第1話 すべてを捧げた私への見返りは、公衆の面前での婚約破棄でした
建国祭の夜は、この国が最も美しく輝く瞬間だ。
王城の広大な大広間を照らす巨大な魔石のシャンデリアから降り注ぐ光が、貴族たちのまとう最高級のシルクや宝石を乱反射させ、目眩がするほどの色彩の渦を作り出している。楽団が奏でる優雅なワルツの調べは、杯を合わせる微かな音や、貴婦人たちの甲高い笑い声と混ざり合い、この世の春を謳歌するような喧騒を生んでいた。
私、アメリア・ヴァン・ローズライトは、壁際の目立たない柱の陰から、その華やかな光景を静かに見つめていた。
手にしたグラスのシャンパンはとうにぬるくなり、炭酸も抜けてしまっている。しかし、喉を潤す気すら起きなかった。ひどく体が重い。目尻をこすりたくなるほどの深い疲労感が、足の先からじわじわと這い上がってきている。
それもそのはずだった。この建国祭を成功させるため、私はここ数週間、まともに睡眠をとっていないのだ。
「……ようやく、無事に始まったわね」
誰にともなく呟いた声は、ワルツの音にかき消されて消えた。
各国の要人を招くための複雑な席次調整、出し物の手配、数万もの魔石を用いた城全体のイルミネーションの魔力回路構築、そして何より、今年の異常気象によって高騰した食材の調達ルートの確保。それらすべてを取り仕切ったのは、他でもない私だ。
本来であれば、それは次期国王である王太子レオン殿下の仕事のはずだった。しかし、彼は「王太子の仕事は上に立って微笑むことだ。泥臭い実務はお前のような無能がやればいい」と吐き捨て、自分の名前のサインが必要な書類すらもすべて私の執務室に投げ込んできた。
私は、精霊の加護が視認できない。
この世界において、精霊の加護は絶対的な価値を持つ。魔力の源であり、その人の才能や身分すらも決定づけるものだ。光り輝く精霊を侍らせる者が尊ばれ、私のように精霊の姿が周囲に見えない者は、問答無用で「無能」の烙印を押される。
ローズライト公爵家という、建国から続く名門中の名門に生まれながら、私には加護がなかった。
そのため、幼い頃から実の父である公爵からは「家門の恥」「役立たず」と罵られ、使用人たちからもあからさまな軽蔑の目を向けられてきた。婚約者であるレオン殿下でさえ、私を次期王妃として尊重することなど一度もなかった。彼の目に映る私は、ただの都合の良い労働力でしかなかった。
それでも私は、歯を食いしばって耐えてきた。
加護がないのなら、知識と努力で補えばいい。血の滲むような思いで政治、経済、魔法陣学、歴史、あらゆる学問を修めた。レオン殿下が放置した公務を密かに代行し、破綻しかけていた王国の財政を立て直し、隣国との複雑な外交問題も裏から手を回して解決に導いた。
すべては、私を育ててくれた国への恩返しのため。そして、いつかレオン殿下や父に、少しでも私の存在価値を認めてもらうため。
「善意」と「忍耐」。それだけが、私の冷え切った心を繋ぎ止める細い糸だった。
「皆様、ご機嫌よう。素晴らしい夜ですね」
ふいに、会場の空気が変わった。
中央の大階段の上に、一人の青年が姿を現した。金糸を紡いだような美しい髪と、サファイアのような青い瞳。この国の王太子であり、私の婚約者であるレオン・フォン・グランツ殿下だ。
彼が登場した瞬間、会場中の視線が引き寄せられ、大きな歓声が上がる。彼自身もまた、高位の水精霊を身に纏い、その姿はまさに次期国王にふさわしい威風堂々たるものだった。
しかし、私の視線は彼の隣にいる人物に釘付けになった。
「え……?」
レオン殿下の腕に親しげに腕を絡ませ、まるで自分が主役であるかのように微笑んでいる少女。
プラチナブロンドの髪をふわりと巻き、愛らしいピンクのフリルドレスを身に纏った彼女は、私の異母妹、リリア・ヴァン・ローズライトだった。
リリアの周囲には、可愛らしい小鳥のような低級の風精霊たちが舞い飛んでいる。低級とはいえ、視認できる精霊の加護を持つ彼女は、無能な私とは違い、父からも周囲からもチヤホヤされて育った。
なぜ、リリアが殿下のエスコートを受けているのか。
本来、あそこに立つべきは婚約者である私のはずだ。事前の打ち合わせでも、殿下と一緒に階段を降り、この国を支える次期王妃としての顔を諸外国に見せる手はずになっていた。
胸の奥で、氷のように冷たく嫌な予感が渦を巻く。
レオン殿下は階段の途中で立ち止まると、会場を見渡し、よく響く声で高らかに宣言した。
「皆の者、今宵の建国祭に集まってくれたこと、心より感謝する。そしてこの佳き日に、私は重大な発表をしたいと思う!」
会場が水を打ったように静まり返る。
レオン殿下の青い瞳が、群衆の中を探るように動き、そして、柱の陰にいた私を正確に射抜いた。
その瞬間、彼の唇の端が、歪で残酷な弧を描いたのを私は見逃さなかった。
「私、レオン・フォン・グランツは、アメリア・ヴァン・ローズライトとの婚約を、只今をもって破棄する!!」
雷鳴のような宣言が、豪華なホールに響き渡った。
一瞬の完全な静寂の後、爆発したようなどよめきが波のように広がる。私は自分の耳を疑い、息を呑んだ。
「で、殿下……? 今、なんと……」
「聞こえなかったのか、無能! 私はお前との婚約を破棄すると言ったのだ!」
レオン殿下は階段から見下ろすように私を指差し、嘲笑に満ちた声を張り上げた。
「精霊に愛されない無能な女など、次期王妃に相応しいわけがないだろう! お前のような陰気で、華もなく、魔力の一欠片も持たない女が私の隣に立つなど、国全体の恥だ! 私の威光に傷がつく!」
「そんな……私はこれまで、殿下のために……!」
「黙れ! 私がお前のような女に何をしてほしいと願ったことなど一度もない! お前が勝手に裏でコソコソと書類を弄り回していただけだろう。私の輝かしい功績に、お前の薄汚い手を介入させるな!」
息が止まりそうになった。
私が血を吐くような思いでこなしてきた公務。彼が投げ出し、放置すれば国が傾いていたであろう膨大な仕事。それを処理するため、私は自分の青春のすべてを犠牲にしてきた。それがすべて「勝手にコソコソ弄り回していた」「薄汚い手」と公衆の面前で一蹴されたのだ。
レオン殿下は隣にいるリリアを引き寄せ、彼女の華奢な肩を抱いた。
「次期王妃に相応しいのは、ここにいるリリアのような、真に精霊に愛され、可憐で心優しい女性だ。私はリリアと真実の愛を見つけた。今日から彼女が、私の新たな婚約者である!」
再び、会場が大きなどよめきに包まれる。
しかし、そのどよめきの中に、私を庇う声は一つもなかった。むしろ、貴族たちは冷ややかな目で私を見合い、ヒソヒソと嘲りの言葉を交わし始めている。
「やはり、無能令嬢は捨てられたか。当然の報いだな」
「精霊も見えないような呪われた女が王妃なんて、不吉すぎるもの」
「リリア様こそが殿下にふさわしいわ。なんてお似合いのお二人なのかしら」
四面楚歌。その言葉が、私の脳裏をよぎる。
リリアはレオン殿下の胸に顔を埋めながら、チラリと私の方を見た。その瞳は涙ぐんでいるように見えたが、唇の端は間違いなく歓喜に吊り上がっていた。
「お姉様……ごめんなさい。私、お姉様からレオン殿下を奪うつもりなんて本当になかったの。でも、殿下と私の惹かれ合う心は止められなくて……お姉様みたいな加護のない可哀想な人から、唯一の希望である殿下を奪うなんて、私、本当に罪深いわ。どうか、どうか許して……」
震える声で紡がれる、完璧な悲劇のヒロインの台詞。
その言葉を聞いて、周囲の貴族たちは「なんてお優しいリリア様」「悪いのは身の程知らずに殿下にすがりついていた姉の方だ」と口々に称賛と私への非難の声を上げた。
怒りで指先が震え、爪が手のひらに食い込む。
彼女はいつもそうだ。私が大切にしているものを、姉妹という立場と、その可憐な外見を利用して容赦なく奪い取っていく。お気に入りのドレスも、母の形見の宝石も、そして今度は婚約者までも。そしていつも、自分が被害者であるかのように振る舞い、周囲の同情を集めるのだ。
「リリア……あなた、自分が何を言っているか分かっているの? 殿下も、これまでの私の仕事がなければ、この国がどうなっていたか……」
反論しようと、震える足で一歩前に出た瞬間だった。
バァァンッ!!
頬に鋭い痛みが走り、視界が真っ白に弾けた。
強い衝撃に耐えきれず、私は硬い大理石の床に無様に崩れ落ちた。口の中に鉄の味が広がり、耳鳴りがガンガンと響く。
何が起きたのか理解できず、ぼんやりと見上げると、そこには鬼の形相をした父、ローズライト公爵が立っていた。彼の振り抜かれた右手が、わずかに震えている。
「黙れ、この出来損ないが!!」
父の怒声が、ホールをビリビリと震わせる。
彼は倒れ込んでいる私を見下ろし、まるで汚物を見るような目をした。
「貴様はどこまでこの家門の顔に泥を塗れば気が済むのだ! 殿下から見放された上に、可愛らしい妹の幸せを邪魔しようと嘘を並べ立てるとは。加護を持たぬ無能であるだけでなく、心まで卑しく腐りきっているとはな!」
「お父様……私は嘘など……私はただ、真実を……」
「言い訳など聞きたくない! 貴様のような恥知らずは、もはや我がローズライト家の娘ではない。今この瞬間をもって、貴様を勘当する!」
父は私の胸倉を乱暴に掴み上げ、強引に引きずり起こした。そして、私が身につけていた公爵家を示す紋章入りのネックレスに手をかけた。
「ああっ、やめて!」
「貴様に名乗る家などない!」
ブチリという音と共に、銀のチェーンが千切れ、誇りだった冷たい石が床に転がり落ちる。
「そのドレスも貴様にはもったいない。我が家が金を出して与えたものだ、すべて置いていけ!」
父は私の肩口を力任せに掴み、ドレスの袖を乱暴に引き裂いた。ビリビリと最高級の絹が裂ける嫌な音が響き、私の白い肌が冷たい空気に晒される。髪を結い上げていた装飾品も次々とむしり取られ、私の髪は乱れ、みすぼらしい姿へと成り果てた。
周囲からは悲鳴とも歓声ともつかないどよめきが上がったが、誰も父の暴力を止めようとはしなかった。レオン殿下は腕を組みながら満足そうに鼻で笑い、リリアは両手で顔を覆って怯えるフリをしながら、指の隙間から私を観察して暗い悦びに浸っていた。
「近衛兵! この薄汚い女を会場からすぐにつまみ出せ! 国境近くの魔物が出る荒野にでも放り出してこい。二度と私の視界に入るな!」
父の命令に従い、二人の屈強な兵士が進み出て、私の両腕を乱暴に掴んだ。
「放して! 私は何も間違ったことはしていない! 殿下、お父様、どうか目を覚ましてください! 私がいなくなれば、この国の魔力回路の維持も、財政の管理も、すべて滞ってしまうんですよ!」
「見苦しいぞ、アメリア! 貴様がどれほど喚こうと、現実が変わることはない。無能の妄言など聞くに堪えん。さっさと連れて行け!」
レオン殿下の冷酷な声が、私の最後の叫びを無残に切り裂いた。
兵士たちに引きずられながら、私は必死に抵抗した。しかし、重労働で酷使してきたとはいえ、力の弱い女の細腕では、鍛え抜かれた兵士たちを振り解くことなど到底不可能だった。靴が脱げ、素足が大理石の床を擦る。
美しいシャンデリアの光が、残酷なほどゆっくりと遠ざかっていく。
楽しげなワルツの調べが、私の人生の終わりを告げる葬送曲のように耳に響く。
扉の向こうに引きずり出される直前、私は振り返って会場を見た。
私のいなくなった光の中心で、レオン殿下とリリアが手を取り合い、優雅にダンスを踊り始める姿があった。父がそれを見て満足そうに頷き、貴族たちが彼らに心からの祝福の拍手を送っている。
誰一人として、私を惜しむ者はいなかった。
誰一人として、私の痛みに寄り添う者はいなかった。
重い木製の扉が、大きな音を立てて閉ざされた。
光と喧騒が完全に遮断され、私は冷たく暗い廊下へと引きずり出された。
「さっさと歩け、無能令嬢」
「手こずらせるんじゃねえぞ。公爵様の命令通り、国境の荒野に捨ててやるからな」
兵士たちの粗暴な言葉を浴びながら、私は抵抗する気力を完全に失い、ただ引きずられるままになっていた。
胸の中にぽっかりと開いた暗い穴から、身を切るような冷たい風が吹き込んでくるようだった。
私が捧げてきた十数年の歳月。
睡眠を削り、倒れるまで机に向かい、血を吐くような努力で積み上げてきた知識と実績。
彼らを裏から支え、この国を少しでも豊かにするために注いできた無償の献身。
それらすべては、彼らにとっては何の意味もなかったのだ。
「善意」も「忍耐」も、あの傲慢で底なしに愚かな者たちにとっては、ただの都合の良い踏み台でしかなかった。私がどれだけ身を粉にして尽くそうと、彼らは最初から私を人間としてすら見ていなかったのだ。
私は、窓のない冷たい罪人用の馬車に放り込まれ、夜の闇の中を揺られ続けた。
破れたドレスから覗く肌が凍え、千切られたネックレスの跡がヒリヒリと熱を持って痛む。父に打たれた頬は腫れ上がり、口の中の血の味はいつまでも消えない。
しかし、体の痛みよりも、心を満たす底なしの虚無感の方が遥かに強かった。
どうして、私がこんな目に遭わなければならないの?
私が一体、どんな罪を犯したというの?
ただ、彼らに愛されたかっただけなのに。ほんの少しでも、家族として、婚約者として認めてほしかっただけなのに。
馬車の小さな鉄格子の窓から見える月は、信じられないほど冷たく、青く輝いていた。
その冷ややかな光を見つめながら、私の中で張り詰めていた何かが、ついに完全に壊れる音がした。
悲しみも、未練も、絶望すらも、冷たい灰のように静かに積もっていくのを感じた。
涙すら、もう一滴も出なかった。
ただ、私を嘲笑ったレオンの傲慢な顔、私からすべてを奪い取ったリリアの歪で醜い笑顔、私をゴミのように捨てた父の冷酷な瞳だけが、脳裏に鮮明に焼き付いて離れない。
許さない。
絶対に、許さない。
私の心に、これまで抱いたこともないような、どす黒く冷たい炎が灯り始めていた。
彼らが私の人生を踏みにじり、私からすべてを奪い、私をこの絶望の淵に突き落としたように。
いつか必ず、彼らが最も大切にしているものをすべて破壊し、取り返しのつかない絶望と後悔を味わわせてやる。
馬車は止まることなく、私をこの国から、彼らの世界から切り離すために、魔物が徘徊する暗い荒野へと向かって走り続けていた。




