表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/15

リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘 十二

新月の夜。


リールヘイヴンは、その本当の顔を晒す。月エーディンの優しい光がなければ、この都市はただの、運河という開かれた傷口を持つ、巨大な石の死体だ。アリアンとモルヴランの光も届かない夜の闇は、工房の地下貯蔵室の、ルミナス・ファンガスが放つ青白い光さえも飲み込もうとしているかのようだった。


俺は、砥石で研ぎ上げたショートソードの刃を、指先で確かめていた。冷たく、硬く、そして鋭い。それは、俺自身の、研ぎ澄まされ、しかし脆い覚悟のようだった。


エリアラは、最後の調整を終えた「生命のコンデンサー」の偽造品を、丁寧に革のケースに収めていた。外見は、旧アルヴァリア帝国の精巧な工芸品そのもの。だが、その心臓部には、彼女が仕込んだ混沌のエーテルが、嵐の前の静けさのように眠っている。


「準備はいいか、探し屋」


「とうの昔にできている」


俺たちは、互いの顔を見合わせた。言葉は少なかった。言うべきことは、もう何もない。これから向かうのは、ただの犯罪現場ではない。神を創り出そうとする狂気の祭壇であり、そして、俺自身の過去の亡霊が待ち受ける、最後の沼地だ。


その頃、都市警備隊本部の一室で、セラフィナは苦渋の決断を下していた。


ブレヌスの死は、公式には「逃亡中の容疑者キーガン・オマリーとの格闘の末の殉職」として処理された。しかし、彼女が密かに再調査した現場の状況、そしてブレヌスの執務室に残された走り書き――『ヴォーレン』『第七倉庫』『魂魄』という断片的な言葉――は、公式報告書とは全く異なる物語を彼女に告げていた。


キーガンは、確かに落ちぶれた。だが、彼が都市警備隊の隊長を殺すほどの男ではないことを、誰よりもセラフィナは知っていた。かつて、彼を尊敬し、その背中を追いかけていた頃の記憶が、彼女の中で疼いていた。


上層部からの圧力は強い。商人ギルド、ひいてはサイラス・ヴォーレンに繋がる捜査は、全て握り潰される。このままでは、ブレヌスの死も、そしてこの都市で起きている連続死も、全てが闇に葬られる。


「…法と秩序は、時に自らの手で守るしかない、か」


彼女は、かつてブレヌスが自嘲気味に呟いていた言葉を思い出した。


セラフィナは、机の上に置かれた、ヴォーレンの私兵が警備する第七倉庫の配置図を手に取った。そして、最も信頼できる部下だけを数名呼び寄せ、静かに告げた。


「今夜、非公式の査察を行う。対象は、波止場街第七倉庫。抵抗する者は、誰であろうと拘束しろ」


リールヘイヴンの地下水路は、都市の忘れられた歴史と、捨てられた全ての感情が流れ着く場所だった。モイラから受け取った古地図を頼りに、俺とエリアラは、腰まで汚水に浸かりながら、その迷宮を進んでいた。壁を伝う水の音、遠くで響く水門の軋む音、そして時折聞こえる、正体不明の生物の立てる不気味な水音。


「…ここだ」


エリアラが、壁の一角を指さした。そこには、他の部分とは明らかに異なる、旧アルヴァリア帝国時代の精巧な石組みがあった。モイラの地図によれば、この壁の向こうに、第七倉庫の地下施設へと繋がる、忘れられた通路があるはずだ。


俺が壁の石を押し込もうとした、その瞬間。


地上が、遠くで揺れた。鈍く、重い爆発音が、水路の水面を震わせ、俺たちの鼓膜を打つ。


「…モイラの『事故』が始まったな」エリアラが、口の端に笑みを浮かべて言った。「実に派手な陽動だ。これで、地上の警備隊の目は、しばらく我々から逸れる」


俺は、隠された石のスイッチを押し込んだ。重い音を立てて、壁の一部が内側へとスライドする。その先には、下へと続く、螺旋状の階段が闇の中へと続いていた。


階段を下りるにつれて、空気のエーテル濃度が急激に高まっていくのを感じた。それは、奔流晶窟で感じたような原初のエーテルではない。もっと人工的で、生命の匂いがする、濃密で禍々しいエーテルだった。


「…近いな」エリアラが、鼻を覆いながら言った。「魂のエーテルの匂いだ。それも、おびただしい数の」


階段の終わりは、巨大な鉄の扉で塞がれていた。扉の表面には、あの蛇と五芒星の紋章が、鈍い銀色の光を放って刻まれている。扉の向こう側から、大勢の人間の詠唱のような、あるいはうめき声のような、不気味な音が響いてくる。儀式は、既に始まっている。


「準備はいいか」


俺はエリアラに尋ねた。彼女は黙って頷き、偽造した「生命のコンデンサー」を収めたケースを強く握りしめた。


俺は、ショートソードの柄を握る。手に汗が滲んだ。リアム、そしてブレヌスの顔が、脳裏をよぎる。


今度こそ、俺は背を向けない。


俺は、エリアラと視線を交わし、そして、重い鉄の扉を、二人で押し開けた。


扉の向こうに広がっていたのは、広大な地下の円形広間だった。天井からは、運河の水が巨大な水晶のレンズを通して集められ、まるで月光のように、中央の祭壇を照らし出している。


祭壇の上には、空っぽの『エーテルの器』がいくつも並べられ、その周囲では、クルーアハ・シンジケートの黒装束の魔術師たちが、奇妙な詠唱を続けていた。彼らの詠唱に応じて、広間の床に描かれた巨大な魔法陣が、リールヘイヴン中の運河網を通じて吸い上げた、無数の魂の光を青白く輝かせている。


そして、その中心。祭壇の最も高い場所に、一人の男が立っていた。


純白のローブを纏い、その顔には穏やかな笑みすら浮かべている。リールヘイヴンの影の支配者、サイラス・ヴォーレン。


彼は、ゆっくりと俺たちの方を向いた。


「ようこそ、探し屋。そして、錬金術師のお嬢さん」その声は、まるで旧知の友を迎えるかのように、穏やかだった。「君たちが、私の戴冠式における、最後の『部品』を運んできてくれると、信じていたよ」

彼の背後で、一つの巨大な『器』が、他のどの器よりも強く、禍々しい光を放ち始めた。


俺たちの、最後の戦いが、今、始まろうとしていた。

『リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘』固有名詞・世界観ガイド


▼世界と惑星

・イニスマール:

この物語の舞台となる惑星。主星アリアンと伴星モルヴランという二つの太陽、そして月エーディンを持つ。エレニア、ティルナといった複数の大陸が存在し、豊かな自然と、遍在するエネルギー「エーテル」によって、多様な生命と魔法文化が育まれている。



▼舞台:自由都市リールヘイヴン

・リールヘイヴン:

物語の主な舞台となる、エレニア大陸南東部に位置する独立した自由都市国家。「水の都」とも呼ばれ、無数の運河と橋が特徴。交易の中心地であり、様々な種族や文化が混在する、活気と混沌に満ちた場所。


・セリオン川:

エレニア大陸を流れる大河。リールヘイヴンはこの川が内海「静かの海」に注ぎ込む、広大なデルタ地帯に築かれている。


・市民街:

リールヘイヴンを構成する地区の一つ。職人、小商人、そして主人公キーガンのような一般市民が住む、生活感に溢れたエリア。


・波止場街:

リールヘイヴンの港湾地区。常に船と人で賑わい、活気がある一方で、治安はあまり良くないとされる。会計士レミュエルが最後に目撃された場所。


・古の迷宮:

都市開発から取り残された、古い水路が迷路のように入り組んだ地区。レミュエルの遺体が発見された場所。



▼大陸と地域

・エレニア大陸:

物語の主要な舞台となる、広大で多様な気候を持つ中心大陸。リールヘイヴンなどが存在する。


・ティルナ大陸:

エレニア大陸の南方に位置するとされる、熱帯・亜熱帯・乾燥帯が混在する大陸。リールヘイヴンには、この大陸から珍しい香辛料や物品がもたらされることがある。



▼登場人物と種族

・キーガン・オマリー:

物語の主人公。市民街で探し屋を営むフィリアン族の男性。元都市警備隊員で、何らかの過去を持つらしい。


・探し屋 (さがしや):

キーガンの職業。人探しや、失せ物探し、あるいは特定の情報を探すといった、都市内部の個人的な依頼を請け負う。冒険者ギルドとは異なり、より調査や探偵に近い活動を行う。


・セラフィナ:

リールヘイヴン都市警備隊の中隊長。フィリアン族の女性。キーガンとは過去に因縁がある様子。


・エリアラ:

魔術師ギルドをその過激な探求心ゆえに追放された、若く有能だが毒舌な女性錬金術師。アルウィンの血を引く。事件の被害者に残された特異なエーテルの痕跡に興味を持ち、キーガンの捜査に協力する。


・フィリアン:

いわゆる「人間」。イニスマールで最も数が多く、多様な文化を持つ主要種族。キーガン、セラフィナ、依頼人の男などがこの種族。


・レシン:

フィリアンの子供ほどの小柄な体格を持つ種族。キーガンの事務所の大家はこの種族。


・ゴバン:

頑健で職人気質な種族。キーガンが行きつけの酒場の亭主はこの種族。


・カイナ:

野生動物の特徴を併せ持つ獣人族。鋭敏な感覚と高い身体能力で知られる。


・アルウィン:

優美で長命な、森と共に生きる種族。自然やエーテルへの感受性が高く、魔法に長ける者が多い。エリアラはこの種族の血を引いている。


・モルウィン:

地底域に住む、アルウィンに近いとされる種族。影や秘密の魔法、そして毒や薬に関する独自の知識を持つと言われている。



▼組織・歴史

・商人ギルド:

リールヘイヴンを実質的に統治する「五大ギルド」の一つ。商業活動を管理・統括している。今回の依頼主。


・魔術師ギルド:

「五大ギルド」の一つ。魔法技術の研究や管理を行っているとされる。リールヘイヴンで最も高い黒曜石の塔を持つ。


・都市警備隊:

リールヘイヴンの治安維持を担う公的な組織。キーガンがかつて所属していた。


・旧アルヴァリア帝国:

リールヘイヴンを含むエレニア大陸南東部を支配していたとされる、かつての海洋帝国。水道や下水道など、高度な土木技術を持っていた名残が、現在のリールヘイヴンにも残っている。



▼世界の法則と魔法

・エーテル:

世界に遍在する根源的なエネルギーであり、全ての魔法の源。通常は目に見えないが、キーガンのような感受性の高い者はその流れや揺らぎを感じ取ることができる。


・エーテル脈:

生命体が持つ、エーテルを感知・利用するための生体器官またはシステム。キーガンが遺体に触れた際、このエーテル脈を通じて死者の最後の記憶の断片を感じ取った。


・素質 / 固有エーテルパターン:

キーガンが持つ、触れた物から記憶の断片を読み取る能力。イニスマールの世界では、個人が生まれつき持つエーテル的な能力を指す。


・禁断の魔法:

レミュエルの遺体に見られた奇妙な痣の原因として、キーガンが推測した危険な魔法。その詳細はまだ不明。



▼暦と通貨

・霧雨月:

リールヘイヴンで用いられる「潮流暦」における、秋の月の一つ。その名の通り、冷たい霧や雨が多い季節。


・リール銀貨:

リールヘイヴンが独自に発行する、日常的な取引で主に用いられる銀貨。


・ソラス金貨:

リール銀貨よりも価値の高い金貨。高額な取引や、まとまった報酬の支払いに用いられる。



▼天体

・アリアン / モルヴラン :

イニスマールが周回する連星系の二つの太陽。

アリアン: 白く明るい主星。昼の主な光源。

モルヴラン: 赤く暗い伴星。夜明け前や夕暮れ時に空を照らす。



▼神々と世界の概念

・神徒 (しんと):

イニスマールの世界における「神々」。世界の特定の側面を司り、人々の信仰の対象となっている。


・カドガン:

法、秩序、正義を司る神徒の一柱。都市警備隊のような法を執行する者たちから、その象徴として信仰されていることがある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ