スモーキング・エスケープ
灰色の重い扉が、二人の間に越えられない壁として立ちはだかっていた。
ここは雑居ビルの片隅にある、狭い喫煙室の前。クミは苛立ちを隠そうともせず、ノブに手をかけた。
「開けなさいよ」
「開いてるよ」
扉の向こうから、ゴウの間の抜けた声が返ってくる。
「嘘おっしゃい。開かないように踏ん張ってるでしょ」
「してないって。ただ、この建付けが悪いだけだよ」
押し問答を続けるつもりはない。クミは声を鋭く研ぎ澄ませた。
「単刀直入に言うわ。浮気してたでしょ!」
「してないよ。知ってるだろ、俺って奥手だし。女性と二人きりになるなんて、もう五年は記憶にないな」
白々しい。クミは鼻で笑った。
「はー! たった今、他の女と一緒にいるところを見られて、ここに逃げ込んだのはどこの誰よ!」
「逃げてないって!」
「逃げろっ、てハッキリ言ったじゃない!」
一瞬、扉の向こうが静まり返る。ゴウは沈黙で逃げ切ろうとしたが、クミの追及は止まらない。
「……自分に言ったんでしょ、今の」
「違う違う。逃げてほしかったのは俺じゃないんだ」
「じゃあ誰よ!」
再びの沈黙。ゴウは観念したように、消え入りそうな声で白状した。
「……『逃げろ! クミ、後ろ!』って言いたかったんだよ。ああ、君が助かって本当に良かった」
クミは一瞬、呆気に取られて立ち尽くした。
「はあ? ……何、浮気された女にだけ見える貧乏神でも背後にいたってわけ?」
沈黙。
「あとね、喫煙所に逃げ込むな! 吸いたい人が困ってるでしょ!」
クミが渾身の力で肩を入れると、抵抗が不意に消え、扉が勢いよく開いた。ゴウがよろけながら後退する。クミはすぐさま中へ踏み込み、周囲を見渡した。
「誰もいないじゃない。……窓もないのに」
「騙される方が悪いよ」
ゴウはバツが悪そうに頭を掻いた。
「さあ、説明してもらおうじゃない」
「実はさ……俺、副業で映画監督してるんだ。さっきの女性は俳優さん。演出の打ち合わせをしてただけだよ」
「あんたが専門学校出てたのは知ってるけど」
ゴウの言い訳は、次第に熱を帯びてくる。
「『逃げろ!』も演技指導の一環。でもさ、クミの後ろにいたあの怪しげな男……あれは俺の知り合いじゃないんだよな」
「えっ、何それ怖い」
「昨日この付近であった殺人事件、知ってるだろ? 犯人の人相書きにそっくりなんだよ。包囲網が厳しいから、まだ近くに潜伏してるって噂だし」
クミの背筋に冷たいものが走る。ゴウはさらに声を潜めた。
「追い詰められた犯人が逃げるなら、もう誰かを人質に取るしかないかもな……」
「やめてよ、脅さないで」
その時だった。
コン、コン。
無機質なノックの音が、薄い扉を叩いた。
「やばい。ここ、扉はあるけど鍵が閉まらない設計なんだ」
ゴウの顔から血の気が引く。彼は慌ててドアへ駆け寄り、背中で扉を必死に押さえた。
「開けるな! 誰だ!」
扉の向こうから強い力がかかり、押し問答が始まる。しかし、恐怖で震えるゴウの力は弱く、ついには押し切られるようにして扉が開け放たれた。
そこに立っていた「何か」を、二人は息を呑んで見守った。
「……やっぱり浮気してた」
クミの冷ややかな声が、狭い喫煙室に響く。
「違う、演出だって!」
「今日また新たな殺人が、この街の喫煙所で!」
「ひいー!」
紫煙の消えた部屋で、二人の滑稽な絶叫だけが空虚に響き渡っていた。
*コントを小説にしました*
コント「逃げろ」
―――舞台―――
喫煙室のドアの前
――ー ―――
女:開けなさいよ
男:開いてるよ
女:開かないようにしてるでしょ
男:してないよ
女:単刀直入に言うわ!浮気してたでしょ!
男:してないよ。オレって奥手だから女性とふたりっきりになるってことすらもう5年はないな~
女:はー!!!たった今、他の女と一緒に居るとこ見られてここに逃げ込んだんでしょ!
男:逃げてないよ!
女:はー!!!「逃げろっ」ってハッキリ言ったじゃない!
男:・・・
女:自分に言ったんでしょ!」
男:違う違う、逃げてほしかったのは俺じゃない
女:じゃあ誰!
男:…
女:はあ?
男:「逃げろっ!クミ後ろ!」って言いたかったんだよ、助かって良かったよ
女:はっ???(間)
女:浮気された女にだけ見える貧乏神でもいた?(間)
女:あと喫煙所に逃げ込むな!吸いたい人困ってんのよ!」
―――男、仕方なく開ける。―――女、喫煙所内に入る
男:誰もいないじゃん!
女:騙されるのが悪い。さあ、説明してもらおうじゃない
男:実は、オレ、副業で映画監督してて、さっきの女性は俳優さん。演出の打ち合わせしてただけ
女:ゴウが映画の専門学校出てるのは知ってるけど
男:「逃げろ!」も演技指導。でも、クミの後ろにいた怪しげな男は知らないんだよな
女:え、怖い!
男:昨日このへんであった殺人事件の犯人に似てるんだよなあ
女:包囲網が厳重だから、まだ近くに潜伏してるって言われてるやつだ
男:もう逃げるなら誰かを人質に取るしかないかもな
女:脅さないでよ。あっ、今、ノックされなかった?
男:やばい。ココ扉はあるけど鍵は閉まらない設計
―――男、焦って駆け足でドアへ、押し問答→押し問答に負けドアは開かれる
―――架空の登場人物が現れ何か言ってるのを見守る2人
女:やっぱり浮気してた
男:違う、演出だって
女:今日また新たな殺人がこの街の喫煙所で!
男:ひいー




