今から、帰ります
『スッパイ大作戦』というグミを無心で噛み締めている折に、母親から電話が来た。
『お父さん、倒れちゃって……今、伊勢崎市民病院に搬送されてる。救急車乗ってる』
パニック状態の母の震える声を聞いて、萌は一時的に感情を取り戻した。
「は?え?なん……え?」
『帰って来れん?今から』
夜の8時である。萌は横浜のワンルームで気ままなひとり暮らし、実家は群馬県の伊勢崎市。電車で帰るには終電に間に合うかギリギリ怪しく、タクシーなど使うようなセレブな身の上ではない。
どうしよう、とりあえず荷物作らなきゃ。お財布とスマホがあれば大丈夫かな、言うて国内だし。昨日風呂キャンしちゃったから髪の毛がペタペタ……ああ、洗濯物そろそろ回さないとなぁ。
あれこれ考えている内に、予期せぬ涙が溢れてきた。何の感情なのかは分からない。父が救急搬送されたことへの驚きなのか、母の今後への不安なのか……。
スマホを取り出して、LINEをタプタプとスクロールする。父が倒れた。急いで群馬に帰らないといけない。誰かにこの感情を、この状況を伝えたい。
スクロールする指が止まった。うさぎのアイコンがちょこんと顔を覗かせる。萌の職場の先輩の凪だ。
凪とは初めて職場で挨拶をした時から、不思議と似た感情を共有していた。酒の席で話す過去が、自分ととても似通っている―――楽しいな、面白いなと思う内に、いつしかプライベートでも映画や食事を楽しむようになった仲だ。
この人だ。萌はLINEの通話ボタンをタップした。数コールの後、休日で酒をかっ食らっていた凪の緩んだ声が聞こえる。
『おつ~』
言葉が出ない。何の感情だか分からない涙が溢れて、喉を詰まらせる。ギュッ、と喉を鳴らしながら、萌は少しずつ言葉を発した。
「おと……お父さんが……仕事中に倒れて……どうしていいか分からなくて……誰に何をしたらいいか分からなくて、それで……最初に浮かんだのが凪さんで……」
沈黙が漂う。しゃくり上げる萌の声を聞きながら、凪は黙っていた。
『萌、落ち着いて。群馬に帰りたい?』
「かえ……帰りたい。どうしよう……毒なのに……毒親なのに……」
ギャンブル、キャバクラ、風俗。当たり前のように、家庭に金を入れない父であった。身体的な暴力はなかったものの、経済的に苦しい日々は当たり前、群馬名物のみそパンで飢えを凌ぐ日も少なくなかった。
愛したい父ではなかった。可能なら葬儀だの遺品整理だの、自らの手でなく業者さんにお願いしたいくらいだ。
『萌、いったん落ち着こう』
凪の声から酒が抜けていく。
『今帰りたい?明日、電車で帰る?今帰りたいなら、タクシー出すよ』
キュ、と喉を結んで、萌は答えた。
「今、帰りたい」
今日初めての客を乗せた。山下公園から弘明寺に向かって走っているところで、不意にスマホが明るくなった。着電だ。仕事中であることを知っている凪から、電話が来るのは珍しい。
(何かあったな)
豪はバックミラー越しに、後部者席のカップルをちらりと見やる。運転手がプライベートの電話に出ても、気にせずイチャイチャしてくれるお客様かどうかを予想する。
問題なさそうだ。豪は空いた左手でスマホを掴み、耳に押し当てた。
「今お客様乗ってる」
現状を端的に報告する。
『お客様降りたら、お願いしたい……次。お金払うから』
「分かった」
実家のご両親が倒れでもしたのだろうか。何にせよ、お客様を降ろしたら凪のところへ向かおう―――豪はアクセルを踏みしめた。
「横浜から群馬の伊勢崎市まで、概算で7万から8万。払いますか?払うなら行きます」
萌は逡巡した。明日の朝、始発の電車に乗れば割安で目的地に到着できる。深夜の割増料金、高速代、群馬までの距離―――所持金との相談だ。横浜でのひとり暮らしは、悠々自適なものではない。
でも、帰らなければ。帰って、母に会わなければ……。
「愛憎渦巻くというか」「育ててもらったのに恩を感じないのはおかしい」「身体的な暴力が無いなら良くない?」
過去に自分に向けて放たれた言葉の数々を思い出す。
ごはんは食べさせてもらっていた。義務教育も受けさせてもらった。殴られたり蹴られたりしたことはない。だからこそ、「虐待」と言い切れないことが歯痒い。
「払います……払います」
実家の不自由さと引き換えに、誰かと会話する機会を手放した。久し振りに使われた声帯は、掠れた声を押し出すのが精一杯だった。
「東名に乗ります。長いドライブになるから、少し寝てください」
伊勢崎市民病院へ向かうタクシーの中で、萌は荷物を詰め込んだバッグを肩から降ろした。
助手席には凪がいる。萌の急な電話に対応したためか、唇にリップの色味は無かった。
「長旅になるから、横になっとき」
凪に言われ、素直に後部座席で身を横たえた。白いシーツに顔を付けながら、化粧が付いてしまったら弁償しないといけないな、と冷静に考える。
「ナビ入れとくか」
「群馬県伊勢崎市……れ、れん?れんとり?」
「飯でも食いに行くか」くらいの軽さで、ふたりが会話をしている。放置されていることが心地好いが、珍しい地名を読めるのは地元県民の証だ。
「『つなとり』です。連取」
掠れた声で伝えると、またシーツに頭を落とす。
「『つなとり』か~」
「地名って面白いね、全然読めんかった」
北九州出身の凪も、地元民にしか読めない地名を思い起こしているのだろうか。後部座席で倒れている萌を気にする素振りを見せず、ナビの「つ」をスイスイと操作している。
「3時間かかるって」
長い夜になりそうだ。
愛情はあったと思う。一人前に育てようという覚悟もあったと思う。あったけれど、それに適応してくれる知識や才能が無かった人なのだと思う。
ごはんは食べさせてもらっていた。殴られることも無かった。ただただ、家庭に金を入れない父だった。
「茗荷……」
旅行と呼ぶのも憚られる思い出を反芻する。茗荷。JAあがつま沢田直売所で、茗荷を手にして走り回った記憶を思い起こす。まだ6歳かそこらの歳だった。茗荷の味も知らないくせに、ダークレッドのグラデーションがかった色味が、大層お気に召したのだろう。「何で茗荷?」と言いつつも、走り回るわたしを、しゃがんで受け止める姿勢を取る父。その胸元に、何の衒いも無く駆け寄って包まれに行った。大きな手が、体温が、小さいわたしを包み込んでくれた。
わたしが上手く愛を受け取れなかっただけなのかもしれない。わたしがもっと上手に愛情を受け取れていたら、絵に描いたような「円満な家庭」になっていたのかもしれない―――
横たえた顔から溢れた涙が、もう片方の涙と合流する。
愛を与えてもらった。けれど、家に金を入れてくれない父だった。ずっと母が不憫だった。毒親だ。毒父だ。なのに、何で今、8万円を支払う覚悟でタクシーに乗っているのだろう……。
「萌」
助手席の凪が、後部座席の萌に声をかける。
少し眠ってしまっていたようだ。サービスエリアに停車しているようだが、夜の暗さと頭の混乱で、ここがどこだか察するのに時間を要した。
「少し休憩しよう。自販機で水買おう」
タクシーのドアを開けると、籠っていた空気が一気に解放された。ぶわっと全身に新しい空気を浴びて、少し気持ちが落ち着く。
「ああ、ここか」
ひとりごちた。地元と呼べるエリアに入り始めたと感じる。見覚えのあるサービスエリアだ。自販機、トイレ、他には何も無い。最低限の用を足すサービスエリア。
「お水買おうか」
萌の返事を待たず、凪が自販機にコインを入れる。見慣れたペットボトルが、ガコンと音を立てて足元に転がり込んだ。
ペットボトルの蓋を開けて、ひと口飲む。運転席から降りて、縮こまっていた身体をぐーっと伸ばす豪の姿が目に入った。
間に合うのだろうか。「助かってほしい」という気持ちは失せていた。絶え間なく届く母からのLINEを見返す。
『心臓マッサージ1時間してるけど、戻らないって』
『看護師さんが色々してくれてるけど、起きてくれない』
このサービスエリアに以前来たのも、父の車でだった。車に乗ってどこかへ行くという、普通の家庭を築いてくれていた。トイレに行って、自販機でジュースを選ぶ。6歳が懸命に背伸びをして、なんとか届いたボタンを押す。おしるこだったなぁ。甘いもの、苦手なのに。
父の死に目には会えなかった。
ドタバタと準備をしてタクシーで向かっていた割に、最後の連絡は簡素なものだった。
「亡くなった」
『死んだから、後は気を付けてこっちに来て』という母のLINEを読み返した。配偶者の死の直後は、冷静になるのかもしれない。先ほどまでの熱量は無い、淡々としたメッセージだった。
急ぐ理由は無くなった。駒形ICで降りてもらい、ナビを入力し直す。死亡退院した父が、実家に帰ってくると母から聞いた。
「住所でナビを入れ直しました。8万円くらいですね。帰りますか?」
涙も引いた。シーツから身を起こして、萌は頷いた。
「はい。帰ります」




