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リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘 二

ソラス金貨は、その重さ以上に過去の亡霊を呼び寄せる。事務所の机の上で鈍い光を放つ一枚の金貨と数枚の銀貨。それは、レミュエルという名の会計士の、不完全に終わった人生の対価だった。簡単な人探し。簡単な結末。だが、俺の指先にこびりついた、あの魂が凍るような恐怖の記憶は、安酒では洗い流せそうになかった。


――暗く、狭い場所。滴る水の音。エーテル脈を内側から焼く激痛――


俺はグラスを呷り、その記憶を喉の奥へと押し流そうとした。だが、記憶は消化不良の食事のように、胃の腑に居座り続けた。都市警備隊を追われたあの日から、俺は深淵を覗き込まないと誓ったはずだった。他人の絶望に、これ以上は同調しないと。


しかし、元上官のブレヌスの顔が脳裏をよぎる。あのゴバン族の古強者は、俺のこの奇妙な「素質」――触れた物から記憶の断片を読み取るという、祝福とも呪いともつかぬ能力――を知る数少ない人間の一人だった。彼なら、この奇妙な死について何かを知っているかもしれない。あるいは、俺のこの燻る疑念を、ただの酔っ払いの感傷だと笑い飛ばしてくれるかもしれない。


俺は重い腰を上げ、職人街「百工通り」へと向かった。


百工通りは、リールヘイヴンの心臓の鼓動が最も直接的に感じられる場所だ。鍛冶場の炉から立ち上る熱気、規則正しく響く槌音、なめし革の匂い、そして木屑の舞う空気。ゴバンたちが中心となって働くこの地区には、嘘や欺瞞の入り込む隙間がないように思えた。彼らの仕事は実直で、その成果は誰の目にも明らかだ。俺が失って久しい種類の、確かな手応えがそこにはあった。


目的の酒場「岩盤亭」は、ゴバン職人たちのための店だ。扉は分厚い鉄製で、中からは野太い歌声と、ボルグ・エール(ゴバン特有の、岩のような重いエールだ)の香ばしい匂いが漏れ出てくる。俺が中へ入ると、一瞬だけ喧騒が静まり、好奇と、いくつかの侮蔑の視線が突き刺さった。フィリアンが、それも俺のような男が一人で来る場所ではない。


店の奥のテーブルで、ブレヌスは一人、巨大な石のジョッキを傾けていた。現役を退いたとはいえ、その肩幅と、岩のような腕は少しも衰えていない。豊かな髭は、炉の火で焼けたのか、所々が赤茶けていた。


「……ブレヌス」


俺が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。その深い瞳は、長年坑道で鉱石を見定めてきた者のように、俺の内側を見透かすような光を宿していた。


「キーガンか。まだ生きていたか。その顔つき、ろくな死に方はしそうにないな」


相変わらずの、飾り気のない挨拶だった。俺は彼の向かいに腰を下ろし、店主にエールを注文した。


「レミュエルという会計士が死んだ」俺は単刀直入に切り出した。「運河で。警備隊は事故として処理した」


ブレヌスはエールを一口飲み、その髭についた泡を無造作に拭った。「そうらしいな。セラフィナが担当だったとか。あのお嬢様は、手順通りにやるのが得意だからな。綺麗な報告書が出来上がったことだろう」


その声には、微かな皮肉が滲んでいた。


「何か知っているのか」


「俺が知っているのは、昔の話だ」ブレヌスは、ジョッキの縁を指でなぞりながら言った。「昔、この街には旧アルヴァリア帝国の下水道網の名残があってな。その一部は今でも『古の迷宮』の地下に繋がっている。そして、その下水道の設計図は、特定のギルドの会計室の、厳重な金庫の中にだけ保管されている、という噂があった」


彼は俺の目をまっすぐに見据えた。「ただの噂だ。それと、水が怖い男は、夜中に運河の縁を散歩したりはしない。特に、霧雨月の、足元が滑りやすい夜にはな」


ブレヌスの言葉は、俺の中で燻っていた疑念の火に、油を注いだ。レミュエルは、何かを知りすぎたために殺された。事故に見せかけて。そして、都市警備隊は、何者かの圧力によって、その事実から目を逸らしたのだ。


「……もう一つだけ」ブレヌスは声を低めた。「レミュエルの遺留品から、奇妙なものが一つだけ無くなっていたらしい。小さな、黒曜石の護符だ。セラフィナの報告書には載っていない。おそらく、握り潰されたんだろう。ギルドの上層部によってな」


「上層部…」その言葉に、俺の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。商人ギルド最高幹部の一人、サイラス・ヴォーレン。最近、東方との新たな交易路を開拓したとかで、やけに羽振りが良いと評判の男だ。その優雅な物腰の裏に、冷たい計算高さと、底なしの野心が見え隠れする。彼ならば、一人の会計士を秘密裏に消すことなど、造作もないだろう。


俺は黙ってエールを飲み干した。苦く、重い味がした。ブレヌスはそれ以上何も言わず、ただジョッキを傾けていた。それで十分だった。


俺は再び、「古の迷宮」の入り口に立っていた。今度は夜だ。モルヴランの赤い光が、淀んだ運河の水面を不気味に照らし、周囲の崩れかけた建物の影を、まるで生きているかのように揺らめかせている。


昼間の警備隊が張り巡らせていた、紋章入りの木札が結びつけられた麻のロープは、もうどこにもない。事件は既に忘れ去られ、都市の日常という巨大な流れの中に溶けて消えようとしていた。だが、俺の指先には、あの冷たい皮膚の感触と、魂の絶叫がこびりついている。


松明に火を灯し、遺体が発見された場所の石畳を丹念に調べる。湿った苔と、運河の悪臭。その中に、何かを見つけ出そうと目を凝らす。


その時、背後から冷たい声がした。


「まだいたのか、オマリー。ドブネズミのように」


振り返ると、そこにセラフィナが立っていた。彼女もまた、一人でここへ戻ってきたらしい。その手には抜き身の細身の剣が握られ、月明かりを反射して鋭く光っていた。


「お前こそ。綺麗な報告書を書き上げて、もう枕を高くして寝ている頃だと思ったが」


「貴様には関係ない。これは警備隊の管轄だ。ただちに立ち去れ」


「公式には『事故』だったはずだ。事故現場を一般市民が散歩して、何が悪い?」


俺たちの間に、凍てついた空気が流れる。彼女と俺の間には、数年前に起きた、ある事件が横たわっている。俺が全てを失った、あの事件が。


「まだ幽霊を追いかけているのか、オマリー?」セラフィナの声は、侮蔑と、そしてほんの僅かな、憐れみのような色を帯びていた。「今度も、無実の人間を死なせるつもりか?」


その言葉は、古い傷口に突き立てられたナイフのように、俺の心を抉った。


「……黙れ」


俺はセラフィナに背を向け、再び石畳に視線を落とした。その時だった。松明の光が、特定の角度から石畳を照らした瞬間、遺体が最後に見たという記憶の断片がフラッシュバックした。


――複雑な幾何学模様が刻まれた、濡れた石の床――


そこにあった。遺体が引き揚げられた場所のすぐそば。水と泥でほとんど見えなくなっていたが、石畳には、禍々しくも精緻な、小さな魔法陣の一部が刻まれていたのだ。それは、どんな魔法系統にも属さない、異質で冒涜的なデザインだった。


俺は指先でその模様をなぞる。ひやりとした感触と共に、微弱な、しかし極めて邪悪なエーテルの残滓が伝わってきた。これは、魂を直接縛り、その生命力を吸い尽くすための儀式の痕跡だ。


「……見つけた」


俺の呟きを聞きつけ、セラフィナも訝しげに近寄ってくる。彼女もまた、その異常な紋様に気づき、息を呑んだ。


「これは…」


「そうさ。あんたたちの見逃した、ただの『事故』の証拠だ」


セラフィナは俺と魔法陣の跡を交互に見つめ、その表情を硬くした。彼女は何かを言いかけたが、結局何も言わず、剣を鞘に収めると、踵を返して闇の中へと消えていった。


残されたのは、俺一人。そして、足元に刻まれた、巨大な陰謀への入り口。


簡単な人探しは、いつの間にか、俺自身の過去と、この都市の闇の深淵へと繋がる道となっていた。俺は松明の火を高く掲げ、その光が照らし出す、濡れた石の紋様を、ただじっと見つめていた。雨が、また降り始めていた。

『リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘』固有名詞・世界観ガイド


▼世界と惑星

・イニスマール:

この物語の舞台となる惑星。主星アリアンと伴星モルヴランという二つの太陽、そして月エーディンを持つ。エレニア、ティルナといった複数の大陸が存在し、豊かな自然と、遍在するエネルギー「エーテル」によって、多様な生命と魔法文化が育まれている。



▼舞台:自由都市リールヘイヴン

・リールヘイヴン:

物語の主な舞台となる、エレニア大陸南東部に位置する独立した自由都市国家。「水の都」とも呼ばれ、無数の運河と橋が特徴。交易の中心地であり、様々な種族や文化が混在する、活気と混沌に満ちた場所。


・セリオン川:

エレニア大陸を流れる大河。リールヘイヴンはこの川が内海「静かの海」に注ぎ込む、広大なデルタ地帯に築かれている。


・市民街:

リールヘイヴンを構成する地区の一つ。職人、小商人、そして主人公キーガンのような一般市民が住む、生活感に溢れたエリア。


・波止場街:

リールヘイヴンの港湾地区。常に船と人で賑わい、活気がある一方で、治安はあまり良くないとされる。会計士レミュエルが最後に目撃された場所。


・古の迷宮:

都市開発から取り残された、古い水路が迷路のように入り組んだ地区。レミュエルの遺体が発見された場所。



▼大陸と地域

・エレニア大陸:

物語の主要な舞台となる、広大で多様な気候を持つ中心大陸。リールヘイヴンなどが存在する。


・ティルナ大陸:

エレニア大陸の南方に位置するとされる、熱帯・亜熱帯・乾燥帯が混在する大陸。リールヘイヴンには、この大陸から珍しい香辛料や物品がもたらされることがある。



▼登場人物と種族

・キーガン・オマリー:

物語の主人公。市民街で探し屋を営むフィリアン族の男性。元都市警備隊員で、何らかの過去を持つらしい。


・探し屋 (さがしや):

キーガンの職業。人探しや、失せ物探し、あるいは特定の情報を探すといった、都市内部の個人的な依頼を請け負う。冒険者ギルドとは異なり、より調査や探偵に近い活動を行う。


・セラフィナ:

リールヘイヴン都市警備隊の中隊長。フィリアン族の女性。キーガンとは過去に因縁がある様子。


・エリアラ:

魔術師ギルドをその過激な探求心ゆえに追放された、若く有能だが毒舌な女性錬金術師。アルウィンの血を引く。事件の被害者に残された特異なエーテルの痕跡に興味を持ち、キーガンの捜査に協力する。


・フィリアン:

いわゆる「人間」。イニスマールで最も数が多く、多様な文化を持つ主要種族。キーガン、セラフィナ、依頼人の男などがこの種族。


・レシン:

フィリアンの子供ほどの小柄な体格を持つ種族。キーガンの事務所の大家はこの種族。


・ゴバン:

頑健で職人気質な種族。キーガンが行きつけの酒場の亭主はこの種族。


・カイナ:

野生動物の特徴を併せ持つ獣人族。鋭敏な感覚と高い身体能力で知られる。


・アルウィン:

優美で長命な、森と共に生きる種族。自然やエーテルへの感受性が高く、魔法に長ける者が多い。エリアラはこの種族の血を引いている。


・モルウィン:

地底域に住む、アルウィンに近いとされる種族。影や秘密の魔法、そして毒や薬に関する独自の知識を持つと言われている。



▼組織・歴史

・商人ギルド:

リールヘイヴンを実質的に統治する「五大ギルド」の一つ。商業活動を管理・統括している。今回の依頼主。


・魔術師ギルド:

「五大ギルド」の一つ。魔法技術の研究や管理を行っているとされる。リールヘイヴンで最も高い黒曜石の塔を持つ。


・都市警備隊:

リールヘイヴンの治安維持を担う公的な組織。キーガンがかつて所属していた。


・旧アルヴァリア帝国:

リールヘイヴンを含むエレニア大陸南東部を支配していたとされる、かつての海洋帝国。水道や下水道など、高度な土木技術を持っていた名残が、現在のリールヘイヴンにも残っている。



▼世界の法則と魔法

・エーテル:

世界に遍在する根源的なエネルギーであり、全ての魔法の源。通常は目に見えないが、キーガンのような感受性の高い者はその流れや揺らぎを感じ取ることができる。


・エーテル脈:

生命体が持つ、エーテルを感知・利用するための生体器官またはシステム。キーガンが遺体に触れた際、このエーテル脈を通じて死者の最後の記憶の断片を感じ取った。


・素質 / 固有エーテルパターン:

キーガンが持つ、触れた物から記憶の断片を読み取る能力。イニスマールの世界では、個人が生まれつき持つエーテル的な能力を指す。


・禁断の魔法:

レミュエルの遺体に見られた奇妙な痣の原因として、キーガンが推測した危険な魔法。その詳細はまだ不明。



▼暦と通貨

・霧雨月:

リールヘイヴンで用いられる「潮流暦」における、秋の月の一つ。その名の通り、冷たい霧や雨が多い季節。


・リール銀貨:

リールヘイヴンが独自に発行する、日常的な取引で主に用いられる銀貨。


・ソラス金貨:

リール銀貨よりも価値の高い金貨。高額な取引や、まとまった報酬の支払いに用いられる。



▼天体

・アリアン / モルヴラン :

イニスマールが周回する連星系の二つの太陽。

アリアン: 白く明るい主星。昼の主な光源。

モルヴラン: 赤く暗い伴星。夜明け前や夕暮れ時に空を照らす。



▼神々と世界の概念

・神徒 (しんと):

イニスマールの世界における「神々」。世界の特定の側面を司り、人々の信仰の対象となっている。


・カドガン:

法、秩序、正義を司る神徒の一柱。都市警備隊のような法を執行する者たちから、その象徴として信仰されていることがある。

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