リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘 十五
リールヘイヴンの夜明けは、いつも二度訪れる。だが、あの夜が明けた後の光は、俺が知るどの光とも違っていた。
崩壊した地下広間の瓦礫の中から、俺はセラフィナの肩を借りて地上へと這い出した。空にはまだモルヴランの赤い光が残っていたが、その光は血の色ではなく、ただの、夜の終わりを告げる静かな色彩に見えた。波止場街は、モイラが仕掛けた「事故」の余波で騒然としていたが、その喧騒すら、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
俺の記憶にこびりついていた、リアムの最期の顔も、ブレヌスの背中も、不思議と静かだった。彼らの亡霊が消え去ったわけではない。ただ、俺の内側で、彼らが座るべき椅子が見つかったような、奇妙な安堵感があった。
数日が過ぎた。
リールヘイヴンは、巧みに編み上げられた「真実」を受け入れ、その日常を取り戻しつつあった。公式な発表では、こうだ。商人ギルドの最高幹部サイラス・ヴォーレンは、実は秘密裏に犯罪組織クルーアハ・シンジケートを牛耳っており、禁断の古代魔法の儀式を試みた結果、その力の暴走によって自滅した。都市警備隊は、元隊員キーガン・オマリーからの情報提供を受け、その陰謀を未然に防いだが、勇敢なブレヌス元隊長を含む数名の犠牲者を出した――。
セラフィナが作り上げたその物語は、見事なまでに綻びがなかった。ヴォーレンという巨悪を討ち取り、ギルド間の全面抗争を回避し、そして都市の混乱を最小限に抑える。それは、彼女なりの「法と秩序」の守り方だったのだろう。俺の殺人容疑は、いつの間にか立ち消えになっていた。ギルド評議会にとっても、一人の落ちぶれた元警備隊員を英雄に仕立て上げるより、曖昧なまま忘れ去る方が都合が良かった。
俺は、市民街にある、あの事務所に戻っていた。
驚いたことに、部屋は片付いていた。床に転がっていた空の酒瓶はなくなり、窓ガラスは磨かれ、運河からの光が、埃っぽくない室内を照らしている。そして、俺の机の向かいには、新しい机と、いくつかの奇妙な錬金術の器具が運び込まれていた。
「家賃の滞納分は、私の研究費で払っておいた。ここを、我々の新しい研究室とする」
エリアラは、腕を組みながら、当然のように言った。彼女の顔には、まだ疲労の色が残っていたが、その灰色の瞳は、新たな探求の対象を見つけた子供のように、きらきらと輝いていた。
「私の師が追い求めた、魂の変成。ヴォーレンの儀式は、その冒涜的な模倣に過ぎない。だが、その残骸からは、計り知れないデータが手に入った。これを分析すれば、あるいは…」
彼女は、俺が答えるのを待たずに、書き消しのできる蝋板に、再び複雑な数式を書き殴り始めた。彼女はギルドには戻らないらしい。戻る気など、最初からないのだろう。彼女にとって、真理の探求に、組織の承認など必要ないのだ。
俺は、窓辺に立った。
運河の水面が、アリアンの白い光を反射して輝いている。遠くからは、いつものように、船の汽笛と、商人たちの呼び声が聞こえてくる。何も変わらない、リールヘイヴンの日常だ。
だが、俺には、その全てが以前とは違って見えた。
悪意も、善意も、欲望も、希望も、全てが混じり合いながら流れていく、この水の都。俺は、その流れの一部なのだ。逃げることも、目を逸らすこともできない。
ブレヌスは死んだ。リアムも戻らない。俺が背負った過去の重みが、消えることはないだろう。だが、それでもいい。
俺は、机の引き出しの奥にしまい込んでいた、安物の蒸留酒の瓶を取り出した。そして、中身を、運河へと静かに流した。
もう、この味に逃げ込む必要はない。
その時、事務所の扉が、控えめにノックされた。
俺とエリアラは、顔を見合わせる。
扉を開けると、そこには、一人の若いレシン族の女性が、不安そうな顔で立っていた。
「あの…探し屋さん、でしょうか? 実は、私の兄が、三日前に市場へ出かけたきり、戻ってこなくて…」
エリアラが、俺の背後から顔を出し、楽しそうに言った。
「簡単な人探しよ、キーガン」
俺は、目の前の依頼人を見た。彼女の瞳に宿る、純粋な不安と、僅かな希望。
それは、かつての俺が、見ようとしなかったものだ。
俺は、久しぶりに、心の底から静かに息を吸い込んだ。
そして、探し屋として、初めて、依頼人にこう答えた。
「ああ。任せておけ」
リールヘイヴンの、霧深い朝が、また始まろうとしていた。
『リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘』固有名詞・世界観ガイド
▼世界と惑星
・イニスマール:
この物語の舞台となる惑星。主星アリアンと伴星モルヴランという二つの太陽、そして月エーディンを持つ。エレニア、ティルナといった複数の大陸が存在し、豊かな自然と、遍在するエネルギー「エーテル」によって、多様な生命と魔法文化が育まれている。
▼舞台:自由都市リールヘイヴン
・リールヘイヴン:
物語の主な舞台となる、エレニア大陸南東部に位置する独立した自由都市国家。「水の都」とも呼ばれ、無数の運河と橋が特徴。交易の中心地であり、様々な種族や文化が混在する、活気と混沌に満ちた場所。
・セリオン川:
エレニア大陸を流れる大河。リールヘイヴンはこの川が内海「静かの海」に注ぎ込む、広大なデルタ地帯に築かれている。
・市民街:
リールヘイヴンを構成する地区の一つ。職人、小商人、そして主人公キーガンのような一般市民が住む、生活感に溢れたエリア。
・波止場街:
リールヘイヴンの港湾地区。常に船と人で賑わい、活気がある一方で、治安はあまり良くないとされる。会計士レミュエルが最後に目撃された場所。
・古の迷宮:
都市開発から取り残された、古い水路が迷路のように入り組んだ地区。レミュエルの遺体が発見された場所。
▼大陸と地域
・エレニア大陸:
物語の主要な舞台となる、広大で多様な気候を持つ中心大陸。リールヘイヴンなどが存在する。
・ティルナ大陸:
エレニア大陸の南方に位置するとされる、熱帯・亜熱帯・乾燥帯が混在する大陸。リールヘイヴンには、この大陸から珍しい香辛料や物品がもたらされることがある。
▼登場人物と種族
・キーガン・オマリー:
物語の主人公。市民街で探し屋を営むフィリアン族の男性。元都市警備隊員で、何らかの過去を持つらしい。
・探し屋 (さがしや):
キーガンの職業。人探しや、失せ物探し、あるいは特定の情報を探すといった、都市内部の個人的な依頼を請け負う。冒険者ギルドとは異なり、より調査や探偵に近い活動を行う。
・セラフィナ:
リールヘイヴン都市警備隊の中隊長。フィリアン族の女性。キーガンとは過去に因縁がある様子。
・エリアラ:
魔術師ギルドをその過激な探求心ゆえに追放された、若く有能だが毒舌な女性錬金術師。アルウィンの血を引く。事件の被害者に残された特異なエーテルの痕跡に興味を持ち、キーガンの捜査に協力する。
・フィリアン:
いわゆる「人間」。イニスマールで最も数が多く、多様な文化を持つ主要種族。キーガン、セラフィナ、依頼人の男などがこの種族。
・レシン:
フィリアンの子供ほどの小柄な体格を持つ種族。キーガンの事務所の大家はこの種族。
・ゴバン:
頑健で職人気質な種族。キーガンが行きつけの酒場の亭主はこの種族。
・カイナ:
野生動物の特徴を併せ持つ獣人族。鋭敏な感覚と高い身体能力で知られる。
・アルウィン:
優美で長命な、森と共に生きる種族。自然やエーテルへの感受性が高く、魔法に長ける者が多い。エリアラはこの種族の血を引いている。
・モルウィン:
地底域に住む、アルウィンに近いとされる種族。影や秘密の魔法、そして毒や薬に関する独自の知識を持つと言われている。
▼組織・歴史
・商人ギルド:
リールヘイヴンを実質的に統治する「五大ギルド」の一つ。商業活動を管理・統括している。今回の依頼主。
・魔術師ギルド:
「五大ギルド」の一つ。魔法技術の研究や管理を行っているとされる。リールヘイヴンで最も高い黒曜石の塔を持つ。
・都市警備隊:
リールヘイヴンの治安維持を担う公的な組織。キーガンがかつて所属していた。
・旧アルヴァリア帝国:
リールヘイヴンを含むエレニア大陸南東部を支配していたとされる、かつての海洋帝国。水道や下水道など、高度な土木技術を持っていた名残が、現在のリールヘイヴンにも残っている。
▼世界の法則と魔法
・エーテル:
世界に遍在する根源的なエネルギーであり、全ての魔法の源。通常は目に見えないが、キーガンのような感受性の高い者はその流れや揺らぎを感じ取ることができる。
・エーテル脈:
生命体が持つ、エーテルを感知・利用するための生体器官またはシステム。キーガンが遺体に触れた際、このエーテル脈を通じて死者の最後の記憶の断片を感じ取った。
・素質 / 固有エーテルパターン:
キーガンが持つ、触れた物から記憶の断片を読み取る能力。イニスマールの世界では、個人が生まれつき持つエーテル的な能力を指す。
・禁断の魔法:
レミュエルの遺体に見られた奇妙な痣の原因として、キーガンが推測した危険な魔法。その詳細はまだ不明。
▼暦と通貨
・霧雨月:
リールヘイヴンで用いられる「潮流暦」における、秋の月の一つ。その名の通り、冷たい霧や雨が多い季節。
・リール銀貨:
リールヘイヴンが独自に発行する、日常的な取引で主に用いられる銀貨。
・ソラス金貨:
リール銀貨よりも価値の高い金貨。高額な取引や、まとまった報酬の支払いに用いられる。
▼天体
・アリアン / モルヴラン :
イニスマールが周回する連星系の二つの太陽。
アリアン: 白く明るい主星。昼の主な光源。
モルヴラン: 赤く暗い伴星。夜明け前や夕暮れ時に空を照らす。
▼神々と世界の概念
・神徒 (しんと):
イニスマールの世界における「神々」。世界の特定の側面を司り、人々の信仰の対象となっている。
・カドガン:
法、秩序、正義を司る神徒の一柱。都市警備隊のような法を執行する者たちから、その象徴として信仰されていることがある。