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英雄になれなかった勇者

作者: 猫治

丘の上には、風しか来ない。

 剣も旗も、もう立っていない石碑の前で、老人は今日も箒を動かしていた。


 この墓を訪れる者は、もう何年もいない。

 世界を救った勇者の墓だというのに、人々は別の英雄の名を語り、別の物語に熱狂している。平和とは、そういうものだと老人は思っていた。


「……今日は、風が強いな」


 誰に聞かせるでもなく呟き、墓前に積もった落ち葉を払う。

 石には名が刻まれていない。勇者は名を残すことを拒んだからだ。


 ――名が残れば、嘘も残る。


 それが、彼の口癖だった。


 老人は勇者の仲間ではない。剣を振ったことも、魔法を使ったこともない。ただの従者で、道具の手入れと火起こしが役目だった。だが、勇者の最期を見届けた者は、この世界で彼一人だけだった。


 勇者は、最後の戦いで勝った。

 だが、致命的な傷を負っていた。


「俺が死んだら、墓を守ってくれ」


 血に濡れた勇者は、笑ってそう言った。


「英雄譚にするな。世界を救ったなんて言うな。

 俺はただ、間に合わなかっただけだ」


 勇者は、救えなかった村の名を口にした。

 だからこそ魔王を倒したのだと、そう語った。


 老人は何も答えられなかった。


 丘の下から、子供の声が聞こえた。

 数人の子供たちが駆け上がってきて、墓の前で足を止める。


「ねえ、おじいさん。これ、誰のお墓?」


 老人は少し考えてから答えた。


「昔の、旅人だよ」


「勇者じゃないの?」


「違うな」


 嘘ではなかった。

 勇者は、自分を勇者だと思っていなかった。


「なんで、こんなところに一人で?」


「誰にも見つからない場所が、好きだったんだ」


 子供たちは首を傾げ、やがて興味を失って丘を駆け下りていった。

 老人はその背中を見送り、墓に向き直る。


「……今日も、語られなかったな」


 それでいい。

 英雄として語られれば、彼は嘘になる。


 日が沈み、丘は橙色に染まった。

 老人は墓前に腰を下ろし、静かに言った。


「あなたが救ったのは、世界じゃない。

 それでも、私はあなたを誇りに思っています」


 風が吹き、草が揺れた。

 返事はない。だが、老人はそれで十分だった。


 勇者の物語は、ここで終わっている。

 語られない限り、歪められることもない。


 老人は立ち上がり、箒を肩に担ぐ。


 明日もまた、誰にも知られない墓を守るために…

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