6. 三行
翌日。
オッカムの命令、もとい依頼の通り、僕は二時間目の授業(パスカル先生の「確率論」。ただし先生がギャンブルに夢中になってしまったため自習)を放棄し、図書準備室に向かった。
授業中の廊下は静かだ。と言いたいところだが、うちの学園ではそうはならない。再三言うように、この学園の授業はほとんど自習のため、授業時間だろうが休み時間だろうが、色んなところに色んな人がいるのだ。牛の上で寝てる人とか、常に目隠ししている人とか、とにかく個性の塊の人々が行きかっていて、初めてこの学園を訪れたときは度肝を抜かれた。最近はすっかり慣れたが、こんな環境にも慣れる人間の適応力に、ただただ感服してしまう。
それでも、第四校舎の三階は、静かだった。ここに来る生徒は、僕らを除けば図書室利用者だけなので、みんな静かに本を読んでいるのだろう。廊下から見える図書室内には、いまも何人かの生徒が、閲覧席で本を読んだりノートに向かったりしていた。
その様子を横目に、図書準備室の扉をノックする。返事は無いが、鍵もかかっていないようなので、扉を開けた。
室内には、タートルネックを着たハンサムなポニーテールの少女がいた。彼女はいつもの指定席に座っていたが、僕の方をチラリと見ると、床に剃刀を丁寧に置いて立ち上がった。
「持ってきたな?」
「あ、ああ」
僕は片手を上げて、オッカムにノートを見せる。勉強用のノートだ。教科ごとに分けたりしていないので、このノートには全ての教科の単語が綴られている。
「で、何をすればいいんだ?」
「まず、座れ」
オッカムが、僕の指定席を指差した。言われるがまま、僕はそこに座る。
「ノートを貸せ」
左手を差し出してきたので、その上に持ってきたノートを載せる。オッカムはノートをパラパラめくると、ページを開いて、僕の前に置いた。
開かれたのは、なんとも中途半端なページだった。真ん中より、少し前。ノートへの書き込みは、まだ数ページ先まで続いている。何か理由があってここを開いたのか、それとも適当に開いただけなのか、全くわからない。
「そのノートの余白に、このペンで、今から言うことを書け」
オッカムが手渡してきたのは、無地の白いシャーペンだった。僕が普段使っているものよりも、やや細い。百円ショップで売っているのを見たことがある。確か、いつもオッカムが使っているシャーペンだ。
「余白って言っても……」
僕はノートを見下ろした。ちょうど歴史の穴埋め問題を解いたページで、フランス革命に関する単語が羅列されていた。革命的な定理を発見しても、証明を書く余白は無さそうだ。唯一、ノートの一番上のところに、日付などを書き込むための余白があったため、そこにペン先を置いた。
「で? なんて書けばいいの?」
「あいうえお」
「……はい?」
目を白黒させて、オッカムを見上げた。オッカムは上から目線で僕を見下ろし、
「いいから書け。『あいうえお』だ」
「あ、ああ……」
首を捻りながら、僕はノートの一番上に、「あいうえお」と書いた。書いた文字は、いつもより濃くて、太かった。僕はいつも硬度Hの芯を使っているが、これはHBのようだ。芯の直径も少し太い。
書き上げると、僕は顔を上げてオッカムを見た。
「次は」とオッカム。「その下に、『ウサギが邪魔』と書け」
「はい?」
ますます意味がわからない。が、言われたまま、僕は書いた。「うさぎがじゃま」
「……貴様、書記なのだから、少しは漢字の勉強をしろ」
「わ、悪かったな……」
憮然としながら、僕は答えた。「で、次は?」とオッカムを見上げる。
「次は、その下に『ABC』と書け」
完全に意味不明である。が、とにかく言われた通りに書いた。
「最後に、いま書いた『C』の次に、『D』を途中まで書いて、芯を折れ」
「なんだそりゃ?」
「いいからやれ」
有無を言わせぬ口調である。仕方が無いので、書くことにした。「D」の縦棒を引き終わり、カーブを始めたところで手に力を込めた。パキッと小さな音がして、芯の欠片がどこかへ飛んでいった。
「よし」
僕のノートを覗き込みながら、オッカムは満足気に頷いた。僕の手から、シャーペンを引き抜く。
ようやく意味のわからない作業が終わったようだ。妙に気疲れした僕は、軽く伸びをした。
「結局、これはなんだったんだ?」
無駄だとわかっていても、ついつい尋ねてしまった。
「あとで話す」
しかし意外にも、オッカムは回答の意思を表明した。
「だが、いまはまだ駄目だ。この計画が成功したら話す」
「計画?」
疑問形で口にしたのだが、オッカムは答えてくれなかった。代わりに、次の指令を出してきた。
「次は、このノートをデカルトのカバンに忍ばせて欲しい。出来れば、今日か明日中に」
「はぁ?」
僕の抗議の声を無視して、オッカムは続けた。
「それも、デカルトにばれないように。フィルがデカルトから離れて、しばらく経ってから気付くのが、ベストだ」
「???」
いったいこいつは、僕に何をやらせようとしているのだろう。
頭に疑問符を浮かべていると、オッカムはジーンズのポケットから薄いケータイを取り出した(ポケットにケータイを入れているも、男らしいと思う)。
「それと、アドレスの交換をしておこう。デカルトのカバンにノートを忍ばせたら、すぐに私に連絡しろ」
「わ、わかった」
僕も上着の内ポケットからケータイを取り出して、オッカムとアドレスの交換をした。以前、僕が図書委員長補佐になったときに、オッカムとアドレスを交換しようとしたら、「無駄」と言われ拒否された。軽く傷ついたのだが、こうして交換してくれるということは、友達として認めてくれたということだろうか。あるいは、計画とやらに必要だからだろうか。
どう考えても、後者だろうな。
「それじゃ」アドレスのチェックをしながら、オッカム。「首尾よくやってくれ。私の計画が上手くいくかどうかは、全てフィルにかかっているんだ」
僕は首を傾げた。全て僕にかかっている? そんな重要な役割を、どうして僕に任せるんだ?
「そんな重要なことなら、その計画について、説明してくれよ。その方が、上手くいきやすいだろ?」
「いや」とオッカムは首を振った。「知らない方が、素の演技が出来る」
どういう意味だよ。
「オッカムが自分でやるわけには、いかないのか?」
「いかないな」ケータイを閉じながら、オッカムは答えた。「やってやれないことはないが……フィルでなければ、この役はこなせない」
「はぁ?? 委員長でも駄目なのか?」
「無論だ」
それきりオッカムは、僕の追及を完全無視した。ケータイを仕舞うと、
「それから、このことは絶対誰にも言うなよ?」
と念を押した。
「わかってるよ……」
オッカムは、では頼んだ、と言うと、剃刀を持ち上げた。いつものように携えると、部屋の出口へ向かう。
だが、その途中で足を止めた。
ハテナ、と思って長いポニーテールを見つめていると、こちらを振り返った。
「なに?」
オッカムは少し逡巡したあと、いつもよりやや小声で言った。
「フィルは、私のこと、どう思う?」
「へ? どうって……」
唐突な質問に、回答に困って、僕はオッカムをまじまじと見た。
目つきは鋭いが、ハンサムな顔立ち。女性らしい綺麗な肌と、さらさらした細い髪。髪を切る時間やお金が無駄だからと伸ばし放題にしているらしいが、不潔な感じは全くしない。首から下は、灰色のタートルネックと細身のジーンズ。主張の乏しい胸やくびれたウエストは、「スレンダー」と形容するに相応しい。背も女性にしては高いので、モデルのように見える。
「カッコいい、と思う」
よく見れば女性らしいのだが、顔つきや所持品(剃刀)から、どうしても「カッコいい」という感想が真っ先に出てきてしまう。声もアルトのハスキーボイスなので、中性的な印象を与える。
女性に向けるには適切でない感想を口にした僕に対し、オッカムは、
「そうか」
とだけ答えた。
僕は、オッカムの質問の意図を理解していた。要するに、委員長にどう見られているのか、知りたいのだろう。どうしてこのタイミングで、こんなことを聞いてきたのか。唐突に聞くはずがない。何かきっかけがあるはずであり、単純に考えて、それはこのノートに書いた謎の三行だ。
オッカムの「計画」とやらは、委員長に関することだと見て、間違い無さそうだ。
「オッカムと委員長は、付き合ってるのか?」
尋ねると、オッカムは僕を睨み付けた。見ていてわからないのか、と言いたげな視線だ。
「付き合っては、いない」
「告白とかは?」
「……」
珍しく、オッカムが口ごもった。僕から視線を逸らしながら、
「一応、した」
と小声で答えた。
「だが、断られた。友達としてしか見れない、と言われた」
「告白して断られたのに、二人とも随分仲良くやってるよな?」
普通は気まずくなりそうなのに。
「無論、しばらくは気まずかったが、教室も同じだし、補佐の仕事もある。無視することも出来ず、次第に元通りの関係に戻った。……むしろ、今では以前よりも仲が良くなっている」
「良かったじゃないか」
しかし僕が感想を述べると、オッカムは凍てつくような視線を僕に向けてきた。何か琴線に触れたのか? 困惑していると、オッカムはアルトのハスキーボイスをテノールまで下げ、言った。
「だがアウグスティヌスは、私を好いていない」
「……へ?」
「無論、友人としては好意を持っているだろう。だが、友人としてだ。恋愛感情ではない」
「…………」
なんだか、オッカムは難しい問題にはまっているなぁ、というのが、僕の感想だった。オッカムは委員長に恋愛感情を抱いて欲しいらしい。普通はそれだけでも難しいのに、さらに同性という障害まである。ハードルは高い。
「オッカムは、どうして委員長が好きなんだ?」
妙な「計画」を立てるほど好きになるのは、どんな理由なのかと思い、僕は尋ねた。しかし答えは、拍子抜けするものだった。
「別に、何かきっかけがあったわけではない」
オッカムは小さくため息を吐くと、声をアルトに戻して続けた。
「最初は、思想が似ていたから親しくなった。だが付き合ううちに、惹かれていった」
「どうして?」
しつこい奴だな、と言わんばかりに、オッカムは僕を睨んだ。だが話し出した。照れ隠しだったのかもしれない。
「アウグスティヌスを見ていると、守ってやりたくなるからだ」
「あー……」
それは、わかる。柔和な表情や大きな胸が、「包容力のあるお姉さん」といった雰囲気を醸しているが(実際、優しくて包容力があるのだが)、ちょっとしたことですぐに慌てて、案外見ていて危なっかしい。
「それに、アウグスティヌス自身も、それを望んでいるようだ」
「守ってもらいたいって?」
オッカムは、ああ、と頷いた。
「本人から直接聞いたわけではない。だがアウグスティヌスは、そういう思想を持っている。『何か困ったことがあっても、神の恩寵により救済される』と。実際『Confessio』にも、そういう記述があった」
やはり読んだのか。
そして、「守ってやりたい」なんて理由で人を好きになるなんて、やはりこいつは男みたいだな、と僕は思った。




