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哲学理論はミステリを解けるか?(連作作品集)  作者: 黄黒真直
第二章 神様の恩寵(中編ミステリ)
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10. 想像上の円盤

 オッカムから返信が来たのは、四時間目が終わった直後だった。

 うちの学園は、一授業が五十分。間に十分の休憩が入り、四時間目が終わったところで一時間の昼休みとなる。そろそろ昼ご飯にしようか、とデカルトと席を立ったところで、メールが来た。

『最後の依頼だ。今日の放課後、私とアウグスティヌスよりあとに、図書準備室に来い』

「……はぁ?」

 ノートはどうなったのだ。

 首を捻りながらも、ポケットにケータイを仕舞う。剃刀で脅された従者の僕は、主たるオッカムに背くことは出来ない。哀れな子羊は、今回も主の仰せつかるままに動くのみだ。

 昼食は、生姜焼き定食にした。何か深い理由があって選んだわけではないが、食べられるのを待つのみの養豚場の豚と、哀れな子羊の自分の姿を重ねたのかもしれない。しかしそれなら唐揚げ定食でも牛丼でもなんでもいいわけで、やっぱり理由は特にないと言うべきだろう。ちなみにデカルトは、唐揚げ定食を選んでいた。

 料理を受け取って、さっきまで座っていた席に戻る。

「いただきます」

 と二人揃って合掌し、食べ始めた。

 数分後には、食堂が生徒達で溢れてきた。途切れることの無いきゃぴきゃぴとした話し声が、食堂に満ちる。九割女子なのでかなりうるさいのだが、不快感を覚えないどころか、心地よさすら覚えてしまうのは、僕が思春期の男子だからだろうか。

 さらにうちの学園は、私服登校が許可されているので、見た目にも色鮮やかだ。女の子達がみな、自分の個性を強調する服装をしているので、眺めていて飽きることが無い。夏場はちょっと、目のやり場に困ることがあるけれど。

 味噌汁を啜りながら券売機に並ぶ列を眺めていると、ジトッとした視線を横から感じた。

 顔を向けると、デカルトが冷たい目でこちらを見ていた。

「な、なに?」

「別にー」

 ぷい、とデカルトは僕から視線を逸らして、唐揚げを摘み上げた。

「僕は別に、鼻の下を伸ばしてたとか、そういうんじゃないぞ?」

 どうして僕は言い訳してるんだろう、と思いながら、早口で自分の弁護を図る。

「さっきも言ったけど、わたしは全てを疑ってるから。物的証拠が無い限り、信じないよ」

 どんな証拠を出せと言うのだ。

 生姜焼き定食を前に、自らの立証責任の重さに耐え兼ねていると、

「こんにちはぁ、フィル君にデカルトちゃん」

 と、包容力を感じる温かな声がした。

 顔を上げると、お盆に月見うどんと「Confessio」を載せた委員長と、弁当箱と水筒を右手で、剃刀を左手で(片手で!)持ったオッカムがいた。オッカムは僕の方を見ても、表情一つ変えない。まるで、奇妙な主従関係など存在しないかのようだ。

「私達も、一緒していい?」

「うん」

 デカルトは笑顔で頷く。僕も「どうぞ」と答えた。

 委員長が僕の前にお盆を置き、オッカムはその隣に弁当箱と水筒を置く。いつもの準備室での配置が再現された。

 僕はオッカムの弁当箱を見た。日常的な会話が、口から出る。

「なんでいつも、弁当なんだ? 食堂があるんだから、買えばいいのに」

「作った方が安い」

 お金の無駄だ、と言うことか。

「……ケチなのか?」

「ケ、ケチって言うな。私は無駄なことが嫌いなだけだ」

 その証拠と言わんばかりに、オッカムの弁当は、「女の子のお弁当」と呼ぶにはあまりに質実剛健としていた。長方形の弁当箱は上下二段に分かれており、上の段には白いご飯と梅干。そして下の段には、昨日の夕飯の残りと思われる肉じゃがと焼き鮭の切り身、そして黒豆と二切れのオレンジが入っていた。

「生活感があるな」

「私は生活しているからな」

 いただきます、と小さく呟いて食べ始める。

「なあ、オッカム」

 話しかけると、オッカムは目線だけで返事をした。

「オッカムは『無駄なことが嫌いだ』と言ってるけど、お前は何をもって、『無駄なこと』だと考えているんだ?」

 デカルトが、僕をチラリと見た。この質問は、さっきデカルトにしたものと『 』の中が違うだけだ。デカルトは「確かなこと」を探し、オッカムは「無駄なこと」を排除しようとしている。

 オッカムは水筒のお茶を一口すすると、「良い質問だな」と言った。

「だが、一言で説明するのは難しいな……」

 そう言ってから、少し考え始める。その真剣な表情は男らしくて、カッコよかった。うっかり惚れてしまいそうである。これなら委員長を落とせるのではないか。

 しかし委員長は、左手で髪を掻き揚げ、するするとうどんを啜るだけで、オッカムを見ていなかった。そもそも最近の委員長は、オッカムを見ていないのだった。それに「守ってくれる人が好き」ならば、外見では落とせないだろう、と思った。

「例えば、フィルは天動説は知っているか?」

 オッカムが思考を終え、話し始めた。

「ああ、そのくらいなら」

 天動説とは、地球が宇宙の中心で、太陽や惑星はその周りを回っているとする説だ。もちろん、現在ではこの考えが間違っていることがわかっている。

「天動説には、無駄な仮定が多い。例えば周転円がそうだ」

「なんだそれ?」

「天動説では、惑星の動きを上手く説明できなかった。天動説に従えば、全ての星は地球の周りを一定方向に回り続けるはずだ。だが惑星は、夜空を『行ったり来たり』する。そこで、『惑星の回転の中心が、地球の周りを回っている』と仮定した」

「は?」

「遊園地のコーヒーカップによく喩えられる。一枚の大きな回転する円盤があり、その円周上に小さな回転する円盤が載っている。すると、惑星の運動を上手く説明できる。それだけでなく、このように仮定した方が、惑星の位置の予測も正確に出来た」

挿絵(By みてみん)

「へぇ」

 それは知らなかった。生姜焼きを食べながら、僕は相槌を打つ。

「問題は、その後だ。観測技術の向上とともに、この周転円による予測は誤差が目立ってきた。そこで、『小さな円盤の周りを、さらに小さな円盤が回っている』と仮定された」

「……増えたな」

「ああ」オッカムは小さく頷いて、続けた。「その後も観測技術が上がるほどに、周転円の数は増していった。終いにはあまりに数が多くなり、計算できなくなったほどだ」

「そこで、地動説が出てくるわけか」

 地動説は、天動説とは反対に、太陽が宇宙の中心だとする説だ。もちろん、現在ではこの考えが概ね正しいことがわかっている(地球が太陽の周りを回っている点は正しいが、太陽が宇宙の中心とする考えは、現在は否定されている)。

「そうだ」とオッカムは頷いた。「コペルニクスは、『太陽こそが宇宙の中心』と仮定すれば、惑星の動きを全部説明できることを示した。天動説ではいくつも仮定が必要だったのに、こちらはたった一つの仮定で、全てを説明してしまったわけだ」

「つまり、お前の言う『無駄なこと』ってのは……」

「ああ。『一つの仮定で説明できる事柄に、仮定を増やしてはいけない』と言うのが、私の考えだ」

 もっとも、とオッカムは続けた。

「コペルニクスの提唱した天動説は、間違っていたのだがな」

「太陽が宇宙の中心じゃないからか?」

「違う」一蹴された。「彼は、『惑星は太陽の周りを、円を描いて回る』と考えていたんだ。そのため、惑星の位置の予測精度が、天動説よりも低かった。だから誰にも認められなかった」

「ん? その考えは正しくないのか?」

「惑星は、正しくは『円』ではなく『楕円』を描いているんだ」

「ああ……なるほど」

 楕円を描いていることは、物理の授業で習った。惑星の軌道はほぼ円に近いが、わずかに歪んでいるらしい。そのわずかな歪みが、位置の予測を狂わせたのか。

「ちなみに」とデカルト。「のちにティコとケプラーの師弟コンビが、超高精度な観測をした。そしてケプラーが見つけた惑星の運動の法則をもとに、ニュートンが万有引力の法則を発見したの」

「え、万有引力って、リンゴの落下を見て閃いたんじゃないのか?」

「そんなわけないでしょ」

 バカを見るような目で見られてしまった。

「ニュートンの発見により」とオッカム。「惑星の運動は、運動方程式と万有引力の法則の、二つの仮定で説明できるようになった。コペルニクスの地動説よりも仮定が増えたが、ニュートンの考えはより正確に惑星の位置を予測したし、何よりリンゴの落下のような、惑星の運動以外の運動についても説明を与えるものだった。最終的にニュートンは、たった三つの仮定から、私達の身の回りの様々な現象を説明してみせた」

 いまの説明に、僕は、少し引っかかるものを感じた。

「仮定……なのか? いま言った『三つの仮定』って『ニュートンの運動の三法則』のことだよな? 法則なのに、仮定なのか?」

 僕が疑問を口にすると、オッカムはお茶をすすって、「当然だろう」と言った。

「科学の法則は、全て仮定に過ぎない。『こういう法則があると仮定すると、この現象を上手く説明できる』というのが、科学の理論だ。そして、最も仮定の少ない理論こそが、唯一の正しい理論だ」

「それはどうかな?」

 箸を置いて言ったデカルトの目が、爛々と輝いていた。それを見たオッカムは、意味深な笑みを浮かべた。

「どういう意味だ?」

「仮定が少なければ正しいとは、限らないんじゃない? 事実、コペルニクスの地動説の方が、ニュートンよりも仮定が少ないんでしょ?」

「だが、ニュートンの仮定は、より多くの現象を説明する。より少ない仮定でより多くの現象を説明する方が、より優れている」

「でもそれなら、『全て神の気まぐれだ』という仮定は、全ての現象を説明するたった一つの究極理論ってことにならない?」

「だがそれには、神の存在という仮定がある」

 とオッカムが言い出したところで、二人は激しい議論を始めた。互いに互いの主張を否定し、論理の隙を突く。その様子は、この学園のいたるところで見かける光景だ。そして二人とも、それを楽しんでいるようである。

 完全に、僕も委員長も置いてけぼりになってしまった。

 僕は目の前の委員長を見た。うどんを食べ終わった委員長はデカルトの方を見ていたが、僕の視線に気が付いてこちらを見た。僕は片眉を上げて、「やれやれ」とアイコンタクトを送った。委員長も、眉根を下げて困ったように微笑んだ。



「そもそも、一見無駄な仮定に見えたものが、実は正しかった事例が過去にいくつもある」

 デカルトの言葉に、オッカムが一瞬詰まった。そこにデカルトが畳み掛ける。

「例えば電場。プラスの電気とマイナスの電気は引き合うけど、それを昔の人は、『電気同士が、直接力を及ぼし合うから』と考えていた。ところがファラデーは、電場の存在を仮定して、『電気が空間に電場を作り、その電場が別の電気に力を及ぼす』と考えた。この電場は、初めは単に理論を簡単にするためだけに仮定されたものだった。なのにのちの研究で、電場が実際に存在することがわかった」

 オッカムからの反論はない。おそらくオッカムも、この話は知っていたのだろう。これで勝利だ、と言わんばかりにデカルトが論じた。

「科学理論の正しさは、物的証拠によってのみ証明されるべきよ。仮定の個数なんて人間本意の考え方では、絶対に真理に到達できない」

 と、そこで試合終了のゴングが鳴った。昼休み終了五分前を告げる予鈴。

 オッカムからの反論は、やはりない。

「わたしの勝ちね」デカルトはお盆を持って立ち上がった。「それじゃわたし、次授業だから」

 見事な勝ち逃げ! オッカムはクールな表情のままだったが、内心では悔しいに違いない。会釈すらしなかった。

 念のため言っておくが、オッカムとデカルトは、別に仲が悪いわけではない。この学園では、「口論するほど仲が良い」と言われている。二人もその例に漏れず、負けた方は悔しげに、勝った方は得意気にするが、いわゆる、あれだ。「なかなかやるな」「お前もな」みたいな少年漫画的なノリである。

「あ、僕も授業だから」

 僕もお盆を持って、下げ口に持っていく。

 オッカムと委員長は、次は自習のようで、席を立つ様子はなかった。


 現代組の教室に戻ると、既にほとんどの生徒がいた。僕が席に着くと同時にチャイムが鳴り、慌しく残りの生徒達も入ってくる。

 少ししてから、先生が来た。挨拶もそこそこに、淡々と授業を始める。

 虚数。

 存在しないはずの数。

 しかし「ある」と仮定された数。

 オッカムは、虚数についてはどう思っているのだろう。今度聞いてみよう。

〔あれ? でも、「仮定は少ない方が良い」ってのが「無駄なことが嫌い」って意味なら……僕とアドレスを交換しなかったり、弁当を作ってきたりするのは、全然関係ない話じゃないのか?〕

 やはり、あいつはただのケチなんじゃないだろうか。

 そして、アドレスで思い出した。

 一連のオッカムの指令。

 次の「放課後、オッカムと委員長より後に図書準備室へ行く」が最後らしいのだが、いったい、どういう目的があるのだろう。

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