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第2話 世界が私に平伏する夜、最強の精霊王様が迎えに来ました

冷たい夜風が、無残に引き裂かれたドレスの隙間から入り込み、私の肌を容赦なく刺す。

ここは、グランツ王国の最北端に位置する国境の荒野。魔物が徘徊し、草木すらまともに育たない死の土地だ。兵士たちによって馬車から乱暴に蹴り落とされた私は、固く冷たい土の上に這いつくばったまま、身動き一つ取れずにいた。

頭上には、建国祭の華やかなイルミネーションとは対極にある、冷酷なまでに青く澄んだ満月が浮かんでいる。遠くの方で、飢えた魔物たちの遠吠えが風に乗って響いてきた。普通であれば、恐怖で泣き叫んでいるところだろう。しかし、今の私の心にあるのは、氷河の底のように冷たく沈み込んだ虚無感だけだった。

頬の腫れは熱を持ち、擦りむいた手足からは血が滲んでいる。だが、身体の痛みなどどうでもよかった。

私を十数年間縛り付けていた鎖――「善意」と「忍耐」――が、音を立てて砕け散ったのだ。国のため、民のため、そして家族や婚約者に認められるために捧げてきた私の人生は、公衆の面前での罵倒と暴力という、この上なく無残な形で終わった。

彼らは私を「精霊に見放された無能」と呼んだ。私が裏で血反吐を吐きながら調整し、構築してきた国家の魔力回路や財政の立て直しなど、すべて最初からなかったかのように踏みにじった。彼らにとって、私はただの便利な道具であり、用済みになればゴミのように捨てるのが当然の存在だったのだ。


「……あはっ、馬鹿みたい。本当に、私って馬鹿だったのね」


乾いた笑いが唇から漏れる。

愛されるために努力すれば、いつか報われる。そんなお伽話のような幻想を信じていた自分が酷く滑稽に思えた。レオン殿下の傲慢な顔、リリアの歓喜に歪んだ口元、父の冷酷な眼差し。彼らの顔を思い出すたびに、胸の奥底で燻っていた暗い炎が、次第に形を持ち、私の全身の血液を沸騰させるほどの激しい怒りへと変わっていく。

許さない。絶対に。

彼らが私からすべてを奪ったように、彼らが最も価値を置いているものを、彼らが信じて疑わない優位性を、根本から叩き潰してやる。

そう決意した瞬間、私の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。

悲しみの涙ではない。決別と、新たなる私自身の誕生を告げる、冷たく透き通った涙だった。


ぽつり。


その涙が、荒野の乾いた大地に落ちた瞬間だった。

世界が、唐突に反転した。

周囲の空気が一瞬にして凍りつき、次の瞬間、爆発的なエネルギーの奔流が巻き起こった。ヒュゴォォォォッという凄まじい風鳴りと共に、私の周囲の空間がぐにゃりと歪み始める。


「え……? 何が……」


驚いて顔を上げた私の視界に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。

何もないはずの荒野の空から、無数の光の粒が滝のように降り注いでくる。赤、青、緑、黄金。眩いばかりの光が渦を巻き、やがてそれは明確な形を取り始めた。

燃え盛る炎を纏った巨大な獅子、清らかな水流で構成された大蛇、暴風を身に纏う美しい乙女、大地を揺るがす岩の巨人。それは、古の神話や書物の中でしか語られることのない、伝説級の高位精霊たちだった。

建国祭でレオン殿下やリリアが侍らせていたような、小さな低級精霊とは次元が違う。彼らが一つ息をするだけで地形が変わってしまうほどの、圧倒的で恐ろしいまでの魔力を持った存在。それが今、何万、何十万という数で、天空を埋め尽くすように顕現していたのだ。


『我らが主よ』

『永き時を経て、ついに御目覚めになられたのですね』

『おお、我らが真なる光、我らが母よ』


幾重にも重なる荘厳な声が、直接私の脳内に響き渡る。

信じられないことに、神のごとき力を持つ高位精霊たちは、みすぼらしい姿で座り込む私の周囲を円状に取り囲み、一斉にその頭を垂れ、平伏したのだ。

同時に、私の身体の奥底から、これまで感じたことのない途方もない熱と力が湧き上がってきた。

心臓の鼓動に合わせ、莫大な魔力が血流に乗って全身を駆け巡る。破れたドレスの隙間から覗く傷跡が、淡い光に包まれたかと思うと、瞬く間に塞がり、元の白い肌を取り戻していく。父に打たれて腫れ上がっていた頬の痛みも、冷え切っていた手足の感覚も、すべてが温かな魔力によって癒されていく。


「これが……私の、力……?」


私は、自分が「精霊に見放された無能」などではなかったことを悟った。

私の中に眠っていた魔力と精霊との親和性は、あまりにも巨大すぎたのだ。巨大すぎるがゆえに、並の精霊たちでは恐れをなして私に近づくことすらできず、高位精霊たちは私が自らの意志でこの力を解放する「その時」を、ずっと影から見守り続けていたに違いない。

だから私は精霊を視認できなかったのだ。私の器は、世界そのものを統べるために作られていたのだから。


その時、平伏する精霊たちの群れが、モーセの海割れのように左右に道を開けた。

圧倒的な魔力の密度に、空気が震え、空間に亀裂が入るような錯覚を覚える。

開かれた道の奥から、一人の男がゆっくりと歩み寄ってきた。

彼が足を踏み出すたびに、大地に黄金の華が咲き乱れ、荒涼とした荒野が瞬く間に美しい楽園へと変貌していく。

彼は、人間離れした超絶的な美貌を持っていた。星空を溶かし込んだような漆黒の髪に、万物をひれ伏させるほどの魔力と威厳を宿した、深紅の瞳。身に纏う漆黒の軍服には、隣国である神聖クロノス帝国の皇帝の紋章が刻まれている。しかし、彼から放たれる気配は、ただの人間のものではなかった。

彼こそが、精霊たちの頂点に立つ絶対的な存在。最強の精霊王であり、人間の姿をとって大帝国を統べる若き皇帝、クロノスだった。


「やっと見つけた。私の半身、我が真なる花嫁よ」


甘く、低く、鼓膜を直接撫でるような声。

クロノスは私の目の前で歩みを止めると、皇帝という絶対的な立場でありながら、汚れた大地に躊躇いなく片膝をついた。そして、私の泥に汚れた手を取ると、宝物を扱うかのように恭しく額を押し当てた。


「クロノス……皇帝陛下……? なぜ、あなたがここに……」

「私を陛下などと他人行儀に呼ぶな。クロノスと呼んでくれ、私の愛しいアメリア」


彼が私の名前を呼んだ瞬間、その深紅の瞳に狂気的なまでの執着と、とろけるような甘い愛情が浮かび上がるのを見た。


「君が流した一滴の涙が、世界の理を揺るがし、私をここまで導いたのだ。君は『精霊王の真嫁』。この世界に存在するすべての精霊に愛され、彼らを統べる資格を持つ、ただ一人の女性だ。君のその絶大な無意識の加護があったからこそ、あの愚かなグランツ王国はこれまで繫栄を維持できていたに過ぎない」


クロノスの言葉に、点と点が繋がっていく。

私が裏でこなしていた膨大な執務。それは単なる物理的な計算や調整ではなかったのだ。私が無意識のうちに魔力回路に干渉し、精霊たちに指示を与え、国の水源や農作物、結界の維持を行っていたのだ。レオン殿下が水精霊を使役できたのも、リリアが風精霊に愛されていたのも、すべては私が彼らを「家族」や「婚約者」として認識し、無意識の恩恵を与えていたからに他ならない。

彼らは自らの実力だと信じて疑わなかっただろうが、その実、私の手のひらの上で踊らされていただけだったのだ。


「ああ……なんて痛ましい姿だ。君のような尊く美しい存在を、このような目に遭わせるなど。あの愚物どもは、百万回殺しても飽き足らない」


クロノスは私の破れたドレスと、首元の千切れたネックレスの跡を見て、その深紅の瞳に凄まじい殺意を閃かせた。彼の怒りに呼応するように、周囲の精霊たちが一斉に咆哮を上げ、大地が震える。

しかし、彼はすぐにその殺意を引っ込めると、自らの着ていた分厚く豪奢な漆黒のマントを脱ぎ、私をすっぽりと包み込んだ。


「だが、今は彼らを罰することよりも、君を温めることが先だ。よく頑張ったね、アメリア。これからは、私が君のすべてを守り、君の望むすべてを与えよう。君の指一本、髪の毛一筋に至るまで、もう誰にも触れさせはしない」


力強く、それでいて壊れ物を扱うかのように優しく、クロノスは私を抱き寄せた。

彼の広い胸から伝わってくる熱と、私を絶対的に肯定し、保護しようとする狂おしいほどの愛情。これまで誰からも与えられなかった「無条件の愛」が、そこにはあった。

私はクロノスの胸に顔を埋めながら、静かに目を閉じた。

不思議なことに、心はどこまでも穏やかで、氷のように澄み切っていた。

かつての私なら、これほど強大な力を手に入れたなら、それでもなお故郷を助けようとしたかもしれない。しかし、今の私にそんな愚かな慈悲の心は一欠片も残っていない。


「クロノス。あなたは、私の望みを何でも叶えてくれるの?」

「当然だ。私の力も、帝国の富も、精霊たちの命も、すべては君のためにある。君が世界を焼き尽くせと命じるなら、今すぐこの大陸を灰に変えてみせよう」


迷いなく断言する彼を見上げて、私は氷のように冷たく、美しい微笑みを浮かべた。自分でも驚くほど、声は冷徹に響いた。


「世界は焼かなくていいわ。でも……私を虐げ、利用し尽くし、嘲笑って捨てた彼らだけは、絶対に許さない」

「ああ、君の望むままに。彼らにどのような絶望を与えようか」

「彼らから、私の恩恵をすべて引き揚げて。グランツ王国全土の魔力供給、水源の維持、大地の豊穣、結界の保護。私が無意識に与えていたもの、すべてよ。彼らがどれほど私の力に依存し、寄生していたか、その身をもって思い知らせてあげる。そして、彼らが最も幸福の絶頂にいる瞬間に、奈落の底へ突き落とすの」


私の静かな、しかし残酷な命令を聞いた瞬間、クロノスの深紅の瞳が歓喜に震え、恍惚とした表情を浮かべた。


「素晴らしい。君のその冷酷で気高い瞳、本当に堪らない。君が彼らを見限ってくれて、私は心から嬉しいよ。君の命令の通り、グランツ王国へのすべての精霊の加護を直ちに遮断させよう」


クロノスが指を鳴らすと、周囲に平伏していた高位精霊たちが一斉に天高く舞い上がり、四方八方へと散っていった。彼らはこれから、グランツ王国に張り巡らされていた私の加護を一つ残らず剥ぎ取りに向かうのだ。

彼らが当たり前のように享受していた繁栄は、明日から音を立てて崩れ去るだろう。

レオン殿下、リリア、そしてお父様。

あなたたちが私を捨てたその瞬間から、あなたたちの破滅は約束されたのよ。


「さあ、帰ろう、私の愛しい皇后。我が帝国は、君の帰還を心待ちにしている」


クロノスは私を横抱きにすると、甘く囁きながら私の額に誓いの口づけを落とした。

私は彼に身を委ねながら、遠くに見えるグランツ王国の城の明かりを冷ややかな目で見つめた。

反撃の準備は整った。

次に出会う時、あなたたちがどのような惨めな顔をして泣き叫ぶのか、今から楽しみでならないわ。

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