リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘 十
闇。
そして、水の音。
リールヘイヴンの地下を流れる、忘れられた水路の音だ。それは運河を流れる舟の音でも、雨が石畳を打つ音でもない。もっと鈍く、重く、澱んだ音。まるで、この都市が消化しきれなかった全ての汚泥と、秘密と、そして死者の囁きが、混じり合って流れているかのようだった。
俺の意識は、その淀んだ流れの底から、ゆっくりと浮上した。
肩に走る、焼けるような痛み。セラフィナの放った矢が掠めた傷だ。大した深さではないはずだが、霧雨月の冷たい水に浸かったせいで、熱を持ち始めている。
「……動くな。傷に響く」
冷たく、しかし澄んだ声がした。エリアラだ。
見ると、俺は彼女の隠れ家――あの変わり者の錬金術師が遺した工房の、さらに地下にある貯蔵室に寝かされていた。壁からは水が染み出し、ルミナス・ファンガス(発光茸)の青白い光だけが、俺たちの姿をぼんやりと照らしている。
エリアラは、俺の肩の傷を、手際よく、しかし何の感情も見せずに手当てしていた。彼女の指先から、薬草と、消毒用の強いアルコール、そして血の匂いがした。
「……ブレヌスは、死んだ」
俺が呟くと、彼女の手が一瞬だけ止まった。
「知っている。お前が逃げ込んだ後、私が遠見の魔法で確認した。警備隊が遺体を回収し、お前のナイフを証拠品として持ち去るのもな」
「……」
「お前は今、この街で最も有名な殺人犯だ、探し屋。おめでとう」
その声には、皮肉以外の何も含まれていなかった。
絶望が、再び俺の全身を冷たい泥のように満たしていく。
リアムが死んだ時と同じだ。俺は、何もできなかった。信じてくれた仲間を、目の前で失い、ただ逃げることしかできなかった。俺は、そういう男なのだ。
「…もう、終わりだ」俺は、乾いた唇で言った。「俺は、この街を出る。あんたも、これ以上関わるな。ヴォーレンは、あんたのことも知っているはずだ」
エリアラは、手当ての手を止め、静かに顔を上げた。ルミナス・ファンガスの青白い光が、彼女の灰色の瞳を、まるで深海の宝石のように輝かせていた。
「逃げるのか?」
その問いは、刃のように鋭かった。
「どこへ? この街から逃げても、お前の過去からは逃げられない。お前が『リアム』と呼ぶ亡霊からも、今しがた増えた『ブレヌス』という名の亡霊からもな」
「お前に何が分かる!」俺は思わず声を荒げた。
「何も分からないさ」エリアラは平然と答えた。「私は、お前の感傷的な過去にも、陳腐な罪悪感にも興味はない。私が興味あるのは、事実と、そこから導き出される論理的な帰結だけだ。そして、事実として、お前の手元には、あのゴバンが命を賭して託したものが残っている」
彼女は、俺が気を失っている間に懐から取り出しておいたのであろう、ブレヌスの遺した小さな革袋を指さした。
「お前がここで全てを投げ出して逃げるというのなら、それはお前の自由だ。だが、その袋はここに置いていけ。それは、もはやお前個人の感傷の品ではない。この事件の、唯一の手がかりだ」
俺は、言葉に詰まった。彼女の言う通りだった。あの革袋は、ブレヌスの命そのものだ。それを投げ出すことは、彼の死を、そして俺自身の生をも、完全に無意味にすることだった。
「……中身は、見たのか」
「まだだ。お前の許可なく、他人の遺品を探るほど、私は無粋ではない。もっとも、これ以上ぐずぐずしているなら、話は別だが」
俺は、震える手で革袋を掴み、その紐を解いた。中に入っていたのは、金属のプレートが一枚と、奇妙な紋様が刻まれた、平たい石が数個だけだった。
エリアラは、それをピンセットで慎重に取り上げ、鑑定用のレンズで調べ始めた。
「…この金属は、ゴバン族の中でも高位の者が使う、記憶合金の一種だ。特定の温度とエーテルに反応して、隠された情報を表示する。そしてこの石は…」
彼女は石の表面を指でなぞり、眉をひそめた。
「…リアンヴァル地方の、特定の鉱脈でしか採れない『響き石』だ。それも、極めて純度の高い。ブレヌスは、何かの『鍵』を遺したつもりのようだな」
エリアラは、工房からいくつかの薬品と、小さなエーテルランプを持ってきた。彼女は金属プレートをランプの炎で慎重に炙り、同時に、響き石を特定の順番で並べ、その上に特殊な液体を垂らした。
すると、金属プレートの表面に、熱に反応した文字が、陽炎のように浮かび上がってきた。それは、旧アルヴァリア帝国時代に使われていた、古い暗号だった。
同時に、響き石が微かに共鳴を始め、壁に淡い光のパターンを投影した。それは、リールヘイヴンの、極めて詳細な地下水路の地図だった。
「…解読できた」数十分後、エリアラが呟いた。彼女の額には、玉のような汗が浮かんでいた。
「ヴォーレンの計画の全貌だ。彼は、次の新月の夜、天体の配置が特定の『門』を開く瞬間に、儀式を開始する。波止場街の第七倉庫は、ただの中継地点に過ぎない。本当の儀式の場は、その地下深く…旧アルヴァリア帝国時代に造られた、巨大な水門施設だ。リールヘイヴン中の主要な運河の水流が、全てそこに集まるように設計されている」
彼女は、工房の壁に殴り書きされた地図を指さした。
「犯人たちは、その水門を使い、リールヘイヴンの運河網全体を、巨大な『魂の収穫機』に変えるつもりだ。新月の夜、彼らが『器』に収穫した魂のエーテルを注ぎ込み、その力を増幅させ、運河の水を通じて、都市全体に汚染を広げる。その目的は…」
エリアラは、震える指で、解読した暗号の最後の一文をなぞった。
「『旧き神の肉体を、都市そのものを生贄として再構成し、我らが主、サイラス・ヴォーレンを、新たな神徒として戴冠させる』」
都市そのものを、生贄に。
その言葉の持つ、狂気的な響きに、俺は言葉を失った。これは、もはやただの陰謀ではない。神を創り出そうとする、冒涜的な儀式だ。
俺は、拳を強く握りしめた。リアム。ブレヌス。そして、名も知らぬ会計士と石工。彼らの死は、この狂気の計画の、ほんの序章に過ぎなかった。
俺がここで逃げれば、さらに多くの、数えきれないほどの無辜の魂が収穫される。俺が守れなかった者たちのリストに、この都市の全ての住民の名前が加わることになる。
もう、迷いはなかった。
絶望の泥の中から、小さな、しかし硬い決意が芽生えていた。
「…エリアラ」俺は、自分の声が、久しぶりに何の揺らぎもなく響くのを感じた。「俺たちがやるべきことは、一つだ」
エリアラは、俺の顔を見つめ、そして、初めて、ほんの僅かに、同志を見るかのような笑みを浮かべた。
「ああ。分かっている」
「奴らの『戴冠式』を、盛大にぶち壊してやる」
リールヘイヴンの地下深く、忘れられた工房の中で、追われる身となった探し屋と、ギルドを追われた錬金術師の、たった二人だけの反撃が、静かに始まろうとしていた。
『リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘』固有名詞・世界観ガイド
▼世界と惑星
・イニスマール:
この物語の舞台となる惑星。主星アリアンと伴星モルヴランという二つの太陽、そして月エーディンを持つ。エレニア、ティルナといった複数の大陸が存在し、豊かな自然と、遍在するエネルギー「エーテル」によって、多様な生命と魔法文化が育まれている。
▼舞台:自由都市リールヘイヴン
・リールヘイヴン:
物語の主な舞台となる、エレニア大陸南東部に位置する独立した自由都市国家。「水の都」とも呼ばれ、無数の運河と橋が特徴。交易の中心地であり、様々な種族や文化が混在する、活気と混沌に満ちた場所。
・セリオン川:
エレニア大陸を流れる大河。リールヘイヴンはこの川が内海「静かの海」に注ぎ込む、広大なデルタ地帯に築かれている。
・市民街:
リールヘイヴンを構成する地区の一つ。職人、小商人、そして主人公キーガンのような一般市民が住む、生活感に溢れたエリア。
・波止場街:
リールヘイヴンの港湾地区。常に船と人で賑わい、活気がある一方で、治安はあまり良くないとされる。会計士レミュエルが最後に目撃された場所。
・古の迷宮:
都市開発から取り残された、古い水路が迷路のように入り組んだ地区。レミュエルの遺体が発見された場所。
▼大陸と地域
・エレニア大陸:
物語の主要な舞台となる、広大で多様な気候を持つ中心大陸。リールヘイヴンなどが存在する。
・ティルナ大陸:
エレニア大陸の南方に位置するとされる、熱帯・亜熱帯・乾燥帯が混在する大陸。リールヘイヴンには、この大陸から珍しい香辛料や物品がもたらされることがある。
▼登場人物と種族
・キーガン・オマリー:
物語の主人公。市民街で探し屋を営むフィリアン族の男性。元都市警備隊員で、何らかの過去を持つらしい。
・探し屋 (さがしや):
キーガンの職業。人探しや、失せ物探し、あるいは特定の情報を探すといった、都市内部の個人的な依頼を請け負う。冒険者ギルドとは異なり、より調査や探偵に近い活動を行う。
・セラフィナ:
リールヘイヴン都市警備隊の中隊長。フィリアン族の女性。キーガンとは過去に因縁がある様子。
・エリアラ:
魔術師ギルドをその過激な探求心ゆえに追放された、若く有能だが毒舌な女性錬金術師。アルウィンの血を引く。事件の被害者に残された特異なエーテルの痕跡に興味を持ち、キーガンの捜査に協力する。
・フィリアン:
いわゆる「人間」。イニスマールで最も数が多く、多様な文化を持つ主要種族。キーガン、セラフィナ、依頼人の男などがこの種族。
・レシン:
フィリアンの子供ほどの小柄な体格を持つ種族。キーガンの事務所の大家はこの種族。
・ゴバン:
頑健で職人気質な種族。キーガンが行きつけの酒場の亭主はこの種族。
・カイナ:
野生動物の特徴を併せ持つ獣人族。鋭敏な感覚と高い身体能力で知られる。
・アルウィン:
優美で長命な、森と共に生きる種族。自然やエーテルへの感受性が高く、魔法に長ける者が多い。エリアラはこの種族の血を引いている。
・モルウィン:
地底域に住む、アルウィンに近いとされる種族。影や秘密の魔法、そして毒や薬に関する独自の知識を持つと言われている。
▼組織・歴史
・商人ギルド:
リールヘイヴンを実質的に統治する「五大ギルド」の一つ。商業活動を管理・統括している。今回の依頼主。
・魔術師ギルド:
「五大ギルド」の一つ。魔法技術の研究や管理を行っているとされる。リールヘイヴンで最も高い黒曜石の塔を持つ。
・都市警備隊:
リールヘイヴンの治安維持を担う公的な組織。キーガンがかつて所属していた。
・旧アルヴァリア帝国:
リールヘイヴンを含むエレニア大陸南東部を支配していたとされる、かつての海洋帝国。水道や下水道など、高度な土木技術を持っていた名残が、現在のリールヘイヴンにも残っている。
▼世界の法則と魔法
・エーテル:
世界に遍在する根源的なエネルギーであり、全ての魔法の源。通常は目に見えないが、キーガンのような感受性の高い者はその流れや揺らぎを感じ取ることができる。
・エーテル脈:
生命体が持つ、エーテルを感知・利用するための生体器官またはシステム。キーガンが遺体に触れた際、このエーテル脈を通じて死者の最後の記憶の断片を感じ取った。
・素質 / 固有エーテルパターン:
キーガンが持つ、触れた物から記憶の断片を読み取る能力。イニスマールの世界では、個人が生まれつき持つエーテル的な能力を指す。
・禁断の魔法:
レミュエルの遺体に見られた奇妙な痣の原因として、キーガンが推測した危険な魔法。その詳細はまだ不明。
▼暦と通貨
・霧雨月:
リールヘイヴンで用いられる「潮流暦」における、秋の月の一つ。その名の通り、冷たい霧や雨が多い季節。
・リール銀貨:
リールヘイヴンが独自に発行する、日常的な取引で主に用いられる銀貨。
・ソラス金貨:
リール銀貨よりも価値の高い金貨。高額な取引や、まとまった報酬の支払いに用いられる。
▼天体
・アリアン / モルヴラン :
イニスマールが周回する連星系の二つの太陽。
アリアン: 白く明るい主星。昼の主な光源。
モルヴラン: 赤く暗い伴星。夜明け前や夕暮れ時に空を照らす。
▼神々と世界の概念
・神徒 (しんと):
イニスマールの世界における「神々」。世界の特定の側面を司り、人々の信仰の対象となっている。
・カドガン:
法、秩序、正義を司る神徒の一柱。都市警備隊のような法を執行する者たちから、その象徴として信仰されていることがある。