第3話 絶頂から奈落へ。私が与えていた恩恵のすべてを返してもらいましょう
私がグランツ王国を追放されてから、数週間の時が流れた。
その日、グランツ王国の王都は、建国以来最大とも言える熱狂と歓喜に包まれていた。王太子レオン・フォン・グランツと、新たな婚約者であるリリア・ヴァン・ローズライトの盛大な結婚式が執り行われていたからだ。
王城の大聖堂は、国中から集められた希少な白い薔薇で埋め尽くされ、数千個の魔石が昼間のように眩い光を放っている。参列するのは国内外の有力貴族たちばかりであり、誰もがこの若く美しい新郎新婦を称賛し、祝福の言葉を惜しまなかった。
「皆様、本日は我々の門出を祝うためにお集まりいただき、心から感謝する」
祭壇の前に立つレオンは、純白の礼服に身を包み、傲慢なまでに自信に満ちた笑みを浮かべていた。彼の周囲には、かつてないほど機嫌の良さそうな低級の水精霊たちが舞い飛び、キラキラと光る水滴を撒き散らして幻想的な空間を演出している。
「私の隣に立つリリアは、精霊に愛された真の乙女だ。かつてこの国には、精霊の加護すら持たない無能な令嬢が次期王妃の座に居座り、国の発展を阻害していた。しかし、あの薄汚い忌み子を追放し、真に相応しいリリアを迎えたことで、我がグランツ王国はかつてない黄金期を迎えることだろう!」
レオンの堂々たる演説に、大聖堂は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。
彼の横で、最高級のレースと真珠をふんだんに使ったウエディングドレスを纏うリリアは、恥じらうように頬を染めながら、レオンの腕に身を寄せた。
「レオン様、私……とても幸せです。お姉様が追放されたのは少し可哀想でしたが……でも、お姉様のような加護のない方が王妃になれば、国が不幸になっていましたものね。私が代わりに、精霊様たちとこの国を豊かにしてみせますわ」
「ああ、お前ならできるとも。お前こそが、私の運命の相手なのだから」
二人は甘く見つめ合い、永遠の愛を誓い合う。
最前列では、彼らの父親であるローズライト公爵が、満足げにふんぞり返っていた。
「ふん、あのような出来損ないの娘、さっさと切り捨てて正解だったわ。これからはリリアを通じて、我がローズライト家の権力は盤石なものとなる。国王の座すら、いずれは私の思いのままだ」
権力欲と優越感に浸り、誰もが自分たちの栄華が永遠に続くと信じて疑わなかった。
彼らは、自分たちが立っている地面が、すでに薄氷一枚の脆いものであることに全く気づいていなかった。
異変は、誓いのキスが交わされようとしたまさにその瞬間に起きた。
パリンッ!
鋭い破裂音が大聖堂に響き渡った。
参列者たちが驚いて見上げると、天井を彩っていた巨大な魔石のシャンデリアが、一つ、また一つと音を立てて砕け散り、光を失っていくではないか。
それだけではない。
レオンの周囲を舞い飛んでいた水精霊たちが、突如として怯えたように震え出したかと思うと、悲鳴のような甲高い音を立てて空中に溶け込むように消滅してしまった。リリアのドレスを揺らしていた風精霊たちも同様だった。まるで、何か恐ろしいものから逃げ出すかのように、一瞬にして姿を消したのである。
「な、なんだ? どうしたというのだ、精霊たちが……!」
レオンが狼狽の声を上げた直後、大聖堂の重厚な扉が乱暴に開け放たれた。
血相を変えた近衛騎士が、転がるようにして祭壇へ駆け寄ってくる。
「で、殿下! 一大事でございます!」
「何事だ! 今は私の神聖な結婚式の最中だぞ!」
「そ、それが……王都の防衛結界を維持するための魔力回路が、突如として完全に沈黙いたしました! それどころか、王城の地下にある巨大魔石群が一斉に輝きを失い、完全に魔力を枯渇させております!」
「なんだと!? 莫迦なことを言うな! あの魔力回路は数百年も前から安定して稼働しているはずだ! すぐに宮廷魔導師たちに修復させろ!」
「既に向かわせましたが、彼ら自身の魔力もなぜか急激に減衰しており、魔法陣を起動することすらできないと……っ!」
騎士の報告に、レオンの顔色がサッと青ざめる。
しかし、災厄はそれだけでは終わらなかった。
次々と新たな伝令が大聖堂に飛び込んでくる。彼らがもたらす報せは、どれも国を揺るがす絶望的なものばかりだった。
「報告します! 北部の水源が突如として干上がり、川の水の流れが完全に止まりました! 水道網が機能しておらず、王都の井戸もすべて枯れ果てています!」
「南部の穀倉地帯から緊急の報せです! 収穫直前だった小麦や野菜が、数分で黒く変色し、完全に腐敗しました! 大地から精霊の力が完全に消失したとの報告が相次いでおります!」
「国境沿いの魔物除けの結界が消失! 多数の魔物が領内へ侵入を開始し、各地で甚大な被害が出ています!」
次々と響き渡る絶望の報告に、参列していた貴族たちはパニックに陥り、悲鳴を上げて逃げ惑い始めた。
「な、何が起きているの!? 精霊様が、精霊様がどこにもいらっしゃらないわ!」
「いやだ、ドレスが! 水が出ないのにどうやって生活すればいいの!」
「領地の作物が全滅だと!? 我が家の財産が紙屑になってしまうではないか!」
豪華絢爛だった大聖堂は、瞬く間に阿鼻叫喚の地獄へと変貌した。
レオンは信じられないものを見る目で、虚空を睨みつけた。
「どういうことだ……なぜ、急にこんなことが……。精霊たちは、リリアを愛しているのではなかったのか! 答えろ、リリア!」
「わ、私に怒鳴らないでくださいませ! 私は何も……私のもとからも、風の精霊様がいなくなってしまって……魔力が、感じられないの……」
リリアは震え上がり、床にへたり込んで美しいドレスをくしゃくしゃに握りしめた。
公爵もまた、顔を真っ赤にして騎士の胸ぐらを掴み上げて怒鳴り散らしているが、何の解決にもならない。
彼らが築き上げてきたと信じていた富と権力、そして国の繁栄が、音を立てて崩壊していく。
その時だった。
ゴゴゴゴゴゴゴォォォォッ……!!
大気を震わせるような重低音が、王都の空から響いてきた。
参列者たちが恐怖に駆られてステンドグラスの窓の外を見上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
真っ青だった昼の空が、突如として漆黒に塗り潰されていた。
太陽の光を遮っているのは、雲ではない。空を覆い尽くすほどの巨大な漆黒の飛竜の群れと、その中心に浮かぶ、山のように巨大な空中要塞だった。
要塞の側面に刻まれていたのは、黄金に輝く双頭の鷲の紋章。
それは、グランツ王国などとは比較にならないほどの圧倒的な国力と武力を誇る絶対的覇権国家、神聖クロノス帝国の国章だった。
「ク、クロノス帝国だと……!? なぜ、あの超大国の軍が我が国に……!」
レオンが絶望的な声を絞り出した直後、大聖堂の天井が轟音と共に吹き飛んだ。
バラバラと降り注ぐ瓦礫とガラス片の中、圧倒的な魔力の奔流が聖堂内に雪崩れ込んでくる。その魔力の重圧だけで、レオンも公爵も、そして誇り高き貴族たちも、強制的に床へ這いつくばらされた。
吹き飛んだ天井の穴から、一条の眩い光が差し込む。
その光に包まれて、空中要塞からゆっくりと降り立ってくる二つの人影があった。
一人は、漆黒の軍服に身を包み、万物をひれ伏させるような覇気と深紅の瞳を持つ、神聖クロノス帝国の若き皇帝、クロノス。
そして、彼に大切に抱えられ、ゆっくりと大聖堂の祭壇に降り立ったもう一人の人物を見た瞬間、レオンたちは己の目を疑った。
「な……アメ、リア……?」
レオンの喉から、かすれた声が漏れる。
そこに立っていたのは、間違いなく、数週間前に彼らが「無能」と罵り、ボロ布のような姿で荒野に捨てたはずのアメリア・ヴァン・ローズライトだった。
しかし、その姿は以前とは全く異なっていた。
夜空を織り込んだような最高級の漆黒のシルクドレスに身を包み、その上には皇帝クロノスのマントが羽織られている。首元には星屑のように輝く大粒のダイヤモンドが飾られ、丁寧に結い上げられた髪からは、一目で国宝級とわかるティアラが眩い光を放っている。
だが、何よりも彼らを驚愕させたのは、彼女の周囲を包み込む異常なまでの光景だった。
炎の獅子、水の蛇、風の乙女、大地の巨人。
神話の中でしか語られないような伝説級の高位精霊たちが、何万という数で彼女の周囲を飛び交い、傅き、彼女の足元に光の絨毯を敷き詰めているのだ。
かつて「精霊の加護がない」と蔑まれていた彼女が、今や精霊たちの頂点に君臨する女神のように立っていた。
「久しぶりね、レオン殿下。それに、リリア、お父様」
私の口から出た声は、大聖堂の隅々にまで氷のように冷たく響き渡った。
感情を一切交えない、ただ事実だけを述べるような冷徹な響き。
床に這いつくばったまま顔を上げた彼らの瞳には、恐怖と混乱、そして理解不能な事態に対する絶望が渦巻いていた。
「あ、アメリア……お前、その姿は……その精霊たちは一体……」
「お姉様……? 嘘よ、お姉様は精霊に嫌われた無能のはず……どうしてそんな高位の精霊様たちが……」
私は彼らの狼狽を、虫けらでも見るような冷ややかな目で見下ろした。
私の横に立つクロノスが、私の腰を抱き寄せ、レオンたちに向けて残酷な笑みを浮かべた。
「愚か者どもめ。貴様らがゴミのように捨てたこの女性こそが、すべての精霊に愛され、世界の理を統べる『精霊王の真嫁』だ。そして現在、我が神聖クロノス帝国の最愛の皇后である」
クロノスの宣言に、大聖堂の空気が完全に凍りついた。
精霊王の真嫁。皇帝の皇后。
その言葉の意味を理解しようと、彼らの頭脳が必死に回転しているのが手に取るようにわかる。
「精霊王の、真嫁……? ば、莫迦な! アメリアは加護すら見えなかったのだぞ! ずっと裏で地味な書類仕事ばかりしていた、何の役にも立たない女が……!」
「ええ、そうよ。私が裏でやっていた『地味な仕事』。あなたたちはそれをただの事務作業だと思っていたようだけれど」
私は一歩前に出た。高位精霊たちが私の歩みに合わせて道を空ける。
「あなたたちが当たり前のように使っていた王都の防衛結界。水源を維持する魔力供給。枯れない農地。それらすべては、私が書類を通じて魔力回路に干渉し、無意識のうちに精霊たちに指示を与えていたからこそ維持できていたのよ」
「なっ……」
「あなたが誇っていた水精霊も、リリアが侍らせていた風精霊も、私があなたたちを『家族』だと認識し、無意識に恩恵を与えていたからこそそばにいたに過ぎない。私の加護が大きすぎて、視認できるような低級精霊では私に近づくことすらできなかった。だからあなたたちの目には、私が無能に映っただけ」
事実を突きつけられ、レオンの顔から完全に血の気が引いた。
公爵もまた、口をパクパクと金魚のように開閉させ、言葉を失っている。
「私を追放した夜、私はあなたたちへのすべての情を捨てたわ。そして、この国に与えていた私の恩恵をすべて引き揚げさせてもらった。精霊のいないこの国は、もう魔力も水も食料も生み出せない。ただの死の土地よ」
私の言葉を裏付けるように、王都のあちこちから上がる爆発音と、民衆の悲鳴が聖堂にまで響いてくる。
私が与えていた命綱を切られたグランツ王国は、現在進行形で国家規模の崩壊を引き起こしているのだ。
「あ、アメリア……すまなかった! 私が愚かだった! お前がそれほどまでの力を持っていると知っていれば、お前を捨てることなどなかった! 頼む、この国を救ってくれ! お前は私を愛していたはずだろう!?」
レオンがプライドを捨て、床を這って私の足元にすがりつこうと手を伸ばしてきた。
しかし、その手が私の靴に触れるよりも早く、クロノスが指を軽く弾いた。
ドゴォォォォンッ!!
見えない強烈な衝撃波がレオンの体を吹き飛ばし、彼は聖堂の壁に激突して血を吐きながら崩れ落ちた。
「気安く私の妻に触れようとするな、汚らわしい虫ケラが。次にその手を伸ばせば、国ごと灰にするぞ」
クロノスの絶対的な殺気に当てられ、レオンは恐怖のあまり泡を吹いて失神寸前になった。
リリアはガタガタと震えながら、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして叫んだ。
「お、お姉様ぁ! ごめんなさい! 私が間違っていました! 殿下をお返しします! だから、だから許して! 私の魔力を返して! このままじゃ私、ただの平民以下の女になってしまうわ!」
「ア、アメリア! お前は私の娘だ! ローズライト家の血を引いているのだぞ! 親を見殺しにする気か!」
公爵もまた、醜く顔を歪めて必死に命乞いをしてきた。
彼らのその惨めな姿を見て、私の心の中にあった最後のわずかな蟠りすらも、完全に消え去った。
哀れみすら湧かない。ただ、ひたすらに滑稽で、無価値な存在だったのだと理解した。
私は、彼らを見下ろし、かつて彼らが私に投げつけた言葉を、そのまま返した。
「言い訳など聞きたくないわ。あなたたちのような恥知らずは、もはや私の家族でも何でもない」
「アメリア……っ!」
「私は、神聖クロノス帝国皇后として、グランツ王国への国交断絶、一切の経済的支援の打ち切り、および全魔力供給の完全停止を宣告する。あなたたちが私に依存し、搾取し続けてきたツケを、その命が尽きるまで支払いなさい」
私の冷酷な宣告が下された瞬間、大聖堂にいたすべてのグランツ王国の貴族たちが絶望の悲鳴を上げた。
国家の破滅。それは彼らの富も、地位も、命すらも奪われることを意味している。
「クロノス、もういいわ。こんな埃っぽい場所、長居したくないの」
「ああ、君の言う通りだ。愛しいアメリア。我々の美しい城へ帰ろう」
クロノスは私を優しく抱き上げると、再び空に浮かぶ空中要塞へと向かって舞い上がった。
眼下に広がるのは、私が長年支え、そして私自身の手で見捨てた王国の崩壊していく姿。
レオン、リリア、お父様。
あなたたちが絶頂の瞬間に味わう奈落の底の味は、どうかしら。
私はクロノスの温かい胸の中で、この数週間で初めて、心からの冷たい微笑みを浮かべた。
反撃は終わった。残るは、彼らが泥水をすする完全なる破滅と、私が手に入れた真の幸福だけだ。
天空へ昇っていく私たちを、絶望の叫び声がどこまでも追いかけてきたが、私の耳にはもう、クロノスの甘い心臓の音しか聞こえていなかった。




