第04話『突然の元カノ』
エイプリルフールには嘘を吐いていいのなら、そのメッセージこそ嘘だと思いたかった。
けれども彼女がエイプリルフールをご丁寧に遂行するような遊び心に満ちた性格じゃないことは交際期間に知ってしまっているから、嘘だと思いたくても思えなかった。
【MISAKI:少し会えないかしら】
四月一日。
明後日の引っ越しに向けてほとんど空っぽになった部屋の中で、元カノからのRINEを見つめる。最初に思ったのは、まだ繋がれるんだな、ということだった。
MISAKI――すなわち白鷺とは、卒業以来RINEのやり取りをしていない。それでもお互いに削除さえしなければ、こうしてトークできるらしい。
当時とアカウント名は変わっていなかった。アイコンも変わってない。初めて二人で行った動物園デートのときに撮った、白鷺の写真。変えてなかったことに今更気付くこと自体が、時限爆弾のように思えた。
「会えないか、って……なんだよ」
急に連絡されても困るだけだ。会えないに決まってる。会わせる顔がないし、会える立場でもない。
だから既読を付けずに、無視すればいい。そうすれば白鷺だって、疎遠になったんだな、とでも思うはずだ。
【悠:会えないかってなんだよ。急すぎるだろ】
意志と体がチグハグだった。
気付けば律儀に既読を付けて、しかも返信してしまっている。
何をやっているんだと自分を叱りつけて、チグハグなのが意志と体じゃなくて、理性と心なのだと気付く。
俺は今、会いたいのだ。
白鷺岬という一人の人間に。
【MISAKI:日本に帰ってきてるのよ】
【悠:それは知ってる。ニュース見てるからな】
誓って、これは未練とかそういう不純なものではない。
旧友に会いたい。そういう、懐古的な感情だった。
【MISAKI:見下げた野次馬根性ね】
【悠:野次馬根性とかなくても耳に入る。毎日ニュースにも出てたしな】
【MISAKI:興味がないからどうでもいいわ】
文面からも冷たさが伝わってくる。その冷たさが懐かしくて、思わず笑みが零れた。さてなんと返そうかと考えていると、白鷺が話を戻した。
【MISAKI:それで? 会えるの? 会えないの?】
【悠:いつどこで会うんだよ。それ次第だ】
都合さえ合えば、会うに決まってる。
そんな風に受け取られかねないメッセージを送ってしまったと気付いたときには、もう返信が来ていた。
【MISAKI:今日十二時に北原駅で】
指定されたのは、先日シェアハウスを下見に行ったときに降りた駅だった。
随分と近いじゃないか。今は朝の九時。念入りに身支度をしてもお釣りが来るだろう。
【悠:了解】
そこまで返信して、俺はスマホをスリープモードにする。
はぁ、と溜息を吐いていると、ぺたぺたと足音がした。見上げれば、赤い下着姿の三船がいる。昨晩も、三船は泊まっていったのだ。
「あ、おはよ、悠。朝シャワーもらったから」
「お、おう」
「どうかした? なんか、用事でもできた?」
「あっ、えっと……あぁ。ちょっと外に出る用事ができた」
「ふぅん」
訝しげな視線が俺を刺す。
林檎みたいな刺激的なランジェリーと瑞々しい肢体をこれでもかと曝しながら、三船はじっと俺とスマホとを見比べるように視線をスライドさせた。
それから残念そうに、ちぇっ、と舌打ちする。
「朝からもう一戦くらいって思ってたのに。ま、用事ができたなら仕方ないけどね」
「悪い」
「別に謝ることはないでしょ。じゃあ、今日は大人しく帰るから」
「あぁ」
ふあっ、とバスタオルを俺に被せるように放り、三船は手早く服を着ていく。
タオルから仄かに香るシャンプーと汗。すぐに起き上がり、バスタオルを洗濯カゴに投げ入れた。
「んじゃ、また」
「おう。気をつけてな」
「ん」
三船を見送ると、静かな朝がやってくる。
けれど、いつまでも微睡んでもいられない。シャワーを浴びて、着替えて、髪型をセットして……やるべきことは多いのだから。
胸に痞える違和感の正体に気付かないまま、俺は高校二年生の春を迎えた。
◇
北原駅は、春休みということもあってやや人通りが多かった。この人の量だとすぐに白鷺を見つけるのは難しいかもしれない。
改札を通り抜けながらそう思った俺はポケットからスマホを取り出そうとして、メドゥーサに睨まれたみたいに体が止まった。
改札口のその一か所。
柱に寄り掛かるその少女にだけスポットライトが当たっているのかと錯覚するほど、彼女は異彩を放っていた。
きゅぅと音が絞られ、彼女の声だけを集めるように、聴覚が鋭敏になる。
「あ、いた」
俺の声だったけれど、彼女もまた、そう呟いているのが聞こえた。
丸い黒縁眼鏡とキャラメル色のキャスケットを被ってもなお、白鷺岬は白鷺岬だった。周囲が気付いていないことが不思議に思えて来るほどだ。
――奇麗だ
第一声、そう言わずに済んだことに安堵する。
それほど白鷺は奇麗だった。
幾度と夢に見たあの日の白鷺のまま。けれど、ほんのり膨らんだ胸と高くなった背丈が彼女の成長を物語っている。
「久しぶりだな、白鷺」
「そうね。二年ぶりかしら」
「実際に会うのは。ニュースでは何度も見てたけど」
「元カノを追いかけるなんて、あなたも随分と女々しいのね」
「追いかけなくても自然と目に入ってきたんだっての」
四年越しの会話は、思いのほか違和感なく進んだ。
憎まれ口の応酬。そういえば中学生の頃の俺たちはこんなんだったよな。あの頃の俺は中学二年生らしく拗らせていた。肩を竦めて上品に笑う白鷺に目を奪われていると、彼女ははてと首を傾げる。
「さっきからじろじろ見ているけれど、何か変なところがある? 日本は久々だし、何かあるなら教えてほしいのだけれど」
「いいや、別に。強いて言えば、白鷺が目の前にいるのが変な感じだ」
「何それ。帰国することは知っていたんでしょう?」
「帰国したところで会わないだろ、普通」
だって俺たちは、そういう終わりを選んだ。
遠距離恋愛を選ばなかった。破局後に友人になることもしなかった。元カレと元カノとして、疎遠になっていく道を進んだ。
「でも、あなたはやってきた」
「昔馴染みに呼ばれたから久々に会おうって気になっただけだ。白鷺は有名人だしな」
「……? それ以外に何か理由があるの?」
「――っ」
言われてみればそうだ。
わざわざ言い訳みたいに強調しなくても、俺の理由は“それ”以外にない。なのに、別の理由があるみたいな言い方をしてしまった。
「今のは言葉の綾だ。それ以外にないだろ?」
「……そう、ね」
気まずくなった俺は、それで、と話題を切り替える。
「今日は何の用なんだ。帰国して旧友と語らうって柄でもないだろ」
「えぇ、そうね。実はあなたに案内を頼もうと思っていたのよ」
「案内?」
「そう。ここ、分かるでしょう?」
「分かるでしょって、そんなの地図を見てみないと――ぇ?」
白鷺が見せてきたスマホ画面に映っていたのは、見覚えのある一軒家。
っていうか、俺がもうすぐ暮らす予定のシェアハウスだった。
「ちょっと待て。ここに何の用があるんだ……?」
「何の用って……そんなの、決まっているでしょう」
悪戯っぽく笑った白鷺は、あの頃よりも無邪気な表情で問いの答えを口にする。
「私もここに暮らすのよ。よろしくね、同居人さん」
「はぁぁぁぁぁぁぁ!?」
そういえば、あの頃から俺は白鷺に主導権を握られっぱなしだったっけ。
今更ながらそんなことを思い出したのだった。