだ、と思いました。しかし私の顔は、上手く表情を作りません。私は「笑い」のお面をつけました。口を開け、舌を出し、目を見開いています。このお面も、あまり評判がよくありません。何故でしょう。可愛くないからでしょうか。

 鏡の前で色々お面を付け替え、可愛い「笑い」を探していると、

「あ、あんた!」

 と声をかけられました。鏡越しに、薄い布をまとった少女が立っています。

 私は振り返って、彼女を見ました。下着のような薄いワンピース。胸の大きい美人さんですが、「遊んで」そうなオーラが出ています。アウトローです。不良娘さんです。怖いです。どうして声をかけられたのでしょう。私は、また知らずに他者を不愉快にさせることを、してしまったのでしょうか。

 彼女は私の、お面がブドウの房のようにぶら下がった全身をジロジロ見ると、「百の顔……」と呟きました。

「なあ、あんた、名前は?」

 両肩をつかまれ、顔を近付けられました。怖いです。背は彼女の方が少し低いのに、威圧感があります。怖いです。でも表情には出ていないでしょう。「恐怖」のお面をつけようかと思いましたが、ここでお面をつけると、さらに不愉快にさせるかも知れません。私は堪えて、平坦な声で答えました。

「レヴィナスです」

「レヴィちゃん!」勝手に略されました。その略称は友達のストローちゃん(レヴィ=ストロース)と被るので、私達の間では禁則事項になっています。「なあ、そのお面、分けてくれないか!?」

「はい」

 断ったら何をされるかわかりません。私は即答しました。

「本当か、ありがとう!」

 と言って、彼女は私に抱きついて来ました。抱き付かれると、体の一部が私より明らかに大きいことがわかります。身長がほぼ同じなので、二人の膨らみが“おしくらまんじゅう”です。

 いえ、そんなことより。

 私は、また、言われました。

「ありがとう」と。

 たまらず、私は彼女を力強く抱きしめました。


 彼女の名前は、荘子そうしと言いました。東洋組だそうです。ちなみに聖フィロソフィー学園には学年の概念が無く、またクラスも五つしかありません。現代組、近代組、中世組、古代組、そして東洋組です。

 荘子ちゃんは、隠れて小説を書いているのだそうです。それで、表情の描写をしたくて、「百の顔」を持つ人を捜していたのだそうです。

 そういえば、私は生徒会長さんに「お面を求める者には、それを与えよ」と助言されていたのでした。求める者とは、荘子さんのことだったわけです。

 荘子さんがトイレの床に座り込んでしまったので、私も腰を下ろし(座るのは抵抗があったので、しゃがみました)、荘子さんにお面を見せました。

「これが、『笑い』のお面です」

 と意気揚々と差し出すと、荘子さんは苦い顔を浮かべました。

「レヴィちゃん、これじゃ『嘲笑』だよ」

「え?」

 そ、そうなのですか?

 私は他の「笑い」も差し出しました。

「これじゃ『苦笑』だよ」

 他の「笑い」です。

「これは『薄笑い』」

 他の「笑い」。

「含み笑い」 

 他の……

「失笑」

 ほか……

「憫笑」

「愛想笑い」

「せせら笑い」

 ……な、なんということでしょう。私の望む「笑顔」がありません。今まで私は、自分の望んだ顔と違う表情を浮かべていたのでしょうか。

「あ、これいいね」

 荘子さんが私のお面を引っ張り、自分の顔につけて言いました。

「激怒」

 それは「大爆笑」です……。

 膝小僧を抱え、顔を埋めてしまいました。私は手探りで「ショック」のお面を取ると、それを頭に載せました。

「なにその『新学期早々遅刻しそうになってパンをくわえながら走ってたら曲がり角から急に飛び出してきた女の子とぶつかって口論になり、しかもその子が転校生として自分のクラスにやってきて「あー、あのときの!」って二人同時に叫んだせいでクラス中から注目を浴びちゃった件』みたいな顔」

 どんな顔でしょう……?

「でも良いな、その顔。ちょうどそういう話を書こうと思ってたんだ。貸してよ」

 荘子さんが手を伸ばしてきました。私はお面をぶら下げている紐を引きちぎり、その上に載せます。荘子さんはテカ、と笑うと、また言いました。

「ありがとう」


 荘子さんとのお面のやり取りを終えると、お昼休みが終わっていました。荘子さんは「ホントありがとう。じゃ、またな」と言ってトイレから去っていきました。

 トイレに残された私。お面が半分ほど減って、とても身軽になっています。

 いえ、身軽になっているのは、お面が減ったからではありません。

 鏡の前に立つと、私は再び、あの感覚が胸の奥に沸くのを感じました。

 ありがとう。ありがとう。ありがとう。ありがとう。

 4回も言われてしまいました。小学生のとき、「ありがとうございました」と言われたくてデパートに何度も出入りしたとき以来です。お面の表情が間違っていたことなど、いまの私にはもう、瑣末なことです。

 踊るような足取りで、私はトイレから出ました。でも私は全身無表情の女。実際には、普通にすたすた歩いているだけです。

 どうしてラッセルさんと荘子さんの二人は、私を不愉快に思わなかったのでしょうか。今まで、他者の相談に乗って上手くいった試しなど、ありません。

 もしかして、好かれようとしていなかったから、でしょうか。ラッセルさんにマッサージを教えたのは、生徒会長さんの助言を実行したからです。荘子さんにお面を貸したのは、断れなかったからです。

 あり得る、と私は思いました。「好かれたい」というのは、私の願望です。言ってみれば、下心です。私は今まで、困っている人に対して、下心を抱いて接していたわけです。そんな人は、嫌われて当然です。

 でも、何か違う気がします。確かに下心は抱いていました。しかし相手を助けたいという思いもまた、確かにありました。私はまだ、何かを見落としている気がしてなりません。

 考えながら歩いているうちに、いつの間にか校舎から出ていました。まるで西田先生です(私達の担任の西田先生は、歩きながら考え事をする癖があります。そのとき先生が通った道は、木でも塀でもあらゆるものがなぎ倒されます)。ちなみに聖フィロソフィー学園は校舎内も外履きOKなので、靴を履き替えずに出入りできます。

 見渡すと、西の方に来てしまったようです。この学園の敷地は広大なのですが、主だった四つの校舎は全て東の一部に集中しているため、西の方に来ることは滅多にありません。この辺りには歩道も無く、森になっています。森の奥の方には書庫などが点在しているらしいのですが、私は見たことがありません。

 この辺りに来るのは、たぶん初めてです。「たぶん」というのは、見渡す限り同じような木々が生えているので、本当に初めてかどうかわからないからです。

 でも、たぶん、初めてです。何故なら、私はここがどこか、わからないからです。

「…………」

 端的に言うと、私は、迷いました。

 後ろを振り返っても、校舎は見えません。上を見上げても、自分の位置はわかりません。葉の間から、木漏れ日が降り注ぐばかりです。

 とにかく、戻りましょう。私はいま来た方角へ、真っ直ぐ歩き出しました。


 十分か二十分が経ちました。

 森の出口は、まだ見えません。

 ここまで来ると、私は自分の犯した過ちに気がついていました。

 私は反対方向へ真っ直ぐ歩きました。でも、この森に入ってから、ずっと真っ直ぐ歩いていた保証は無いのです。

 泣きそうになってきました。私の表情は相変わらず変わりませんが、泣きたい気持ちで一杯でした。

 ふと、犬の鳴き声がしました。森だから犬くらいいるだろう、と私は思い、無視しました。

 同時に、女の子の声がしました。私はすぐさま、助けを求めて声の方へ歩き出しました。

「だから! この子はファイの生まれ変わりなの!」

「その割には、アタシらのこと覚えて無さそうだけど?」

 なにやら、二人の女の子が揉めているようです。ちょっと入って行きにくい雰囲気です。

 揉めているのは、赤い髪を炎のようなポニーテールにした子と、ショートの金髪をして涙目で何かを訴えている子です。少し開けた原っぱのようなところで、言い争っています。

 二人とも、ほぼ同じ格好をしていました。浅黄色のローブと、黒いズボン。ローブの胸元には赤い円。赤いポニーテールの女の子はそれだけですが、金髪ショートの女の子の円には「豆」と書いてあります。しかもその上に、斜めに赤線が引いてあります。「豆禁止」という意味でしょうか。

 二人の足元には、小さな柴犬がいました。金髪ショートの女の子の足元にまとわり付いています。

 よく見ると、金髪ショートの子は厚底の下駄を履いています。それでも、赤いポニーテールの子より、背が低いです。一方の赤いポニーテールの子は、裸足でした。森の中なのに、歩きづらくないのでしょうか。

「! 誰だっ!」

 近付きすぎたのか、見つかってしまいました。二人が同時に、こちらを見ます。私は無言、無表情のまま、棒立ちになりました。

「お前!」と金髪ショートの子が叫びます。「ここは秘密結社ピタゴラス教団のアジトだぞ! どうやって見つけた!」

 秘密結社が自ら名乗りました。全然秘密にする気ありません。

「きみ、誰さ?」

 赤いポニーテールの子が、落ち着いた声音で尋ねました。私は恐る恐る、原っぱに進み出ました。

「私はレヴィナスです。道に迷ってしまったので、森から出る方法を教えてください」

 いつものように、丁寧に答えます。赤いポニーテールの子が、腕を組んで言いました。

「レヴィナスちゃんか」いきなり「ちゃん」付けですか。「アタシはエンペドクレス。こっちの金髪はピタゴラス」

「あ、こら! 秘密結社なんだから勝手に名乗るな!」

 ピタゴラスさんが言いますが、とっくにあなたが名乗っています。

「何か、揉めているようでしたけれど、どうしたのですか?」

 私が聞くと、「大したことじゃないよ」とエンペドクレスさんが言いました。

「ピタゴラスが、この犬を拾ってきたんだ」

 足元の柴犬を指差します。柴犬は、いつの間にか私の足元に擦り寄ってきていました。「はっはっ」と息を荒げています。私は抱きかかえようと、しゃがみました。すると柴犬は、私のスカートの中に潜り込みました。

「!」

 驚きましたが、声は出ませんし、表情も変わりません。私の体質です。って、あ、ちょっ、そんなとこ舐めないでください。

「こら、ファイ!」

 ピタゴラスさんが、私のスカートの中に手を突っ込み(やめてください)、柴犬を引っ張り出しました。私も、逃げるように立ち上がります。柴犬は私を見ながら、まだ舌を出していました。いやらしいです。

「……ファイ?」

 私は聞きとがめました。さっきも、ファイがどうとか言っていました。

「この子の名前」

 とピタゴラスさん。

「どうして、ファイなのですか?」

「だってこの子は、ボクの親友の生まれ変わりだから」

 ……えーと。

 しばし理解に苦しみました。私は「よくわからない」のお面を顔につけます(ピタゴラスさんは、口を半開きにしました)。私の隣で、エンペドクレスさんがクックッと笑いました。

「おかしいでしょ? ピタちゃん、この犬が親友の生まれ変わりだって信じてるんだよ」

「えっと、それは本当ですか? どうして親友の生まれ変わりだと、ファイなのですか?」

「だって」とピタゴラスさん。「ファイって名前だったんだもん!」

 どうやら、親友の名前がファイだったようです。

「それにほら、ここ見て!」

 ピタゴラスさんが、柴犬(ファイ?)を抱きかかえ、私に右前足を見せます。茶色い毛の間に白い毛が生え、模様が「φ」に見えます。

「ファイはいつも、『φ』が書かれたリストバンドをしてた。だからこの子は、ファイの生まれ変わりなの!」

「それでファイなのですか」私は呟きました。「てっきり、黄金比かと思いました」

「黄金比ってなに?」

 ファイを抱えたまま、ずい、とピタゴラスさんが近付いて来ました。とても背が低いです。私より頭一つ小さいです。

「黄金比は、人間が最も美しいと感じる比です」

「へー!」

 ピタゴラスさんが、目を輝かせました。この反応、どことなくラッセルさんに似ている気がします。

「それっていくつ? やっぱり3:4:5?」

 何が「やっぱり」なのかはわかりませんが、私はすぐに記憶から値を引き出しました。

「およそ、1:1.618です」

 ピタゴラスさんは、小首を傾げました。私の隣では、またエンペドクレスさんがクックッと笑っています。

「それって、分数で表すといくつなの?」

 これもすぐに、記憶から引っ張り出しました。

「1:(1+√5)/2です」

「!!!!」

 ズササササッ、とピタゴラスさんが後ずさりました。目が見開かれています。顔も青ざめています。腕の中のファイが、締め付けられて苦しそうに悶えています。どうして黄金比を聞いたくらいで、こんな反応を示すのでしょう?

 私の隣で、エンペドクレスさんが大げさに笑い出しました。それから小手をかざすと、

「あ、見て見て。富士山麓でオウムが鳴いてるよ!」

 ルート五? それを聞くと、ピタゴラスさんが叫びました。

「そんなわけない! オウムの体長は三十センチ、ここから富士山までの距離は百キロ! 比は三対百万! お前は一メートル先のバクテリアが見えるのか!?」

 長い突っ込みです。しかも意味がわかりません。

「いまのは、どういう意味でしょうか? それに、どうして黄金比を聞いただけで、そんなに驚いているのでしょうか?」

「だーかーらー!」

 駄々っ子のように、ピタゴラスさんが言います。

「百キロ先の三十センチの物が見えるってことは、一メートル先の三マイクロメートルの物、つまりバクテリアが見えるってことになるんだよ!」

 そうでしょうか? 望遠鏡と顕微鏡では、全く構造が異なります。すばる望遠鏡にインフルエンザウイルスは見つけられません。いえ、ここは食いつくべきポイントではありません。

「それで、黄金比を聞いて驚いたのはどうしてですか?」

「黄金比じゃないよね」

 答えたのは、私の隣でずっと楽しそうにニヤニヤしているエンペドクレスさんです。

「ピタちゃんが反応したのは、ルート五、無理数の方だよね」

「どうしてですか?」

「無理数なんて! 存在しないからだ!」

 ピタゴラスさんが叫びました。腕の中のファイが、ついに腕からの脱出に成功しました。心配そうに、私達を交互に見ています。

「ボクは認めないぞ! 万物の根源は整数と分数だけなんだ! 循環しない無限小数なんて存在しない!」

「それは無理があるのではないでしょうか?」

 私が言うと、「無理数がないと、無理がある」とエンペドクレスさんがニヤニヤしながら言い、私を見上げました。なんだか屈辱的な気分です。

「それに、万物の根源が整数と分数だけというのは、どういう意味ですか?」

「そのままさ。この世には数を通すことでしか理解できないものがあり、数は自然界のあらゆる場所に現れる。さらに数を使えば、創造することだってできる。だから万物の根源は、数なんだ!」

 私は、ただ黙って、いまの主張を考えていました。

 ここ、聖フィロソフィー学園には、「万物の根源は何か?」を考えている生徒がたくさんいます。ある人は水だと言ったり、ある人は火だと言ったりしているようです。彼女らの主張に共通するのは、根源を「モノ」だと考えている点です。モノを作るのはモノ。わかりやすい理論です。

 ところがピタゴラスさんは、万物の根源は実体の無い「数」だと言っています。

 ピタゴラスさんの理論は、私には理解しかねました。数が、どうやってモノを作るというのでしょう。それとも彼女の言う「万物の根源」は、「モノの根源」ではないのでしょうか。

 私が黙っていると、ピタゴラスさんはさらに続けました。

「和音って知ってる? ド・ミ・ソとかソ・シ・レとか」

 そのくらいなら知っています。私は頷きました。

「糸をピンと張って指ではじくと音が鳴るけど、実は、糸の長さの比を単純な整数比にすると、綺麗な和音が作れるんだ」

 それは知りませんでした。私は感心して、「初めて知りました」と言いました。

「ボク達の目に見えるこの宇宙全体は、音階、すなわち整数とその比で作られている。だから、整数の比で表せない無理数なんて、存在しないんだ!」

 どこかで聞いた理論だ、と私は思いました。そして思い出したのは、「超ひも理論」と呼ばれる理論です。それによると、万物の根源はとても小さな「ひも」であり、それが十次元空間の中で振動することで、モノの性質を生んでいるそうです。ピタゴラスさんの理論も超ひも理論も、どちらも「振動」が世界を作っているとする点で、似ています。また、どちらも理解しかねる点でも、似ています。

「あ、ですが、待ってください」私はふと、思い出しました。「黄金比は無理数ですが、整数の和と比で表せます」

「え?」

 ピタゴラスさんが(エンペドクレスさんも)固まって、私を見ました。どうやるの、と尋ねられたので、私は(口で伝えるのは難しいのですが)言いました。

「1+1÷(1+1÷(1+1÷(1+1÷(1+……)))…)です」

「…………」

「…………」

 あ、やはり口で伝えるのは無理があったのでしょうか。分数で書けばわかりやすいのですが、ここの地面は雑草が生い茂っていて、文字を書くことは出来なさそうです。

 どうしようかと思ったとき、

「へえ、そんな方法で」

 とエンペドクレスさんがニヤッと笑いました。どうやら理解したようです。ピタゴラスさんを見ると、彼女は拳を握り締め、フルフルと震えています。

「どうする、ピタちゃん? いまの式、たぶん正しいよ。なんならアタシが証明してあげようか?」

 ピタゴラスさんはカッと目を見開いたかと思うと、

「そんなの! 認めない!」

 叫んで、森の奥へ走り出しました。そのあとを、柴犬のファイが「ワンワン!」と叫びながら追いかけます。

 ピタゴラスさんが去った方を見ながら、エンペドクレスさんはクックッと笑って、言いました。


「あーあ、怒らせちゃった」


 その台詞で……

 私は、ゾクリとしました。

 怒らせた?

 また私は、不用意に他者を不愉快にさせてしまったのでしょうか。

 夢の世界から、急に現実に引き戻されたような感覚がしました。楽しくお話をしていたつもりだったのに、いつの間にか、ピタゴラスさんを不愉快にさせていました。

 せっかく、ラッセルさんや荘子さんの相談に乗って、自信をつけたところだったのに。

 どうして私は、こうも簡単に他者を怒らせてしまうのでしょう。

「どうした? 急に黙っちゃって」

 エンペドクレスさんが、私の顔を見上げました。まだ顔はニヤついています。

 私はゆっくり口を開けました。

「エンペドクレスさんは、平気なんですか? ピタゴラスさんを怒らせてしまっても」

「平気だよ」ニヤリと笑います。「アタシは、ピタちゃんの怒った顔が大好きだから」

 ……理解しかねました。

「どうしてですか? 怒らせたら、嫌われてしまうのではないでしょうか?」

「たとえ嫌われたって、怒った顔が見られるなら構わない!」

 エンペドクレスさんは、拳を振り上げました。瞳に炎が点って見えました。

「私には、理解しかねます。エンペドクレスさんのその考えも、ピタゴラスさんの無理数を否定する気持ちも」

「アタシだって、どうしてピタちゃんがあそこまで無理数を毛嫌いするのか、わからないよ」

 え、と私は呟きました。

「それで、いいのですか? 理解したいとは思わないのですか?」

「レヴィナスちゃんは、理解したいみたいだね」

 え、と私はまた呟きました。

「どうして、わかったのですか?」

「簡単だよ」あっけからんと言います。「レヴィナスちゃん、さっきから何度も、ピタちゃんに質問してたじゃん。だから、『あー、理解したいのかな』って思ったんだ」

「…………」

 私は、ピタゴラスさんとのやり取りを思い出しました。最初に柴犬の名前を聞いて、どうして親友の生まれ変わりなのかを聞いて……とにかく聞いて、聞いて、聞き続けていました。

「あ、それじゃアタシ、そろそろピタちゃん追いかけないといけないから。道に迷ったんだっけ? 出口はそこの獣道を行けばすぐだよ」

 エンペドクレスさんは私の返事も待たず、手を振ると森の奥へ走っていきました。もっとも、待っていたとしても、私は返事をしなかったでしょう。

 私は、考えていました。

 どうして、ラッセルさんと荘子さんは怒らず、ピタゴラスさんは怒ったのでしょう。エンペドクレスさんも、怒りませんでした。この違いは、なんでしょう。私は一体、何を見落としているのでしょう。

 私は四人とのやり取りを、一生懸命思い出しました。どこかに、違いがあるはずです。

 ピタゴラスさんを怒らせたのは、無理数の存在を、私が肯定したからでしょうか。ですが、私がいままで怒らせてきた人がみんな、無理数を否定していたわけではありません。そもそも、他者とこんなに無理数の話をしたのは、生まれて初めてです。

 では、一体、何でしょう。

 そのとき、天啓のように思い出したのは、さっきの言葉。


『レヴィナスちゃんは、理解したいみたいだね』


 そうです。

 これです。

 私は、ピタゴラスさんを質問責めにしました。しかし、ラッセルさん、荘子さん、エンペドクレスさんには、ほとんど質問しませんでした。

 思えば、いままでずっと、そうでした。悩んでいる子がいると、私はとにかく、質問責めにしました。悩みの原因は何か、何故それが嫌なのか、それをどうしたいのか、いつからその状態なのか、いつまでに解決したいのか、いままでどんな対策を行ってきたのか。

 最後には、いつも決まって、みんな言いました。

『なんでそんな上から目線なの!?』『あんたに何がわかるの!』

 何故私は、質問責めにするのでしょうか。それはエンペドクレスさんが言った通り、他者を理解したいからです。他者を理解しなければ、悩みの解決なんて出来ないし、仲良くなることも出来ないと思っているからです。

 これが他者を不愉快にさせる原因だとすると、他者に質問をしなければ、不愉快にさせることはなくなるはずです。

「…………」

 私の中に、ジレンマが生じました。

 私は他者を理解したい。しかしそのために質問すると、相手を不愉快にさせる。

 なら私は、どうしたら良いのでしょう。

 ……いえ、そもそも、他者を理解することは、可能なのでしょうか。

 私は他者を理解しようとして、幾度も質問して来ました。しかし、一度たりとも、理解したことはありません。その証拠に、私は、私が何故怒られたのか、理解できていません。

 もしかしたら、他者を理解することは、不可能なのではないでしょうか。

 ……少し、悲しい結論だと思いました。他者は決して理解できないのだとすると、他者からも、私を理解することは出来ません。私のことは、私しか見ていない。私は外部と完全に切断された、完全に孤独な存在だということになります。

 私だけではありません。全ての人が、孤独なのです。仮に他者を理解したと思っても、それは「私の感覚」でしかありません。私の中で構築された「他者っぽいもの」であって、他者ではありません。


 私は。

 いや私達は。

 決して、他者を理解できない。


 否定したい。

 ピタゴラスさんが無理数を否定したように、私もこの考えを、どうにかして否定したい。

 頭を振って思い出したのは、さっきの二人です。

 エンペドクレスさんは言いました。ピタゴラスさんが無理数を毛嫌いする理由はわからない、と。なのにエンペドクレスさんは、ピタゴラスさんと仲良さそうでした(歪んだ愛情のようにも見えましたが)。

 つまり、他者を理解せずとも、他者と仲良くなったり、悩みを解決することは、可能なのかもしれません。

「でも私は、理解したい」

 そう呟いたとき、私の脳裏にまた、さっきの言葉が蘇りました。

『レヴィナスちゃんは、理解したいみたいだね』

 瞬間、光明を掴んだ気がしました。

 もし仮に、他者を理解できないのであれば、エンペドクレスさんがこんなことを言うはず、ありません。彼女は、私が「知りたがり」だと理解しました。

 彼女は私を理解したのでしょうか。それとも、単なる当てずっぽうだったのでしょうか。

 もしかしたら、なんらかの方法で、他者を理解できるのかもしれません。私達の「中身」は、なんらかの媒体を通して、「外部」に漏れ出ている可能性もあります。もしその漏れ出たものを、掴み取ることが出来たなら……。

 いつの間にかうつむけていた顔を上げて、私はエンペドクレスさんが去った方を見ました。彼女の姿も、もちろんピタゴラスさんやファイの姿も、もう見えません。

 他者を理解する方法はあるのか、ないのか。今の私にはわかりません。もしあるならば、私はそれを見つけるまでです。もしないとしても、孤独な存在なりに(エンペドクレスさんとピタゴラスさんのように)他者と仲良くなることはできるでしょう。

 それがわかっただけでも、私にとっては、大収穫です。

「……ありがとう」

 私の小さな呟きは、森の木々に吸収され、あっという間に消えてしまいました。私は一度深呼吸すると、踵を返し、歩き出しました。

 森の出口へと向かって。



...『レヴィナスの森』END

「自分語り」に挑戦してみた作品。

こういうタイプの話を書くのは初めてだったので、どんな評価が来るか不安だったのですが、ウケる人にはウケたようです。


なお、レヴィナスの思想(他者論)に関しては、ウィキなどでちょこっと調べただけなので、解釈が間違っている可能性があります。ご了承ください。



さて、これで「哲学ガールズ企画」に投稿した話は、すべて終了です。

次は書き下ろし長編の最終章となります。

どうぞ、最後までお楽しみください。

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