ガラス越しの恋
水槽のガラス越しにみると、デスクに座った彼女は現在仕事中。
今日はどんなお仕事だろう。
ショートカットの彼女がちらりとこっちを見てくれた。
嬉しくて身体がぴくんとはねてしまった。
ミックは彼女のことが大好きなのだ。
初めて彼女がこの水槽の中に来た時のことをミックは思い出す。
最初は何だこいつと思って体当りしてやった。
ここはわいの水槽だぞ、餌取られたらたまらんわ!
その変な魚は、ミックにしっぽを当てられてバランスを崩した。
「キャ、やめて。敵じゃないよ」
その奇妙な魚は、ミックにそう意識をよこした。
「怪しいやつやな!エラで息してへんやん。死んでるんちゃう?」ミックが言うと、そいつはゆっくり体を起こした。
「私の名前は由美子です。はじめまして。君から見えるかな。あそこのデスクに座ってるのが私だよ。今はこの水中ドローンに意識をのせているの」
驚いた。この変な魚が最愛の彼女だったとは。
「わいはミックやけど。あ、この名前つけてくれたんはあんただっけかな」
疑う心はあったがミックは、むしろ信じたいと思った。
「そうだよ。でも、まさか君とお話ができるなんて思ってなかった」
言いながら彼女の魚は身体をくねらせた。
ひきつるような動きは生物とは全く違っている。
かくかくした、いびつな動きだった。
「でもさ。本当にあんさんが人間なら、わいにご飯くれてたのもあんさんってこと?」
「きみ、言葉が面白いね。いや、これはあたしが作った翻訳ソフトの所為か。もちろん、あたしがご飯あげてたんだよ」
「だったら、 わいはもっと生きのいいのが食べたいんやけど」
「わかった。今度近くの釣具屋さんで生き餌買ってくるよ」
そう言う彼女だったが、次の瞬間、彼女の不安な気持ちがミックの中に響いていた。
「どうかしたんか?」
ミックの問いかけに彼女は答えない。
変な魚の体の動きがおかしくなり、徐々に水槽の底に沈んでいく。
「おかしいな。身体が動かなくなってきたの。一旦接続切るね」
魚の彼女は底の砂の上に横たわったまま、ピクリとも動かなくなった。
「あれ? 今接続を切ろうとしたんだけど、うまくいかない。おかしいわ……」
声というか、彼女からくる意識も弱々しいものになってきた。
「しっかりしろやで」
ミックの必死の呼びかけに、少し声がはっきりした。
「シールドにヒビが入ったみたい。浸水してる。まずいわ。このままじゃ基盤が壊れて接続が切れなくなってしまうかも……」
彼女の焦りがそのまま自分の気持のようにミックは感じた。
ひょっとしたら、さっき自分が体当りしたから、それでどこか壊れたのかもしれない。ミックも次第に焦りだす。
水槽の底に横たわる変な魚を、ミックは下から突いて浮き上がらせる。きっと水槽から出せばいいんだ。
ミックは懸命にそれを押し上げるが、水槽の外に押し出すのは難しい。
一旦水面まで上げてから、思い切り下から体当りしたらうまくいくかも。
一瞬水面上に浮かんだ魚型ドローンに向かって、底まで降りたミックが思い切りぶつかった。
痛いな、結構。ミックのおでこに激痛が走った。
しかしその甲斐あって、魚型ドローンは水槽から飛び出していった。
見ていると椅子に座った彼女の首が、カクンと動いて目が覚めたようだった。
頭に装着していたベルトを外して、軽く首を振ると、ミックの方を向いて優しい笑顔を送ってくれた。少し顔色悪いみたいだけど。
とにかく、なんとかうまく行ったみたいだ。おでこは痛いがホッとした。
ひと仕事無事に終えたミックは、この水槽で目覚める前のことを必死で思い出してみる。確か以前はこんな狭い水槽じゃなくて広い海を泳いでいたはずなのだ。
くさふぐの小さな脳みそには詳細な記憶は刻まれていなかったが、それでも少しは覚えている。
餌だと思って食いついた瞬間、身体が引き上げられたことも。
あれは一体何だったのだろう。
水中から空中へ、そして硬い岩の上に投げ出された。
唇を貫いた針は外れていたけど、自力では岩上から脱出できなかった。いくら跳ねてみても水中に戻れない。
強い日差しで身体中の水分が抜けていき、口をパクパクしてもエラを動かしても、身体が欲する海水はどこにもなかった。
次第に身体が動かなくなり、これが死ぬってことなのかと意識が薄れていった。
そして、次に目覚めたのがここだったのだ。
次の日、再び彼女に会うことができた。
昨日と同じ変な魚はするりと水槽の中に滑り込んできた。
ふと思ってデスクの方を見ると、さっきまでパソコン操作していた彼女は、頭にコードのたくさんついたバンドを巻いて、椅子のヘッドレストに頭をのせている。
眠っているように見えた。
「こんにちは。朝ゴハン気に入ってくれたかな?」
彼女が呼びかけてきた。
その日の朝与えられた朝食は、以前食べていた海での生活を思い出させてくれるものだった。
ミックの大好物だったのだ。
「美味かったで、ありがとうな」
ミックは彼女の魚に寄り添ってそう言った。
「喜んでもらえて嬉しいよ」
彼女の意識を乗せた変な魚はミックの横でふるふると体を震わせた。
「そうや。さっき考えてたんやけど、わいはどうしてここに居るんかな? 岩の上で日干しになってたところまでは覚えてるんやけど」
「私が近くの岸壁で君を拾ってきたんだよ。釣り人にもまだマナー悪い人多くてね。ふぐは要らないなら海に返したらいいのに、また餌とられるからって陸の上にそのまんま捨てるのよ。ひどいよね」
彼女の怒りがその体の震え方で伝わってきた。
思わずミックも怒りに同調して震えてしまう。
「あたしの夢を話していい?」
気分を変えて彼女が言う。もちろんとミックは答えた。
「実は私、病気でもう長く生きられないの。だから、魚に意識を移して海を泳ぎたいって考えたんだよね。もともと病気がちで海で泳いだことなかったし」
突然の告白にミックは言葉が出ない。
後で思えば、頑張れよとか、元気だしていこうぜ、とか言ってやりたかったのに、その時は自身もショックで、そうなんか、と気の抜けた返事をしただけだった。
その後少し話したけど、彼女の病気のことが気がかりであまり覚えていなかった。
最近、彼女見ないなと、ミックが思ったのは、その日から三日後だった。
そういえば先日、今度病院で手術するとか言っていたっけ。こっちは上の空だったから忘れていた。
まだ入院中なのかな。
ミックは由美子との意思疎通で、人間界の設定も少しだけ理解できていた。
更に二週間後、デスクの上に白い小さな花瓶に白百合が一輪さしてあるのが見えた。
そして、大好きな彼女の写真がミックの水槽を見下ろすように立てかけられていた。
ミックにはその意味はわからない。
彼女がまた現れるのを信じて、いつまでも待ち続けるだけだった。
まだ来ないのかな。あの変な魚の子、名前なんだったかな。
大好きだったのに。
ミックは水槽の中で泡を一つ吐き出した。
ミックの小さな脳味噌は詳細を記憶するのが苦手だ。
彼女の名前はとっくに忘れてしまっていた。
しかし顔はわかる。
写真がずっと、彼の水槽を見てくれているから。
彼女がいなくなってどれくらい過ぎただろう。
その日、ミックは水槽から引き上げられて小さなバケツに移された。
いきなりのことにドキドキしていると、遠くから聞き覚えのある懐かしい音が聞こえてきた。
波しぶきの音だった。
「さあ、君は自然に帰りなさい、ミック」
ミックを運んだ男が言ったが、ミックにはその言葉は理解できない。
次の瞬間、バケツは傾き、ミックの体は海の中に移された。匂いと海水の感触で、故郷の海だというのがわかった。
歓喜に浸っていると、近くで別のふぐが一匹ミックと同じように放流された。
大きさもほとんど同じ、くさふぐだった。
「こんにちは、ミック。私、わかる?」
声ですぐに分かった、大好きだった彼女だ。
「わかるも何も、どないしてたんや?」
波に揺られない程度に潜りながら彼女に聞いた。
「私、死んだんだ。人間としてはね。でもそのときに意識をメモリーキューブに移したおいたの。ダメ元だったけど、うまく行ったみたいだね」
変な魚型ドローンと違って、今の彼女は滑らかなかわいい身体でミックに寄り添ってくれた。
「それじゃあ案内してくれる?」
彼女が微笑んだ。
「もちろんや。ここはわいの縄張りやで。どこまでだって案内してやるわ」
「でも、今度は釣り針には気をつけなきゃね」
先導するミックの後ろで、元気にヒレを動かしながら、彼女が釘を差した。




