リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘 十一
絶望には、奇妙な静けさが伴う。工房の地下貯蔵室で、俺たちは、サイラス・ヴォーレンという巨大な蜘蛛が張り巡らせた巣の、その中心に自分たちがいることを知った。都市警備隊は俺を殺人犯として追い、シンジケートは俺たちを邪魔者として狙っている。そして、俺たちの手元には、敵がわざと掴ませた「鍵」だけがある。それは、チェックメイトを宣告された盤面のように、完璧な袋小路だった。
「…面白いじゃないか」
沈黙を破ったのは、エリアラだった。彼女の灰色の瞳は、絶望ではなく、むしろ挑戦的な光を宿していた。
「敵がこちらの動きを読んで罠を張ったのなら、こちらもその罠を逆手に取り、さらにその裏をかくまでのこと。錬金術の基本は、物質の性質を理解し、それを支配することだ。状況もまた、同じだ」
彼女は漆喰の壁に向き直り、木炭でさらに複雑な図式を書き加え始めた。それは、偽造する「生命のコンデンサー」の設計図に、俺には理解不能な、しかし明らかに危険な回路を付け加えているようだった。
「ヴォーレンは、我々が持ち込む偽のアーティファクトに、彼が用意した『調律結晶』が組み込まれることで、儀式が完成すると踏んでいる」彼女は、独り言のように、しかし俺に聞かせるように言った。「ならば、その期待に応えてやろう。ただし、この偽のコンデンサーは、治癒のエネルギーではなく、混沌のエーテルを解き放つ『起爆装置』として機能させる。儀式が始まり、ヴォーレンが運河網から魂のエーテルを吸い上げた瞬間、我々の仕掛けが作動し、そのエネルギーの流れを逆流・暴走させる。魂の奔流は、術者であるヴォーレン自身を飲み込むだろう」
「…正気の沙汰じゃない。そんなことをすれば、第七倉庫地区が丸ごと吹き飛ぶかもしれん」
「だから、それを最小限に抑えるための『調整』が必要になる」エリアラは言った。「それと、我々が儀式の中心に辿り着き、この『お土産』を設置するための時間と、陽動もな。お前の出番だ、探し屋。お前が持つ、裏社会の『借り』とやらを、そろそろ返してもらう時が来た」
俺の脳裏に、一人の女の顔が浮かんだ。「古の迷宮」を縄張りとし、水路に沈んだあらゆるガラクタや秘密を拾い上げて商売にする、サルベージ屋の女主人。名はモイラ。フィリアンだが、その歳は誰にも分からず、その瞳はドゥムノンの深淵そのものよりも深いと言われている。彼女は、俺が警備隊時代に見逃してやった、いくつかの「汚い仕事」の借りがあった。
その夜、俺とエリアラは、「古の迷宮」のさらに奥深く、水路が巨大な地下空洞へと繋がる場所にいた。モイラの根城は、旧アルヴァリア帝国時代の、放棄された巨大な貯水槽の内部にあった。
入り口では、カイナ族の用心棒たちが、俺たちに鋭い視線を向けた。だが、俺がブレヌスの氏族の紋章が刻まれた小さな石を見せると、彼らは渋々ながらも道を開けた。ブレヌスは、彼女にとっても数少ない「信用できる取引相手」だったのだ。
貯水槽の内部は、無数のエーテル灯と、水面に浮かべられた発光する菌類によって、不気味なほど明るく照らされていた。壁際には、水路から引き揚げられたガラクタ――壊れたゴーレムの腕、錆びついた帝国の鎧、そして持ち主不明の宝箱などが、山のように積まれている。
モイラは、そのガラクタの山の頂上に置かれた、豪華だが傷だらけの椅子に腰かけていた。彼女は老婆の姿をしていたが、その背筋はまっすぐに伸び、その声は、水底の石を転がすように低く、重かった。
「…ブレヌスの小僧が死んだそうだな」モイラは、俺たちを一瞥すると言った。「そして、その罪をお前がかぶせられた、と。それで、私に何を求めに来た? 警備隊からの逃亡の手助けか? それとも、ただの泣き言か?」
「あんたの助けが借りたい」俺は単刀直入に言った。「三日後の新月の夜、第七倉庫で『サーペント・コイル』の競売会が開かれる。その裏で、サイラス・ヴォーレンが何かを企んでいる。俺たちはそれを止めたい。あんたの部下に、陽動を頼みたい。それと、倉庫の地下にある、旧帝国の水門施設への安全な侵入経路の情報が欲しい」
モイラは、長い沈黙の後、くぐもった笑い声を上げた。
「面白いことを言う。商人ギルドの最高幹部に喧嘩を売るだと? お前たち二人だけでか? 私はただのガラクタ拾いだ。五大ギルドの戦争に、首を突っ込む趣味はない」
「これは、ただのギルド間の戦争じゃない」エリアラが前に進み出た。「サイラス・ヴォーレンの儀式は、都市全体の運河網を利用する。成功すれば、彼の力は絶大になるだろうが、失敗すれば…あるいは暴走すれば、この地下水路も、お前のこのガラクタの王国も、全てが汚染された魂の泥に沈むことになる。そうなれば、お前の商売も終わりだ」
モイラの笑みが消えた。彼女はエリアラを、そして俺を、値踏みするように、あるいは魂の奥底まで見透かすように見つめた。
「…第七倉庫の地下水門、か。あそこは、旧帝国の遺物の中でも、特に厄介な代物だ。ヴォーレンの『専門家』とやらも、骨が折れるだろうな」
彼女は、何かを思い出すように、遠い目をした。
「…その地下施設の専門家として雇われている男は、筋金入りの狂人だと聞く。かつて魔術師ギルドと錬金術師ギルドの両方から、その危険すぎる研究ゆえに追放された、魂魄の錬金術に魅入られた男だ。名は知られていない。ただ、裏では『縫合者』と呼ばれているらしい」
エリアラの顔色が変わった。それは特定の個人への憎悪ではなく、その異名が示す、生命と魂を物のように繋ぎ合わせるという冒涜的な技術への、純粋な嫌悪と軽蔑の色だった。
「『縫合者』…! 禁書庫の最奥で、その存在を示唆する記述を一度だけ見たことがある。魂を物質に定着させる、禁断の技術…。ヴォーレンは、本物の専門家を雇ったというわけか」
その声には、彼女自身の研究分野の禁忌に触れる者への、冷たい怒りが宿っていた。
「どうやら、お嬢ちゃんにも、ただの知的好奇心だけではない、戦う理由ができたようだな」モイラは、満足げに頷いた。
「よかろう。取引だ。新月の夜、私の部下たちが、第七倉庫の地上で、これ以上ないほどの派手な『事故』を起こしてやる。警備隊の注意を地上に引きつけ、お前たちが地下に潜るための時間を稼いでやる。侵入経路の古い地図もくれてやろう」
彼女は、しかし、続けた。
「だが、その先は、お前たちの戦いだ。私は、ヴォーレンや『縫合者』と直接事を構えるつもりはない。これは、お前たちの『賭け』だ。生き延びて、何らかの『お土産』を持ち帰ることができたなら、その時は、また新たな取引をしようじゃないか」
俺たちは、モイラの差し出す、古びた羊皮紙の地図を受け取った。それは、リールヘイヴンの地下に広がる、忘れられた水路網の、詳細な地図だった。
工房に戻る道すがら、エリアラは珍しく沈黙していた。彼女の心は、ヴォーレンの儀式と、その裏にいるであろう『縫合者』の冒涜的な技術への怒りに燃えているのだろう。
俺は、ブレヌスのことを考えていた。彼の死は、無駄ではなかった。彼の遺した情報が、俺たちをここまで導いた。そして、モイラの協力という、最後の切り札をもたらしてくれた。
工房に戻ると、エリアラは、再び偽のアーティファクトの製作に取り掛かった。その瞳には、以前にも増して、冷徹で、しかし確かな意志の光が宿っていた。
俺は、壁に立てかけてあった、父親譲りのショートソードを手に取った。その重みを、確かめるように。そして、ゆっくりと、砥石で刃を研ぎ始めた。
規則正しい、金属を削る音だけが、工房の中に響く。
新月の夜まで、あと二日。
俺たちの、そしてリールヘイヴンの運命を決める夜が、すぐそこまで迫っていた。
『リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘』固有名詞・世界観ガイド
▼世界と惑星
・イニスマール:
この物語の舞台となる惑星。主星アリアンと伴星モルヴランという二つの太陽、そして月エーディンを持つ。エレニア、ティルナといった複数の大陸が存在し、豊かな自然と、遍在するエネルギー「エーテル」によって、多様な生命と魔法文化が育まれている。
▼舞台:自由都市リールヘイヴン
・リールヘイヴン:
物語の主な舞台となる、エレニア大陸南東部に位置する独立した自由都市国家。「水の都」とも呼ばれ、無数の運河と橋が特徴。交易の中心地であり、様々な種族や文化が混在する、活気と混沌に満ちた場所。
・セリオン川:
エレニア大陸を流れる大河。リールヘイヴンはこの川が内海「静かの海」に注ぎ込む、広大なデルタ地帯に築かれている。
・市民街:
リールヘイヴンを構成する地区の一つ。職人、小商人、そして主人公キーガンのような一般市民が住む、生活感に溢れたエリア。
・波止場街:
リールヘイヴンの港湾地区。常に船と人で賑わい、活気がある一方で、治安はあまり良くないとされる。会計士レミュエルが最後に目撃された場所。
・古の迷宮:
都市開発から取り残された、古い水路が迷路のように入り組んだ地区。レミュエルの遺体が発見された場所。
▼大陸と地域
・エレニア大陸:
物語の主要な舞台となる、広大で多様な気候を持つ中心大陸。リールヘイヴンなどが存在する。
・ティルナ大陸:
エレニア大陸の南方に位置するとされる、熱帯・亜熱帯・乾燥帯が混在する大陸。リールヘイヴンには、この大陸から珍しい香辛料や物品がもたらされることがある。
▼登場人物と種族
・キーガン・オマリー:
物語の主人公。市民街で探し屋を営むフィリアン族の男性。元都市警備隊員で、何らかの過去を持つらしい。
・探し屋 (さがしや):
キーガンの職業。人探しや、失せ物探し、あるいは特定の情報を探すといった、都市内部の個人的な依頼を請け負う。冒険者ギルドとは異なり、より調査や探偵に近い活動を行う。
・セラフィナ:
リールヘイヴン都市警備隊の中隊長。フィリアン族の女性。キーガンとは過去に因縁がある様子。
・エリアラ:
魔術師ギルドをその過激な探求心ゆえに追放された、若く有能だが毒舌な女性錬金術師。アルウィンの血を引く。事件の被害者に残された特異なエーテルの痕跡に興味を持ち、キーガンの捜査に協力する。
・フィリアン:
いわゆる「人間」。イニスマールで最も数が多く、多様な文化を持つ主要種族。キーガン、セラフィナ、依頼人の男などがこの種族。
・レシン:
フィリアンの子供ほどの小柄な体格を持つ種族。キーガンの事務所の大家はこの種族。
・ゴバン:
頑健で職人気質な種族。キーガンが行きつけの酒場の亭主はこの種族。
・カイナ:
野生動物の特徴を併せ持つ獣人族。鋭敏な感覚と高い身体能力で知られる。
・アルウィン:
優美で長命な、森と共に生きる種族。自然やエーテルへの感受性が高く、魔法に長ける者が多い。エリアラはこの種族の血を引いている。
・モルウィン:
地底域に住む、アルウィンに近いとされる種族。影や秘密の魔法、そして毒や薬に関する独自の知識を持つと言われている。
▼組織・歴史
・商人ギルド:
リールヘイヴンを実質的に統治する「五大ギルド」の一つ。商業活動を管理・統括している。今回の依頼主。
・魔術師ギルド:
「五大ギルド」の一つ。魔法技術の研究や管理を行っているとされる。リールヘイヴンで最も高い黒曜石の塔を持つ。
・都市警備隊:
リールヘイヴンの治安維持を担う公的な組織。キーガンがかつて所属していた。
・旧アルヴァリア帝国:
リールヘイヴンを含むエレニア大陸南東部を支配していたとされる、かつての海洋帝国。水道や下水道など、高度な土木技術を持っていた名残が、現在のリールヘイヴンにも残っている。
▼世界の法則と魔法
・エーテル:
世界に遍在する根源的なエネルギーであり、全ての魔法の源。通常は目に見えないが、キーガンのような感受性の高い者はその流れや揺らぎを感じ取ることができる。
・エーテル脈:
生命体が持つ、エーテルを感知・利用するための生体器官またはシステム。キーガンが遺体に触れた際、このエーテル脈を通じて死者の最後の記憶の断片を感じ取った。
・素質 / 固有エーテルパターン:
キーガンが持つ、触れた物から記憶の断片を読み取る能力。イニスマールの世界では、個人が生まれつき持つエーテル的な能力を指す。
・禁断の魔法:
レミュエルの遺体に見られた奇妙な痣の原因として、キーガンが推測した危険な魔法。その詳細はまだ不明。
▼暦と通貨
・霧雨月:
リールヘイヴンで用いられる「潮流暦」における、秋の月の一つ。その名の通り、冷たい霧や雨が多い季節。
・リール銀貨:
リールヘイヴンが独自に発行する、日常的な取引で主に用いられる銀貨。
・ソラス金貨:
リール銀貨よりも価値の高い金貨。高額な取引や、まとまった報酬の支払いに用いられる。
▼天体
・アリアン / モルヴラン :
イニスマールが周回する連星系の二つの太陽。
アリアン: 白く明るい主星。昼の主な光源。
モルヴラン: 赤く暗い伴星。夜明け前や夕暮れ時に空を照らす。
▼神々と世界の概念
・神徒 (しんと):
イニスマールの世界における「神々」。世界の特定の側面を司り、人々の信仰の対象となっている。
・カドガン:
法、秩序、正義を司る神徒の一柱。都市警備隊のような法を執行する者たちから、その象徴として信仰されていることがある。