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リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘 七

「古の迷宮」の、忘れられた水路の底。俺たちの隠れ家は、かつてエリアラが師事したという変わり者の錬金術師が遺した、放棄された実験工房だった。空気は湿った土と、分類不能な薬品の匂いで満ち、壁からは常に水が染み出して、床の石畳を黒く濡らしている。ここにはアリアンもモルヴランも、そして月エーディンの光すら届かない。あるのは、エリアラが灯すエーテル灯の、青白い光だけだ。


俺は、ラスクから奪った黒曜石のペンダントをテーブルの上で転がしていた。蛇が五芒星に絡みつく、不吉な紋様。それはただの装飾品ではない。俺の「素質」が、その冷たい表面から、無数の魂の残響――欲望、期待、そして最終的な絶望――を微かに感じ取っていた。


「どうやら、これはただの黒曜石ではないな」


エリアラが、特殊なレンズ越しにペンダントを覗き込みながら言った。彼女の指先は、銀の針で慎重に表面の欠片を削り取っている。


「地底域、それもモルウィンの領域近くでしか産出しない『魂魄石こんぱくせき』が、ごく微量に混ぜ込まれている。魂のエーテルパターンと強く共鳴し、それを記録、あるいは特定の場所に指向させる性質を持つ石だ。このペンダントは、儀式への参加資格を示す『鍵』であり、同時に、術者が対象の魂を選別するための『焦点』でもある」


「何の儀式だ」


「それを今から調べるんだろう、探し屋」


彼女はそう言うと、削り取った微細な粉末を乳鉢に入れ、いくつかの液体を加えて練り始めた。部屋に、鼻を突くような酸っぱい匂いが広がる。


俺は自分の仕事に取り掛かった。かつての同僚、故リアムが遺した、裏社会の情報屋との繋がり。それは、俺が警備隊を追われた後も、どういうわけか断ち切られることなく残っていた。俺は、工房の隅にある、かろうじて動く旧式の排水口に、約束の合図(銀貨数枚と、特定の模様を刻んだ小石)を落とした。数時間後、その排水口から、一枚の濡れた羊皮紙が押し上げられてきた。


羊皮紙に書かれた文字は、震えるような筆跡だった。


『蛇と五芒星。それは年に数回、新月の夜にだけ開かれる秘密の競売会、『サーペント・コイル』の紋章。場所は毎回変わる。競売にかけられるのは、禁制品、古代の遺物、そして…時には『生きた商品』そのもの。参加できるのは、紋章を持つ者と、その者からの紹介状を持つ者だけだ。次の開催は、三日後の新月の夜。場所は、波止場街の第七倉庫地区、その地下』


「第七倉庫…ラスクが言っていた場所か」


俺の言葉に、エリアラは顔を上げた。彼女の手元では、練り上げたペーストが、禍々しい紫色に発光していた。


「…どうやら、その『サーペント・コイル』とやらが、サイラス・ヴォーレンの儀式の舞台のようだ。次の新月、それは被害者たちの魂を『収穫』する日でもある。おそらく、その競売会で、儀式の最後の『部品』が取引されるのだろう」


「部品、だと?」


「魂を入れる『器』、あるいは儀式の核となるアーティファクト、もしくは…最後の『生贄』か」エリア

ラの灰色の瞳が、冷たく光った。「いずれにせよ、我々もその『競売会』に参加する必要がある」

「無理な相談だ。俺たちには招待状も、何かを競り落とすような金もない」


「金なら、創ればいい」


エリアラの言葉に、俺は眉をひそめた。


「錬金術の真髄は、等価交換ではない。価値の『変換』だ」彼女は、自信に満ちた、あるいは狂気に満ちた笑みを浮かべた。「価値あるものを、より価値あるものへと。あるいは、無価値なものに、価値があるかのように見せかけること。私たちも『商品』を出品する側に回るんだ。それも、誰もが欲しがるような、極上の逸品をな」


彼女が示したのは、古びた設計図だった。旧アルヴァリア帝国時代に考案されたという、小型で携帯可能な、エーテルを純粋な治癒エネルギーに変換する魔道具、「生命のコンデンサー」。理論上は存在するが、素材の希少性と加工の難しさから、現存するものは数個しかないと言われる、幻のアーティファクトだ。


「これを『偽造』する。もちろん、完全な機能は再現できない。だが、本物と見紛うほどの外見と、一時的にそれらしいエーテル反応を示す程度のものなら、私の技術で創り出せる」


「材料はどうする」


「ほとんどは、この工房のストックで足りる。だが、心臓部となる『調律結晶』だけがない。エーテルの流れを安定させるための、極めて純度の高い水晶だ。それと、接着剤として、ティルナ大陸産の『樹液パン』の新鮮な樹液が少量必要になる」


エリアラは、一枚のリストを俺に突きつけた。


「これは、お前の仕事だ、探し屋。私は偽造の準備を進める。お前は、明日中にこれらの材料を調達してこい。ただし、お前の顔は警備隊に割れている。昨夜の騒ぎでな。闇商人との接触…連中はお前を重要参考人として探しているはずだ。見つかるなよ」


その夜、俺は再びリールヘイヴンの闇に紛れた。


翌日。俺は、フードを目深に被り、波止場街の、最も混沌とした一角にいた。ここは異邦人波止場「千帆の埠頭」。都市警備隊も、よほどのことがなければ深入りしない、治外法権のエリアだ。エリアラのリストにあった「調律結晶」は、ゴバンの闇商人が扱っているという噂だった。


目当ての店は、海獣の骨で装飾された、薄暗いテントの中にあった。店主のゴバンは、片目に傷のある、抜け目のない表情の男だった。


「ほう、フィリアンが何のようだ。ここは、お前さんのような者が来るところじゃないぜ」


「調律結晶を探している。純度の高いものが一つ」


ゴバンの目が、値踏みするように俺を見た。


「…お前さん、どこかで見た顔だな。ああ、思い出した。警備隊の『英雄』様じゃないか。今は落ちぶれて、こんな裏稼業かい」


男は嫌らしい笑みを浮かべた。俺は黙って、革袋から数枚のソラス金貨を取り出し、カウンターに置いた。


「俺の顔に値段がつく前に、さっさと品物を出せ」


ゴバンは金貨を素早く懐にしまうと、店の奥から黒い布に包まれた小さな箱を持ってきた。中には、親指の先ほどの、寸分の曇りもない透明な水晶が入っていた。それが発する、清浄で安定したエーテルの波動は、俺にも感じ取れた。


「これで、取引成立だ」


次に、俺は「翡翠の密林」の産物を専門に扱う、ティルナ大陸の商人たちの区画へ向かった。新鮮な「樹液パン」の樹液は、正規のルートでは手に入らない。密輸業者と接触する必要があった。


カイナ族の密輸業者は、蛇のように執拗な目つきで俺を見た。彼は、俺がもはや警備隊の人間ではないこと、そして何らかのトラブルに巻きこまれていることを見抜いているようだった。取引は、より緊張感を増した。金貨数枚と、俺が持っていた情報(最近厳しくなった特定の水路の警備情報)と引き換えに、ようやく小さな瓶に入った、粘性の高い樹液を手に入れることができた。


取引を終え、路地裏に出た瞬間だった。


「そこまでだ、オマリー!」


聞き覚えのある、鋭い声。振り返ると、そこにはセラフィナと、数人の武装した警備隊員が立っていた。情報屋か、あるいはゴバンの商人か、誰かが俺を売ったのだ。


俺は舌打ちし、すぐさま人混みの中へと駆け出した。背後から警笛の音が鳴り響く。市場の天幕をなぎ倒し、露店のテーブルを蹴散らし、狭い路地を駆け抜ける。


追手の足音が迫る。まずい。このままでは捕まる。


その時、過去の記憶が、悪夢のように蘇った。


――雨の夜。沼地。俺の背後で、リアムが「先に行け!」と叫んでいる。足が、泥に取られる。振り向いてはいけない。だが、俺は――

一瞬の躊躇。そのコンマ数秒の遅れが、俺の足を鈍らせた。セラフィナが放った捕縛用の網が、俺の体に絡みつく。


「終わりだ、オマリー!」


もはやこれまでか、と覚悟した、その時。


俺の足元で、何かが甲高い音を立てて弾けた。次の瞬間、強烈な閃光と、目を刺すような白い煙が、路地全体を覆い尽くした。


「ぐっ…!」


警備隊員たちのうめき声。俺はその隙に、絡みついた網をナイフで切り裂き、近くの運河へと飛び込んだ。


水路の影に身を潜めながら、俺は息を整えた。あの閃光弾は、エリアラのものだ。彼女が、どこかから俺の動きを見張り、助けてくれたのだ。


工房に戻ると、エリアラは、まるで何もなかったかのように、偽造する魔道具の設計図に見入っていた。

「…助かった」俺は、濡れた服のまま言った。


「お前が捕まれば、私の研究が頓挫する。それだけのことだ」彼女は冷たく言い放った。「材料は手に入ったか?」


俺は、懐から調律結晶と樹液の瓶を取り出した。エリアラはそれを受け取ると、満足げに頷いた。


彼女は、俺が持ち帰った材料の一つ、調律結晶を包んでいた布を広げた。


「…待て」


彼女の動きが止まる。その視線は、布の隅に刻印された、極めて小さな焼き印に注がれていた。それは、俺の目にはほとんど見えないほど小さなものだった。


「どうした?」


「この布…」エリアラの声が、震えていた。それは、恐怖か、あるいは興奮か。「これは、ゴバンの闇商人が使うものではない。この焼き印は…」


彼女は、指先でその焼き印をなぞった。


「商人ギルドの、それもサイラス・ヴォーレンの私的な紋章だ」


俺たちは、罠に嵌められていた。俺たちの動きは、最初から全て、ヴォーレンに筒抜けだったのだ。彼は、俺たちが偽造品を持って競売会に現れるのを、待ち構えている。


霧雨月の冷たい雨が、再び窓を叩き始めた。その音は、俺たちを嘲笑うかのように、工房の中に響き渡っていた。

『リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘』固有名詞・世界観ガイド


▼世界と惑星

・イニスマール:

この物語の舞台となる惑星。主星アリアンと伴星モルヴランという二つの太陽、そして月エーディンを持つ。エレニア、ティルナといった複数の大陸が存在し、豊かな自然と、遍在するエネルギー「エーテル」によって、多様な生命と魔法文化が育まれている。



▼舞台:自由都市リールヘイヴン

・リールヘイヴン:

物語の主な舞台となる、エレニア大陸南東部に位置する独立した自由都市国家。「水の都」とも呼ばれ、無数の運河と橋が特徴。交易の中心地であり、様々な種族や文化が混在する、活気と混沌に満ちた場所。


・セリオン川:

エレニア大陸を流れる大河。リールヘイヴンはこの川が内海「静かの海」に注ぎ込む、広大なデルタ地帯に築かれている。


・市民街:

リールヘイヴンを構成する地区の一つ。職人、小商人、そして主人公キーガンのような一般市民が住む、生活感に溢れたエリア。


・波止場街:

リールヘイヴンの港湾地区。常に船と人で賑わい、活気がある一方で、治安はあまり良くないとされる。会計士レミュエルが最後に目撃された場所。


・古の迷宮:

都市開発から取り残された、古い水路が迷路のように入り組んだ地区。レミュエルの遺体が発見された場所。



▼大陸と地域

・エレニア大陸:

物語の主要な舞台となる、広大で多様な気候を持つ中心大陸。リールヘイヴンなどが存在する。


・ティルナ大陸:

エレニア大陸の南方に位置するとされる、熱帯・亜熱帯・乾燥帯が混在する大陸。リールヘイヴンには、この大陸から珍しい香辛料や物品がもたらされることがある。



▼登場人物と種族

・キーガン・オマリー:

物語の主人公。市民街で探し屋を営むフィリアン族の男性。元都市警備隊員で、何らかの過去を持つらしい。


・探し屋 (さがしや):

キーガンの職業。人探しや、失せ物探し、あるいは特定の情報を探すといった、都市内部の個人的な依頼を請け負う。冒険者ギルドとは異なり、より調査や探偵に近い活動を行う。


・セラフィナ:

リールヘイヴン都市警備隊の中隊長。フィリアン族の女性。キーガンとは過去に因縁がある様子。


・エリアラ:

魔術師ギルドをその過激な探求心ゆえに追放された、若く有能だが毒舌な女性錬金術師。アルウィンの血を引く。事件の被害者に残された特異なエーテルの痕跡に興味を持ち、キーガンの捜査に協力する。


・フィリアン:

いわゆる「人間」。イニスマールで最も数が多く、多様な文化を持つ主要種族。キーガン、セラフィナ、依頼人の男などがこの種族。


・レシン:

フィリアンの子供ほどの小柄な体格を持つ種族。キーガンの事務所の大家はこの種族。


・ゴバン:

頑健で職人気質な種族。キーガンが行きつけの酒場の亭主はこの種族。


・カイナ:

野生動物の特徴を併せ持つ獣人族。鋭敏な感覚と高い身体能力で知られる。


・アルウィン:

優美で長命な、森と共に生きる種族。自然やエーテルへの感受性が高く、魔法に長ける者が多い。エリアラはこの種族の血を引いている。


・モルウィン:

地底域に住む、アルウィンに近いとされる種族。影や秘密の魔法、そして毒や薬に関する独自の知識を持つと言われている。



▼組織・歴史

・商人ギルド:

リールヘイヴンを実質的に統治する「五大ギルド」の一つ。商業活動を管理・統括している。今回の依頼主。


・魔術師ギルド:

「五大ギルド」の一つ。魔法技術の研究や管理を行っているとされる。リールヘイヴンで最も高い黒曜石の塔を持つ。


・都市警備隊:

リールヘイヴンの治安維持を担う公的な組織。キーガンがかつて所属していた。


・旧アルヴァリア帝国:

リールヘイヴンを含むエレニア大陸南東部を支配していたとされる、かつての海洋帝国。水道や下水道など、高度な土木技術を持っていた名残が、現在のリールヘイヴンにも残っている。



▼世界の法則と魔法

・エーテル:

世界に遍在する根源的なエネルギーであり、全ての魔法の源。通常は目に見えないが、キーガンのような感受性の高い者はその流れや揺らぎを感じ取ることができる。


・エーテル脈:

生命体が持つ、エーテルを感知・利用するための生体器官またはシステム。キーガンが遺体に触れた際、このエーテル脈を通じて死者の最後の記憶の断片を感じ取った。


・素質 / 固有エーテルパターン:

キーガンが持つ、触れた物から記憶の断片を読み取る能力。イニスマールの世界では、個人が生まれつき持つエーテル的な能力を指す。


・禁断の魔法:

レミュエルの遺体に見られた奇妙な痣の原因として、キーガンが推測した危険な魔法。その詳細はまだ不明。



▼暦と通貨

・霧雨月:

リールヘイヴンで用いられる「潮流暦」における、秋の月の一つ。その名の通り、冷たい霧や雨が多い季節。


・リール銀貨:

リールヘイヴンが独自に発行する、日常的な取引で主に用いられる銀貨。


・ソラス金貨:

リール銀貨よりも価値の高い金貨。高額な取引や、まとまった報酬の支払いに用いられる。



▼天体

・アリアン / モルヴラン :

イニスマールが周回する連星系の二つの太陽。

アリアン: 白く明るい主星。昼の主な光源。

モルヴラン: 赤く暗い伴星。夜明け前や夕暮れ時に空を照らす。



▼神々と世界の概念

・神徒 (しんと):

イニスマールの世界における「神々」。世界の特定の側面を司り、人々の信仰の対象となっている。


・カドガン:

法、秩序、正義を司る神徒の一柱。都市警備隊のような法を執行する者たちから、その象徴として信仰されていることがある。

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