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哲学理論はミステリを解けるか?(連作作品集)  作者: 黄黒真直
第二章 神様の恩寵(中編ミステリ)
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8. 想像上の数

「フィル君、お待たせ」

 と背後から声をかけられて、僕は振り返った。そこには、ピンクのマフラーを巻いたミニスカートの少女が立っていた。駅から走ってきたのか、息が上がっていて、ツインテールも少し乱れている。頬もわずかに朱に染まっていた。

「早かったね」

「そう?」

 デカルトは、学園指定の紺色の手提げカバンをテーブルの上に置くと、僕の隣の席に座った。それから、ジ、と僕を見つめてきた。端整な顔を、息がかかりそうな距離まで近づけてくる。

 近い。

 思わず身を引いたが、デカルトはさらに近付いてきた。

 大きな瞳が、僕の顔を覗き込んでくる。薄い涙の膜に覆われた綺麗な目だ。肌は蝋細工のように滑らかで、水を垂らせば引っかかることなくさらさらと流れていきそうだ。顔の真ん中には、寒さで赤くなった小さな鼻がある。その鼻が、すんすんと軽く鳴った。

「フィル君」デカルトは顔を離すと、凛とした声で言った。「いま、コーヒー飲んでたでしょ?」

「え?」

 さすがに驚いた。紙コップがテーブルにあればまだしも、それすらないのだ。僕が「何かを飲んでいた」ということすら、わからないんじゃないか?

「なんでわかった?」

 内心の驚愕を隠しながら、理由を問う。

「確かなことが一つある」

 と言って、デカルトは僕に指を突きつけた。

「『フィル君から、コーヒーの匂いがする』ってこと」

「…………」身も蓋も無かった。「確かなことが……って言うほど、大げさなことじゃない気がするんだけど?」

「むー。でも、『確かなこと』には違いないじゃない」

 確かに。

 と思ったが、ちょっと待てよ。

「……デカルトは何をもって、『確かなこと』だと考えてるんだ?」

 尋ねると、デカルトは「?」と首を傾げた。

「前に言ってたよな。『どんなものにも疑いの余地はある』みたいなことを。で、『絶対に正しい』と言えるのは、『疑うという行為の存在』だけだって。『我思う、故に我あり』だっけ?」

「ああ、その話ね」デカルトは二、三度頷いた。「哲学的には、わたしはその通りだと思ってる。でも、それを日常レベルまで持ち込むのは、やり過ぎだと思わない?」

「それはそうだけど。なんか、いい加減じゃないか?」

「むー。地に足が着いてる、と言って欲しいな」とデカルトは膨れた。「疑問の余地が無いものを出発点に、論理的に推論を進める。わたしは、これが真理に到達する唯一の方法だと思っている。だからわたしの言う『確かなこと』ってのは、『疑問の余地がないもの』あるいは『自分が正しいと思えること』ね」

「答えになってないぞ」

「うーん……わたしの場合は、『物的証拠』を『確かなこと』としてるわ。物的証拠は、疑いようが無いでしょ? 哲学的にはともかく、日常レベルや科学の理論を作る上では、それで事足りるわ」

 なるほど。するとさっきのデカルトの推理は、「フィル君からコーヒーの匂いがする」という物的証拠をもとに、推論を進めた結果だったわけだ。

「だけど、昨日の書庫だと、委員長の証言を『確かなこと』に据えてなかったか? 証言は『物的証拠』じゃないだろ」

「そうだけど……わたしはティヌスちゃんを信じたの」

 やはりいい加減なような……。

「そんなことより、フィル君」

 デカルトが、また僕に顔を近づけてきた。思わず身を引く。

「なに?」

「数学、教えて欲しいんでしょ? どこ?」

「あ、ああ、うん。そうだった」

 僕は教科書とノートを開いて、デカルトに見せた。


「二次方程式を解くと、xの二乗が負になることがあって……」

 デカルトの講義を聞きながら、僕はどうやってノートをデカルトのカバンに忍ばせようか、考えていた。僕のノートはいま、僕のカバンの中だ。デカルトのカバンの口は、チャックが締まっている状態である。

「iの二乗を-1とすれば、この根は……」

 僕のカバンはチャックが開いているから、ノートを取り出すのは簡単だ。問題は、デカルトに気付かれないように、カバンの口を開ける方法である。

「横軸を実軸、縦軸を虚軸とすると……」

 しかしカバンは、デカルトの目の前に置かれている。手を伸ばしただけでも即バレる。つまり、デカルトがこの場からいなくならない限り、カバンに触れることすら出来ない。

「つまり虚数の積は、複素平面上での回転を表して……」

 だがデカルトがこの場からいなくなるときは、カバンも一緒に持っていくに違いない。すると、いまデカルトのカバンにノートを入れるのは、不可能ということだ。

 なにか、うまい方法はないだろうか?

「……聞いてる?」

「えっ?」

 訝しげに、デカルトが僕の顔を覗き込んできた。僕は慌てて答えた。

「も、もちろん、聞いてるよ!」

「じゃあ、この問題やって」

 と、デカルトは教科書に載っている問題を指差した。「問1 以下の計算をせよ」と素っ気無い一文と、数字とiが並んだ数式が何本か。

 全て簡単な計算問題だ。このくらいなら、説明を聞いていなくとも出来る。だろう。たぶん。おそらく。


 …………。


 弁明しておくが、実際、一問目はなんとか解けた。ハラハラしているデカルトが視界の隅に映ったが、それは気のせいだ。

 二問目も、時間こそかかったが、正解には辿り着けた。デカルトが冷や汗混じりに「よく出来ました」と言っていたから、間違いない。

 それ以降だって、ちゃんと解き進んでいたんだ。だが五問目を解いているところで、

「えっと、そうじゃなくってね」

 ついに痺れを切らしたらしいデカルトが、口を挟んできた。

「さっき説明したことを、もう一度言うけどね……」

 今度は、僕はデカルトの説明をちゃんと聞くことにした。このままでは、カバンにノートを仕込ませるどころではない。赤点を取りかねない。赤点となれば、補習を受け、追試を受け、それでダメならまた補習だ。ちなみに補習は自習である。意味ないだろう、と突っ込みたい。 

「だいたい、数学なんて何の役に立つんだよ!」

 僕はシャーペンを投げ出して、お決まりの台詞を吐いた。

「しかも虚数なんて、あり得ないじゃないか。二乗して負になるなんて」

 僕がいま解いている問題は、虚数の問題だ。普通の数、3とか5とか、-10とかは、二乗すればプラスになる。例えば、3×3=9で、正だ。なのに虚数は、二乗するとマイナスになるのだ。僕の気持ちが知りたい人は、二回かけて-1になる数を探してみれば良い。そんな数、どう考えたってあり得ないことが、すぐにわかる。

「気持ちはわかる」

 意外にも、デカルトはあっさり認めた。

「実際、虚数が考え出された当時、世界中の数学者が『そんなものは認めない!』って反発したんだって」

「へぇ」

 そんな珍妙なもの、ただの高校生たる僕らがわかるわけ、ないじゃないか。

「じゃあ、なんでいまは認められてるんだ?」

「ガウスさんが、複素平面を使って物の見事に虚数を説明したから、かな」

「はぁ」

 気の抜けた返事をして、僕は教科書を見た。複素平面なら、教科書にその説明が載っている。しかし、こんなものを見せられて納得する数学者の頭が、僕には理解できなかった。

「それにね、こういう『直感的にあり得ないもの』の存在を仮定するのは、数学ではよくあることなの」

「なんだそれ? そんなの仮定して、なんになるんだ?」

 オッカムが聞いたら怒り出しそうだ、と僕は思った。

「あり得ようがあり得なかろうが、とにかく『こういうものがある』『こういう風になる』と仮定して、そこから何が導かれるか……それを追究するのが、数学なのよ」

「……」

 デカルトの言葉の意味を考えて、

「えっ?」

 僕は引きつった声を上げた。

 すると何か? 数学というのは、全て「仮定」で成り立っているというのか? 大昔のどこかの誰かが「こう」と決めたことを、ひたすら信じて計算しているというのか?

 僕がそう尋ねると、デカルトは顎に人差し指を当てて、「んー……」と考えた。「ちょっと違うかな」と言って、話を進めた。

「別に、信じてるわけじゃないの。『もし、そうだとしたら、どうなるか』を考えてるの。仮定と言うより、前提と言った方が近いかな。その前提……公理と言うんだけど、その公理を『確かなこと』だと据えて、そこから論理的に定理を導き出す。これが数学よ」

 なんだか、不毛な学問のような気がした。

 自分達で勝手に前提を据えて、そこから勝手に定理を導き出す。

 もう勝手にやっててくれ、という気になってくる。そんなことして、いったい何になるんだ。僕がそう愚痴ると、

「役に立つこともある」

 胸を張って、デカルトは答えた。

「例えば虚数は、量子力学では必要不可欠な存在となっている」

「量子力学ぅ?」

 それこそ、役に立たない学問っぽいのだが。

「そう、量子力学」デカルトは笑顔で頷いた。「名前くらいは聞いたことあるよね? 電子とか光子とか、そういう素粒子の振る舞いを研究する学問。そこに虚数が登場するの」

「と言ってもねぇ?」

 意識的に胡散臭そうな表情を作りながら(口を真一文字に結びつつ口角だけは上げ、左右の眉の高さを不揃いにし、目を半開きにした)、教科書の複素平面を見下ろす。

「素粒子とは、物質を構成する最小単位のこと。その運動を表す最も基本的な方程式、シュレディンガー方程式の中に、虚数が登場する。……これがどういうことかわかる?」

「いや」

 僕は素直に首を振った。デカルトは顔を近づけてきて、芝居がかった口調で言った。

「わたし達の住むこの世界は、虚数で作られているかもしれない、ということよ。だって、全ての物質の運動が、虚数で表現されるのだから」

「……いや、でも」僕は反論した。「虚数なんて、ないじゃないか」

 するとデカルトは、「たとえば」と言って指を一本立てた。

「いまフィル君の前で、なにやら黒いものが左右に動いているとします」

「うん?」

 何の話が始まったのかわからなかったが、とりあえず続きを促した。

「フィル君はそれを見て、『黒いものが左右に動いている』と考えました」

「考えるも何も、デカルトがいまそう言ったじゃないか」

「その通り。でもそれは、本当に左右に動いているのでしょうか? 本当は、回転しているんじゃないでしょうか?」

「……うん?」

 まだよくわからない。

 デカルトが、クルクルと指を回した。僕に向かって、トンボを捕まえるときのように小さな指を回す。

「本当は、何か大きな物体が上空にあり、それが円を描いて回転しているのかもしれない。でも、地面にいるフィル君は、その物体の()を見て、『左右に動いている』と考えた。……そういう可能性も、あるでしょ?」

「……」

 僕はデカルトの話を、よく考えてみた。

 いまの話は要するに、「二次元の世界で生きている人は、三次元の世界を認識できない」という話と同じだ。三次元で動いている物体を、「影」という二次元の世界で見た結果、本来の動きと異なる動きを認識した……。

「でも」と僕。「それと虚数と、なんの関係が?」

「これ」

 デカルトが指差したのは、教科書の複素平面だった。十字に矢印が描かれ、縦の矢印が「虚数」を、横の矢印が「実数(虚数でない数)」を表している。

「わたし達は、実数の世界に生きている。そして全ての実数は、この横の矢印にのみ存在する。つまり実数は、一次元的な物。でも虚数は、この複素平面全体に存在する。つまり、二次元。わたし達は一次元の世界の住人であり、わたし達が認識している全ての出来事は、虚数の『影』なのよ」

 僕は唸りながら、教科書を眺めた。

 僕たちは、こんな細い矢印の上に暮らしている?

 ちょっと横にそれれば、広大な平野が存在しているというのに!

「なんか、納得いかないな。だって、()数なんだろ? 存在しないから『虚数』なんだろ?」

「日本語の『虚数』は、英語の『imaginary number』の訳。直訳すれば『想像上の数』ってことだけど……それは、最初に名付けた人が、浅はかだったのね」

「誰が名付けたんだ?」

「虚数を最初に考えたのはイタリアのカルダーノと言われてるけど、名付け親は……えっと……」

 デカルトは数秒首を捻っていたが、

「ルネ・なんとか」

 思い出せなかったらしい。

作者のキグロはゆとり教育の関係で、高校で複素平面を習いませんでした。

が、今年度から高校数学に複素平面が復活するそうです!

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