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リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘 一

雨は、リールヘイヴンでは決して垂直には降らない。


霧雨月の空から落ちる滴は、運河と路地の隙間を縫うように吹く湿った風に弄ばれ、斜めに、時には渦を巻きながら、俺の事務所の汚れた窓ガラスを叩いた。それはまるで、無数の小さな指が、忘れられた記憶の扉を性急にノックしているかのようだった。


キーガン・オマリー、三十八歳。肩書は探し屋だが、現実は安酒と過去の亡霊を相手にする時間潰しの専門家だ。市民街の、今にも運河に崩れ落ちそうな古い建物の三階。俺の事務所兼住居の窓から見えるのは、向かいの建物の濡れたレンガ壁と、その間から覗く鉛色の空だけ。ここからは、魔術師ギルドの黒曜石の塔も、商人ギルドの黄金の屋根も見えない。見えない方が、都合が良かった。


安物の蒸留酒をグラスに注ぐ。琥珀色の液体が、部屋の薄暗さの中で鈍い光を放った。一口飲むと、喉が焼けるような熱さが広がり、次いで胃の腑に冷たい石が沈む。この感覚だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる、唯一の確かな感触だった。


扉が、控えめに、しかし執拗に三度叩かれた。


客など、ここ数週間は顔を見ていない。家賃の催促に来た大家のレシン族の女か、あるいは飲み代のツケを払えと怒鳴り込みに来た酒場のゴバン人の亭主か。どちらにせよ、居留守を使うのが賢明だ。俺はグラスを傾け、返事をしなかった。


だが、扉の向こうの気配は消えない。それどころか、微かな、しかし質の悪いエーテルの揺らぎが伝わってきた。緊張と、隠しきれない傲慢さ。ギルドの匂いだ。


「……開いている」


俺が吐き捨てると、扉が軋む音を立てて開いた。入ってきたのは、小綺麗なチュニックを着た、まだ若いフィリアンの男だった。その服の仕立ての良さと、靴についた泥の少なさが、彼が普段は埃っぽい路地裏とは無縁の世界にいることを示していた。その手には、商人ギルドの紋章が小さく刻印された革鞄が、まるで盾のように握りしめられている。


「キーガン・オマリー氏か」男は、事務所の惨状を値踏みするように見回しながら言った。


「そうだが。あんたは?」


「私は商人ギルドに籍を置く者だ。名は……重要ではあるまい。ギルドからの、内密の依頼だ」


内密、と来たか。この街でその言葉は、「厄介事」の同義語だ。


「人探しだ」男は続けた。「ギルドに所属する会計士の一人、レミュエルという男が、昨夜から姿を消した。彼は重要な帳簿を幾つか管理している。大事になる前に、静かに見つけ出してほしい」


「警備隊に届けろ。俺の仕事じゃない」


「公式にはできない理由がある」男は苛立ったように言った。「彼は少々……個人的な問題を抱えていてな。単なる家出かもしれん。事が大きくなるのは望ましくない。君は元都市警備隊の人間だと聞いている。土地勘もあるだろう。成功すれば、報酬は弾む」


男は革鞄から、ずしりと重そうな革袋を取り出し、机の上に置いた。鈍い金属音が響く。手付金、リール銀貨五十枚。今の俺には、断るという選択肢を忘れさせるには十分すぎる金額だった。俺は無言で革袋を掴み、グラスの残りを一気に呷った。


「特徴は?最後に目撃されたのは?」


「黒髪、中肉中背。目立たない男だ。昨夜、波止場街の酒場『錆びた錨亭』で飲んでいたとの情報がある。そこから足取りが途絶えた」


波止場街。リールヘイヴンで最も活気があり、最も危険な場所。潮の香りと、安酒と、そして時折、血の匂いが混じり合う地区だ。


「分かった。探してみよう。だが、期待はするな」


俺の言葉に、男は満足げに頷くと、一刻も早くこの場を離れたいというように、足早に事務所を出ていった。


残された部屋に、再び雨音と沈黙が戻る。机の上に置かれた銀貨の重みが、俺を現実へと引き戻した。簡単な人探し。酔っ払いが運河に落ちたか、女の元に転がり込んでいるか。そう、それだけの筈だった。


セリオン川の濁った水は、都市のあらゆる秘密を飲み込み、そして時折、その一部を気まぐれに岸辺へ吐き出す。レミュエルとやらの遺体は、波止場街から少し離れた、忘れられた水路「古の迷宮」の入り口に引っかかっていた。


現場には既に都市警備隊の連中が到着していた。俺の顔を見るなり、彼らの間に嫌悪と侮蔑の空気が広がるのが分かった。特に、部隊を指揮していたセラフィナ中隊長の視線は、冬の氷のように冷たかった。


「オマリー。こんな場所で何を嗅ぎ回っている。お前の出る幕ではないはずだが?」


「仕事でな、セラフィナ。人探しだ。どうやら、俺の探していた男は、運悪く足を滑らせたらしい」


俺は皮肉を込めて言った。


遺体は、警備隊の舟に引き揚げられていた。典型的な水死体だ。水を含んで膨張し、肌は不気味なほど白い。だが、何か違和感があった。経験則が、俺の中で警鐘を鳴らしている。


「……ただの事故か?」俺はセラフィナに尋ねた。


「そのようだ。昨夜、酒場で泥酔している姿が目撃されている。足を滑らせ、運河に落ちたのだろう。よくある話だ」


セラフィナの言葉は、あまりにも手際が良すぎた。


俺は彼女の制止を無視して遺体に近づき、屈み込んだ。そして、気づいた。遺体の首筋や手首に、微かに残る、奇妙な痣。それは単なる打撲痕ではない。まるで、生命力が内側から吸い取られたかのように、その部分だけが極端に色褪せ、エーテルが完全に枯渇していた。俺が警備隊時代に一度だけ見たことがある、禁断の魔法の痕跡に酷似していた。


「おい、何をしている!」


セラフィナが俺の腕を掴む。だが、もう遅い。俺の指先が、遺体の冷たい皮膚に触れた瞬間、奔流が来た。


――恐怖。絶対的な、魂を凍らせるような恐怖。暗く、狭い場所。滴る水の音。そして、何か、言葉にならない、しかし明確な悪意に満ちた存在の気配。助けを求める声は出ない。エーテル脈が内側から焼かれるような激痛。最後に見たのは、複雑な幾何学模様が刻まれた、濡れた石の床――


「…っぐ!」


俺は激しく咳き込みながら後ずさった。セラフィナが怪訝な顔で俺を見ている。


「どうした、オマリー。気分でも悪いのか」


「……いや、何でもない。ただの事故死だな、確かに」


俺はそう言って、何でもないふりを装った。だが、全身の汗が止まらない。あれは事故死ではない。あれは、殺されたのだ。それも、極めて異様で、残忍な方法で。


公式な調査は、セラフィナが言った通り、「事故」として早々に打ち切られた。商人ギルドの男は、遺体が見つかったことに安堵し、残りの報酬を俺に支払うと、足早に去っていった。帳簿も遺体と共に発見されたらしい。


事務所に戻り、俺は受け取ったソラス金貨をテーブルに放り出した。鈍い音を立てて金貨が転がる。簡単な人探しのはずだった。だが、俺は、またしても深淵の縁を覗き込んでしまった。

あのエーテルの痕跡。あの恐怖の記憶。


これは、ただの一人の会計士の死ではない。この巨大な水の都の、華やかな繁栄の裏側で、何かが蠢き始めている。


俺は窓の外を見た。モルヴランの赤い光が、運河を再び血の色に染め上げていた。そして、俺は知っていた。この事件から手を引くことは、もうできないのだと。

『リールヘイヴンの影、錬金術師の嘘』固有名詞・世界観ガイド


▼世界と惑星

・イニスマール:

この物語の舞台となる惑星。主星アリアンと伴星モルヴランという二つの太陽、そして月エーディンを持つ。エレニア、ティルナといった複数の大陸が存在し、豊かな自然と、遍在するエネルギー「エーテル」によって、多様な生命と魔法文化が育まれている。



▼舞台:自由都市リールヘイヴン

・リールヘイヴン:

物語の主な舞台となる、エレニア大陸南東部に位置する独立した自由都市国家。「水の都」とも呼ばれ、無数の運河と橋が特徴。交易の中心地であり、様々な種族や文化が混在する、活気と混沌に満ちた場所。


・セリオン川:

エレニア大陸を流れる大河。リールヘイヴンはこの川が内海「静かの海」に注ぎ込む、広大なデルタ地帯に築かれている。


・市民街:

リールヘイヴンを構成する地区の一つ。職人、小商人、そして主人公キーガンのような一般市民が住む、生活感に溢れたエリア。


・波止場街:

リールヘイヴンの港湾地区。常に船と人で賑わい、活気がある一方で、治安はあまり良くないとされる。会計士レミュエルが最後に目撃された場所。


・古の迷宮:

都市開発から取り残された、古い水路が迷路のように入り組んだ地区。レミュエルの遺体が発見された場所。



▼大陸と地域

・エレニア大陸:

物語の主要な舞台となる、広大で多様な気候を持つ中心大陸。リールヘイヴンなどが存在する。


・ティルナ大陸:

エレニア大陸の南方に位置するとされる、熱帯・亜熱帯・乾燥帯が混在する大陸。リールヘイヴンには、この大陸から珍しい香辛料や物品がもたらされることがある。



▼登場人物と種族

・キーガン・オマリー:

物語の主人公。市民街で探し屋を営むフィリアン族の男性。元都市警備隊員で、何らかの過去を持つらしい。


・探し屋 (さがしや):

キーガンの職業。人探しや、失せ物探し、あるいは特定の情報を探すといった、都市内部の個人的な依頼を請け負う。冒険者ギルドとは異なり、より調査や探偵に近い活動を行う。


・セラフィナ:

リールヘイヴン都市警備隊の中隊長。フィリアン族の女性。キーガンとは過去に因縁がある様子。


・エリアラ:

魔術師ギルドをその過激な探求心ゆえに追放された、若く有能だが毒舌な女性錬金術師。アルウィンの血を引く。事件の被害者に残された特異なエーテルの痕跡に興味を持ち、キーガンの捜査に協力する。


・フィリアン:

いわゆる「人間」。イニスマールで最も数が多く、多様な文化を持つ主要種族。キーガン、セラフィナ、依頼人の男などがこの種族。


・レシン:

フィリアンの子供ほどの小柄な体格を持つ種族。キーガンの事務所の大家はこの種族。


・ゴバン:

頑健で職人気質な種族。キーガンが行きつけの酒場の亭主はこの種族。


・カイナ:

野生動物の特徴を併せ持つ獣人族。鋭敏な感覚と高い身体能力で知られる。


・アルウィン:

優美で長命な、森と共に生きる種族。自然やエーテルへの感受性が高く、魔法に長ける者が多い。エリアラはこの種族の血を引いている。


・モルウィン:

地底域に住む、アルウィンに近いとされる種族。影や秘密の魔法、そして毒や薬に関する独自の知識を持つと言われている。



▼組織・歴史

・商人ギルド:

リールヘイヴンを実質的に統治する「五大ギルド」の一つ。商業活動を管理・統括している。今回の依頼主。


・魔術師ギルド:

「五大ギルド」の一つ。魔法技術の研究や管理を行っているとされる。リールヘイヴンで最も高い黒曜石の塔を持つ。


・都市警備隊:

リールヘイヴンの治安維持を担う公的な組織。キーガンがかつて所属していた。


・旧アルヴァリア帝国:

リールヘイヴンを含むエレニア大陸南東部を支配していたとされる、かつての海洋帝国。水道や下水道など、高度な土木技術を持っていた名残が、現在のリールヘイヴンにも残っている。



▼世界の法則と魔法

・エーテル:

世界に遍在する根源的なエネルギーであり、全ての魔法の源。通常は目に見えないが、キーガンのような感受性の高い者はその流れや揺らぎを感じ取ることができる。


・エーテル脈:

生命体が持つ、エーテルを感知・利用するための生体器官またはシステム。キーガンが遺体に触れた際、このエーテル脈を通じて死者の最後の記憶の断片を感じ取った。


・素質 / 固有エーテルパターン:

キーガンが持つ、触れた物から記憶の断片を読み取る能力。イニスマールの世界では、個人が生まれつき持つエーテル的な能力を指す。


・禁断の魔法:

レミュエルの遺体に見られた奇妙な痣の原因として、キーガンが推測した危険な魔法。その詳細はまだ不明。



▼暦と通貨

・霧雨月:

リールヘイヴンで用いられる「潮流暦」における、秋の月の一つ。その名の通り、冷たい霧や雨が多い季節。


・リール銀貨:

リールヘイヴンが独自に発行する、日常的な取引で主に用いられる銀貨。


・ソラス金貨:

リール銀貨よりも価値の高い金貨。高額な取引や、まとまった報酬の支払いに用いられる。



▼天体

・アリアン / モルヴラン :

イニスマールが周回する連星系の二つの太陽。

アリアン: 白く明るい主星。昼の主な光源。

モルヴラン: 赤く暗い伴星。夜明け前や夕暮れ時に空を照らす。



▼神々と世界の概念

・神徒 (しんと):

イニスマールの世界における「神々」。世界の特定の側面を司り、人々の信仰の対象となっている。


・カドガン:

法、秩序、正義を司る神徒の一柱。都市警備隊のような法を執行する者たちから、その象徴として信仰されていることがある。

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